春さらば(2)2009/04/07

まだ、お花見気分…。
 言葉の意味を調べるとき古語辞典で「さらば」を引くと、「然らば」が出てきます。多くの人が「そうか桜も終わりか」と考えるのは、この言葉(別れるときの挨拶「さようなら」に相当する語)の影響があるからです。しかし「春さらば」は、これとは関係ありません。もし辞書を引くなら終止形の「さる」を探します。「さらば」はその未然形に助詞の「ば」が付いたものです。未然形は事態がまだ起きていないことを示す役割を担っていますが、まだ起きていないが起こるであろう事柄への憧れや期待感を示すときにも使われます。
 元々「さる」は時間が経つにしたがって(話し手の意思に関係なく)物の状態が変わってゆくことを表す言葉でした。移ろう、と言い換えてもよいでしょう。主に時の移ろいや色の変化を示す言葉として使われました。色の例では雨による桜の花の色あせを薄情さに掛けた「雨降れば 色さりやすき 花桜 薄き心を 我が思はなくに」(貫之集)がよく知られています。
 このように「さらば」は、これから移りめぐってくることも、移り去ってしまうことも、どちらにも使える表現でした。だから春だけでなく他の季節にも朝や昼や晩にも自由に使うことができたのですが、万葉集における用例を確かめると実際には秋が7首、春が5首、夕が4首でした。うち1首は「秋さらば 黄葉の時に 春さらば 花の盛りに」と、 秋と春の両方に関係するものです。

新社会人に贈る言葉052009/04/08

 《蒔かぬ種は生えぬ》

 新人研修は順調に進んでいますか。退屈で退屈で外の様子ばかりが気になる人、専ら居眠りに徹する人、面白いと感じて自分でも勉強を始めた人など、きっといろいろ差が出始めたことでしょう。勤め先によっては先に配属を決め、仕事と研修を並行させるところもあるようです。いずれにしても他人は他人、自分は自分です。意味のない研修だと勝手に決めないで居眠りをする前に、本当にその判断でよいかもう一度確かめるだけの余裕をもちましょう。
 この言葉は普通、努力しないで結果だけ期待する人を諫めるときに使われます。企業も役所も、研修をしないで新人にただ働け働けと言うだけでは「種も蒔かずにまあ」と批判されかねません。社員や職員から「そんなこと教わってません」と言われても困るしと考えて研修を行う弱腰の管理者も中にはいるかも知れません。研修の内容も目的も時間数も期間も、職場や会社によって様々です。余所は余所、他社は他社でよいのです。
 皆さんが退屈なのは蒔かれたタネが悪いか、もしタネが悪くなければ畑(皆さん)が悪いのです。タネを蒔く前に畑をよく耕す必要があります。タネに合わせて肥料をやったり、堆肥を入れたり、時には土壌の消毒も必要でしょう。水捌(は)けもよくしなければなりません。それが本来の研修です。
 そして忘れてならないのは、研修は目的ではないということです。研修でいくらよい成績を収めても、それが営業や商品開発などに結びつかなければ何にもなりません。人生の中で仕事もしないで、単に研修を受けるだけで給料がもらえる機会というのはそう何度もありません。他人事でなく、自分の将来の問題と思ってじっくり取り組みましょう。特技の夢に向かって。

春さらば(3)2009/04/08

まだまだ春です、浮かれます。
 夏も冬も朝も昼もない理由は、万葉集ではこれらの「さらば」がいずれも時季が移りめぐってくる意に使われていることと関係ありそうです。例えば夕方になれば日が暮れます。日が暮れれば、愛し合う男女は闇に紛れて密会することができます。しかし朝が来れば、明るくなる前に別れなければなりません。できれば時間が止まって欲しいところなのに、そうした思いを無視して夜は白々と明けてゆきます。それが「朝さらば」の現実です。
 仕事に追われるだろう「昼さらば」についても、また暑くムシムシするだろう「夏さらば」についても、凍えるような厳しい寒さが予想される「冬さらば」についても、改めて説明する必要はないでしょう。これに対して秋はどうでしょうか。現代の人々は、その音が「飽き」に通じるからでしょうか、秋という季節には飽きっぽいとか変わりやすいという印象をもつようです。しかし万葉歌人にとって、秋の到来はもっと複雑なものでした。
 次は大伴家持が妻の死を悼んで詠ったものです。その先に冬が控えているだけに、いっそうの切なさが伝わってきます。ドラマにも登場した梅の花の一首も並べておきます。古代の人々がそれぞれの季節に寄せた思いの一例として味わってみて下さい。

 秋さらば 見つつ偲へと 妹が植ゑし やどのなでしこ 咲きにけるかも

 春さらば 逢はむと思ひし 梅の花 今日の遊びに 相見つるかも

新社会人に贈る言葉062009/04/09

 《ビジネスにしたければ数字で表せ》

 世の中、いつも数字や理屈だけで割り切れるものではありません。義理もあれば人情もあり、公共サービスや慈善事業もあります。しかしビジネスの場合は違います。どんなときでも「個人的な感情をまじえない、金もうけの手段としての仕事」(大辞林)でなければなりません。つまりその商売でいくら儲けが出るか、見込みの甘さ辛さはあっても、とにかくそれを数字で具体的に説明できるのがビジネスです。
 利益とは単純に言えば売上額から原価と経費を引いたものです。経費は直接経費と間接経費に分かれます。直接経費はその商売だけに要する費用です。これに対して間接経費は企業全体の費用を按分比例するのが一般的です。そのため中身も金額もいろいろですが、社員や役員の人件費、家賃・光熱費、通信費・送料、倉庫代、全体広告費くらいは必要でしょう。企業の経営には他にもいろんな費用がかかります。この点だけでも研修中にしっかり教わっておくとよいでしょう。
 さて2009年4月8日の「朝日新聞」朝刊を見ると8面に、高さ100センチの不動明王立像の全面広告が載っています。これを題材に、どうやってビジネスにするか頭の体操をしてみましょう。頒布価格は税込で一括払いが157,500円、限定20体と表示されています。販売数が少ないので売上は完売を前提に考えます。新聞広告など販売経費としていくらまでなら支出できますか。原価として作者に払えるのはいくらまでですか。間接経費の負担はどの程度まで可能ですか。
 そして最後に、その数字で同僚や上司を説得できるか冷静に考えてみましょう。個人的な感情を絡めて公正を欠く関係をつくったり、そうした事情を優先させることを情実といいます。情実はビジネスの妨げとなるだけでなく企業を滅ぼし、公共サービスを私物化し、慈善事業の動機や意義を疑わせます。皆さんの人生・これからの生き方がそうした情実の世界と常に無縁であるよう願うものです。

春さらば(4)2009/04/09

今日も晴天、お山は満開
 万葉集の序(つい)でに万葉仮名の話もしておきましょう。万葉仮名とは平仮名や片仮名が生まれる以前の時代、つまり文字としては中国から伝わった漢字だけが利用できた時代に、当時の人々が日本語を書き記すために考え出した方法です。万葉集の和歌は、いずれも漢字のみで記されています。漢字をあたかも仮名文字のように使い、しかもその代表的な例が万葉集だったので、いつしか万葉仮名と呼ばれるようになりました。
 万葉集の編纂には大伴家持の関与が指摘されていますが、現在の形に最終的にまとめた人物が誰であるかは不明です。しかし奈良時代末期には成立していたと見るのが一般的です。収められた約4500首の和歌を見ると、その作者は皇族や貴族や官人から遊女や乞食まで非常に広範な階層の人々であることが分かります。しかしそれらの人々がみな漢字を書く能力があり、みずからの手で自分の和歌を直接記録したと考えるのは妥当ではありません。
 この時代、和歌を詠むこととそれを文字で書き記すこととは異質の作業だったと考えるのが自然です。漢字の知識がありそれを日本語の記録に応用できたのは、大陸からの帰化人やその2世あるいは3世といったごく一部の人々に限られていました。それが時代が下るにつれて、徐々に官人や貴族へと拡大していったのです。詳細は「日本語の視覚化」(2009.2.23-24)の中で紹介しています。(つづく)

新社会人に贈る言葉072009/04/10

 《過ちは誰にもあるが、過ちから学ぶ人は限られる》

 ヒトはサルから進化した動物です。どんなに気張ってみても、威張ってみても、背伸びしても、見栄を張っても所詮は数ある生物のひとつに過ぎません。ウンチもすればオシッコもします。ご飯を食べなければお腹が空きます。眠らなければ眠たくなり、寝ることを止めれば死んでしまいます。寝たきりでいれば歩けなくなります。暇すぎても惚(ぼ)けるし、忙しすぎても間が抜けたように失策が続きます。うっかり忘れに度忘れに忘れ物でも負けません。間違い、失敗、仕損じ、しくじり、やりそこない等々、人間は日々過ちをしながら生きている動物だとも言えるでしょう。
 ヒトの強味は、そうした失敗が必ずしも死には直結しないことです。言い換えれば、死なないからこそ人間は失敗から学ぶことができるのです。学ぶことによって、もう一段の成長が期待できるのです。失敗は「成長の母」だと思ったらよいでしょう。大事なことは失敗を悔いたり、いつまでも失敗にこだわり続けることではありません。中身が同じ失敗・よく似た失敗は決して繰り返さないよう冷静に失敗の原因・状況・背景などを分析し、大脳の失敗辞書に記録して将来に備えることです。次は中国・春秋時代の思想家孔子とその弟子たちの言行録「論語」にある言葉です。

○過ちを文(かざ)る

 失敗から何も学ばないどころか、逆に「失敗を取り繕ってごまかそうとする」ことをいいます。大事な成長の母を踏んづけるようなものです。しかし、これがかなり手強い誘惑なのです。人間だからこその弱みだとも言えます。今から心しておきましょう。

春さらば(5)2009/04/10

やっぱり春が一番!
 万葉集の面白さは和歌そのものがもつ古代の人々の奔放さや家持に代表される繊細優美な作風だけではありません。文字としての日本語の歴史を知る手掛りでもあるのです。例えば「春さらば」は「波流佐良婆」や「春去者」と記録されています。「秋さらば」も「安伎左良婆」「安伎佐良婆」「秋去者」「秋佐良婆」と4種類の書き方がなされています。「夕さらば」の場合は「暮去者」と「夕去者」に分かれています。
 これらの差が物語るのは、当時の知識人が大和言葉と漢語の知識とを照合して同じ意味をもつものを探し出そうとした苦闘の跡です。上手く見つかれば大和言葉をその漢字の訓として使い、季節の「はる」は「春」の訓に、「あき」は「秋」の訓になりました。「ゆう」の場合は「夕」の訓にも「暮」の訓にもなっています。その差は時に記録した人の知識の差であり、時にはそれぞれの漢字に対していだくイメージの差だったと言えます。
 そして見つからなければ漢字の音を一音ずつ日本語の音にあてはめたのです。「はる」が「波流」だったり、「あき」が「安伎」だったり、「さらば」に3文字の漢字が使われたり時に「去者」と漢文風に記録されたのです。万葉集には先人たちのこうした格闘や作業過程が記録されていると見ることもできるのです。是非皆さんなりの新しい楽しみ方を見つけて井上由美子さんを驚かせてあげましょう。(完)

彌栄・弥栄・いやさか2009/04/11

高遠小彼岸桜の彌栄を祈念して
 片田舎の結婚披露宴でも、大都会の一流ホテルの結婚披露宴でも祝辞や来賓の挨拶があると必ず一度は耳にする言葉である。「それでは、ご両家の彌栄を祈念して万歳三唱を行います」などという場面に数え切れないほど遭遇した。が、未だかつて「いや栄え」などという話は聞いたことがない。目で追う日本語(文字)と耳で聞く言葉が頭の中でつながっていない証拠でもある。あるいは若いときから他人の挨拶など上の空でしか聞いていなかったのかも知れない。いずれにしても耳学問の程度は今どきの大学生かそれ以下だろう。
 本来の表記法は「彌栄」だが近年は新聞を始めとして人名用漢字の「弥」で代用される例をよく目にする。「いや」は「いよいよ」とか「ますます」とほぼ同じ意味である。特に「いよ」とは発音の上でも「や」と「よ」の差しかなく言葉の歴史を考える上では非常に近い関係にある。「いよ」は漢字「愈」(正字は逾の之繞部分を心に替えた形)の訓として用いることが多いが、この字にはどこまで進んでも(上っても)さらにその先があるというような意味合いがある。一方、「彌」の場合は徐々に増えてゆき次第に満ち溢れた状態に近づくといった感じが強いため、意味合いとしては「ますます」により近いと言える。そのためか「彌栄」という古風な感じのする言葉ではなく、「益々」(ますます)を用いる人も増えている。
 「さか」は恐らく「さかり」とか「さく」と同じような意味合いを表現する発音(声)から生まれ、後にそれぞれ別の言葉として独立したものだろう。生命がみなぎる、溢れ出るような生の充実、生きていることの実感と幸福感に充たされているといった意味合いが強い。咲き誇る満開の桜、すくすくと育つ幼子を囲んだ3世代家族などを象徴する表現であり、言外に種の保存の永続性が暗示されている。「いや」には、この暗示された永続性を公にする働きがあると言えよう。

愛人と手紙2009/04/12

春のモミジ
 日中国交正常化(1972年9月)から10年ほど経った頃、中国から一人の留学生がやって来た。北京大学を卒業した相当なエリートという評判であった。早速、研究室の有志が呼びかけ盛大な歓迎会が開かれた。出席者が揃ったところで、眼鏡をかけた長身の見るからに秀才といった感じの男性が司会者に促されるように立ち上がり、流暢な日本語で挨拶した。男性は自己紹介が終わると、自分が座っていた席の方を見て手招きし、若くて実にきれいな女性を呼び寄せた。そして「皆さん、ぼくの愛人です。どうぞよろしくお願いします。」と頭を下げた。「愛人」という言葉が発せられた瞬間、会場にはどよめきが起こり「さすがはエリート」「やっぱり中国人は大物だね」などとあちこちで急にお喋りが始まった。留学生が「愛人」の意味に気づき、日本の友人たちに夫人を紹介し直したのはそれから1ヵ月ほど後のことである。
 次は北京を訪れた日本人旅行客の話である。絵はがきを買い込み、友人にせっせと旅先から便りを書いた。さて切手を貼って投函しようと、路上で出会った親切そうな女性に郵便局を教えてもらうつもりで一枚の紙片を取り出し楷書で「手紙」と書いて渡した。ついでに絵はがきも見せた。気の毒そうな顔をして頷いた中国人が手提げ袋の中から取り出したのは粗末な鼻紙(ティッシュペーパー)だった。中国も日本も漢字の国である。発音の聴き取りは無理としても共通する漢字なら目で見て意味が伝わるだろう、と考える人は今も少なくない。

新社会人に贈る言葉082009/04/13

 《まず善良な市民たれ》

 民間企業に就職した場合でも、公務員になった場合でも、あるいは他の仕事に就いた場合でも、一人前の社会人として認められるためには、まず善良な市民でなければなりません。善良な市民であることが社会人としての絶対条件です。仕事ができる・できない、仕事がある・なしにかかわらず常に善良な市民であることが求められます。
 但し善良な市民といっても、その姿は一様ではありません。どの姿を理想と考えるかは皆さん自身の判断に委ねられています。善良な市民の姿は、皆さんのこれからの生き方そのものでもあるのです。以下に典型的な4つのタイプを挙げておきます。堅苦しく考える必要はありませんが、あまり安直に考えるのも感心しません。戒めを忘れたり軽い気持で無視して、辛酸を嘗めた人が少なくないからです。

○タイプ1:ことさら法を犯さない。仮に法を犯してまで楽しもうとか儲けようとか得をしようとか考えることがあっても決して実行はしない。(善良な市民としての必要条件)
○タイプ2:(タイプ1の内容に加えて)選挙での投票は市民の義務と考えるが、政治への関心は国政に限定されることが多い。
○タイプ3:(タイプ1の内容に加えて)選挙での投票は市民の義務と考え、市区町村政から国政まで幅広く関心をもつ。
○タイプ4:自分の居住する地域が安全かつ清潔であるよう願って自治会や町内会の活動、地域のボランティア活動にはできるだけ参加する。