■政治力--新釈国語2009/07/14

 政治を行う際に要求される様々な能力のこと。そうした能力がどれだけあるかを示す力量の意にも用いられる。政治は国家の統治にかかわる事柄であり、そうした統治にかかわる諸活動全般をいう語である。しかし利害が対立する人々や諸集団間での利害を調整して国民の融和を図る活動が目立つことから、集団間での駆け引きや関係者への根回しなどを巧みにそつなく行ってより多くの国民がより多くの満足を得られるように処理する活動、と狭義に解されることも少なくない。そのため政治力は理論や規則のみでは調整できない複雑な問題を現実的に処理する能力と狭く受け止められることもあるが、本来は広く国家の統治にかかわる事柄を全て含んだ上での巧みな処理能力を示す言葉である。
 なお政治的影響力は政治には直接の関わりをもたないものの、政治権力の行使には影響を及ぼしうる力量があることをいう。

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■政党崩壊--新釈国語2009/07/14

 代表など名目上の執行部は存在しても政党としての組織的な活動を行うことが困難な状況。広義には、党員が執行部の指示を無視して勝手に行動し、執行部がそれを制止することができない状態に陥る場合なども含まれる。政党は、政治に関わる主義や政治的な主張に基本的な共通項または多くの共通点を持つ者が寄り集まって組織する団体のことだが、価値観から行動様式や戦略・戦術まで全てが常に一致するわけではない。そこで議論の進め方や意見集約の方法・手続きなど小異と見なせるものは党規や党則と呼ばれる約束事を設けて処理し、本来の目的である主義や主張を大同にそれらの実現を目指すべく議会運営や選挙活動などを展開している。政党崩壊の多くは大同に無理や矛盾が生じて起こるか、または小異と見なされた問題が感情的に拡大しのっぴきならないところまで進んで起こる。他に、哺乳類か鳥類かさえ不明な者を「蝙蝠も鳥のうち」などの論理や時の勢(はず)みで多数、党に迎え入れた場合にも自壊や自滅の恐れがある。

○無駄花(10)--夏野菜2009/07/14

 親の小言と茄子(なすび)の花は千にひとつの無駄もない、とは誰が言ったものだろうか。今その小言を言えない親が増えている。学校に入り勝手放題をして初めて他人から小言を言われるという子どもが少なくない。そのため小言に熱が入ったり小言が激しかったりすると、免疫のない未経験の子どもの中には逆上して相手に暴力を振るう者まで出る始末である。誠に困った世の中だ。
 さらに困ったことに、こうした反発を恐れるあまり教師の側も子ども達に小言を言わなくなってしまった。小学校で言わなくなり、中学校で言わなくなり、高校や大学や社会にその責任を先送りしてしまった。今や先送りは官僚の特技でも政治家の特技でもなくなり、日本社会全体の特技になりつつある。
 新卒といわれる社会人の卵を受け入れた職場では企業も役所もみな社員や職員に小言の予防注射を打つところから研修を始めなければならない。そうしないと自信を無くして会社や職場に足が向かなくなってしまう。すぐに辞める者まで出てしまう。経済学や経営学では決して教えることのない大量の無駄にあちこちで悩まされている。(つづく)

○捩花--梅雨明け(1)2009/07/14

 気象庁は14日、関東甲信地方が梅雨明けしたとみられると発表した。本州では一番早い。昨年と比べて5日早く、平年よりも6日早いことになる。しかしこれはあくまでも現時点での予測であって、後から「ごめんなさい」がないとも限らない。
 民間には梅雨明けを占う言葉がいくつか伝わっている。このネジバナを使ったものもあって、てっぺんまで咲き終えると梅雨明けと聞いた。庭には毎年たくさんのネジバナが顔を出す。6月の初めから咲き出し、早いものは下旬には咲き終える。しかし、まだ暫く楽しめそうなのも残っている。ネジバナを見ているだけでは気象の予報はできそうにない。
 これが蘭(らん)の仲間であることはカメラを近づけると分かる。しかし精々15センチかそこらの花だから撮影には苦労する。毎年、何回もシャッターを押してきたが、まだこれはという写真は撮れていない。物の本には植物の丈を30センチなどと書いたものも見かける。そんな大物にはまだ遭ったことがない。

 みちのくの しのぶもじずり 誰ゆえに 乱れ初めにし われならなくに  河原左大臣源融

◎水田の風--都会の田圃(9)2009/07/14

 田植えが済んで10日ほど過ぎた。補食も終わり、根付いた苗がこれから本格的に生長を始める。水田をわたる風が心地よい。根が張れば一気に丈が伸び始め、風景も一変する。今は見える田圃の土も稲の根元も水もみんな見えなくなる。異常低温や日照不足さえなければ突然、葉稲熱病などに襲われることもないだろう。徳さんや奥さんのためにも、そう祈りたい。

◎一歳児(5)2009/07/14

 夕方6時を過ぎると、保育園では補食を摂らせる。ちょっとした、おやつのようなものである。乳児の場合は粉ミルクを溶いて飲ませるが満12ヵ月を過ぎると、こちらもおやつに切り替える。心配性の保育士の中には一週間分のメニューをお昼と補食に分けて保護者に示し、食べ慣れないものが混じっていないか、過去に問題を起こした食品がないか、よく点検して欲しいと頼んでいる。
 しかし食材に注文が付いたという話は滅多に聞かない。多くの親はそれどころではない、というのが実情のようだ。乳児ではないが、朝からカレーの臭いを漂わせて保育園へ来る二三歳児もいる。顔見知りの子はたいてい「○○せんせー」と駆け寄って来て頬ずりなどをしてもらう。だから朝、家で何を食べさせてもらったかがすぐ分かる。私立の中には園長が信念をもって親の指導に努めるところもあると聞く。だが、公立の場合は何事も大過なくが基本である。家でどう過ごすかは役所の責任範囲ではない。何も食べてこないよりはましだろう、と近頃は半ば諦めている。
 さて例の固太りの子が目出度く1歳の誕生日を迎えた日のことである。その日から補食も固形物に替わった。その日の補食は小さなお煎餅が2枚だった。1枚を口に入れ舐め回していると、溶けていつの間にかなくなってしまった。すぐに、もう1枚を口に入れた。その間、1分もかからなかった。その子は3枚目をねだった。「もうないの」と言っても承知しなかった。納得させるために、そこら中の引き出しを開けたり、箱をひっくり返したりして見せた。しかし承知しなかった。
 物足りないのだ。胃袋に消化液があふれ、口に唾液が溢れ出て身体が納得できない様子だった。大きな身体の子どもに味だけは一人前の、しかし量としては中途半端なものを食べさせるのは罪である。こちらも迂闊だったが、事前に気づいたとしてもどうすることもできない。決められたとおりの時間に、予め準備されたものを決められた通りの手順で食べさせるしかない。大人でも海老煎餅などは一枚食べると、止めどなくいつまでも食べたくなって困る。最後は「ゴメンね、もうないの」と何度も謝り、抱きあげ抱きしめて補食の部屋を出た。(つづく)