■仏の顔も三度--新釈国語2009/07/17

 仏の顔も三度撫づれば腹立つる、を略した言葉。普段どんなに優しく性格が穏やかで滅多に腹など立てたことのない人でも、道理に合わない無法無体を重ねられれば、仕舞いには怒り出すことをいう。仏は柔和で慈悲深く滅多なことでは腹を立てない人を象徴的に表す言葉。三度には三度目の正直などと同様、2回くらいは大目に見ようという日本人の鷹揚さ・寛大さが表れていると見ることもできるし、数字が表す回数よりも度重なることへの苛立ちが表れているとみることもできる。この言葉は西暦2006年秋から、日本の与党が国民に信を問うことなく年中行事のように総理大臣の入れ替えを始めて急速に広まった。

○無駄花(12)--夏野菜2009/07/17

 今日の一枚は米茄子(べいなす)と呼ばれる品種の雌花を撮したものである。雌しべが溌剌奔放に開いている。また蔕(へた)の部分に鋭い棘(とげ)が何本も出ていることにも注意したい。茄子を枝から切り取るとき、この部分に指が触れると刺さって激しい痛みを感じる。もっとも父の指先は長年の作業で野球のグローブのように皮膚(かわ)が厚くなり、茄子の棘くらいでは刺さることはなかった。
 茄子(カシ)は中国から伝わった漢名である。熱帯インドから伝わり、多年生が温帯で一年生に変じた。中国でもこの呼称を用いるが、草冠に加と記す「茄」の字の原義は「説文」によればハスの茎を表す。ついでハスの意にもなった。ナスになったのは、さらにその後である。加には上に載せるという意味があるそうだ。
 日本で何故これに「なす」の訓を当てたかは不明だが、現代中国語ではこれを giezi(eにアクサン)と発音する。日本語音の「カシ」なら場合によっては「なす」に聞こえてもさほどの不思議も感じないが、giezi ではそうもゆかない。いつ誰が伝えたものか精査してみないと軽々には判断できない。正倉院の時代よりさらに遡る必要があろう。(これで茄子の項は終り、次回はトマトの予定)

  朝風に茄子の無駄花落るなり 雨亭

◆自民党総裁表紙論(2)2009/07/17

 自民党所属の国会議員384名はまず、上記のどの意味に「表紙」という語を解しているのか一人一人明らかにする必要がある。それは1年に157億を超える政党交付金を消費し、歳費など受け取って活動する国会議員としての最低限度の説明責任を果たすことでもある。自民党においては総裁という役職がいったい何であるのかをまず明確にしてもらう必要がある。取り外し自由の見せかけに過ぎないカバーなのか、それとも背だけを固めた仮表紙なのか、あるいは党員という名の読者が自分の好みで後から付けた本表紙なのかということをはっきりさせる必要がある。「広辞苑」や「大辞林」に記されたような「外側につける」といった曖昧な表現は許されない。そのような表現では、選挙の時だけ羽織って格好良くみせるジャケットだろうと疑われるだけだ。そして前回の郵政民営化をスローガンにした選挙と同じく、またしても騙そうとするのかと有権者を益々怒らせるだろう。
 また「包装紙」との表現もあるようだが、書店で出す包装紙はジャケットの上にさらにもう一枚羽織るものである。単に無駄であるというだけでなく、中身を一層見えにくくする役目をも果たしている。国民にはもはや悪意ある行為としか映らない。そこまでして有権者を騙そうとする意図、愚弄する目的は何なのか、これについてもやはり明確な説明が必要である。
 繰り返すが、国民から厳しく問いつめられているのは総裁や党執行部やそれを裏で支える大ボスや小ボスだけではない。小泉郵政民営化という仮表紙のついた書物を、これが本当の表紙ですと偽って選挙を戦い、大勝利するやあの表紙は1年しか使えないものでしたと、国民の許諾も承認も得ないまま勝手に取り替えてしまった自民党そのものにある。とりわけ1年ごとの取り替えを勝手に行い続けている所属の国会議員全員にある。表紙の取り替えに関与したこれらの議員全員に、まさに無断で取り替えたことの説明責任が求められている。
 書物も所詮は紙である。そうたびたびの表紙取り替えに耐えられるほど丈夫にはできていない。すでに書物本体がぼろぼろになっていることに気づかないまま、いくら立派そうに見える素材を用意してみても本体側の接着面がぼろぼろでは持たないことをもっと知る必要がある。この論が腑に落ちない向きは是非、手元の上製の書物を取り出してその表紙と本体とがどう接着されているか確かめることをお勧めする。(了)