◎一歳児(7)2009/07/18

 子ども達の性格がいつどこでできるものか、そのことに保育園や保育士がどのくらい関わるものか、いつも不安を抱えながら仕事をしている。子ども同士を眺めて比べることは、その目的を誤ると大きな問題を引き起こす。親が自分の子どもと他人の子どもを比較するのはあまり意味がない。あるとしたら、それは自分の顔を鏡で見て点検するくらいの意味だろう。優劣のための比較は、子どもにも自分にも不幸をもたらしかねない。
 しかしだからと言って全く無関心なのも困る。最低限、自分の子どもを見守ることと思いやることくらいはして欲しい。こういう話は時に若い母親に対する非難とか批判と受け取られかねない。今どれくらい若い母親が大変な状況におかれているか、厳しい状況にあるか知らない者の言うことだと叱られそうだ。それでも、仕事を優先して子どもはその次というのは普通ではない。おかしいと思う。
 朝、オムツを汚したままで保育園に子どもを預ける母親がいる。そのことに気づかないとしたらこれも問題だ。気づいていて、それを黙っているのも人間としては問題だ。アトピー性皮膚炎で見るも可哀想なほど顔から首から腕からそこら中が腫れたり、ただれている子どもを時々見かける。その子どもを朝、「ハイ、これ薬です」と、それだけ言って預けてゆく母親もいる。こういう話は挙げ出したらきりがないほど目に付くし、報告される。保育園としてどこまで踏み込んで対応すべきなのか迷い続けている。
 もっと気になることがある。大勢の子どもを見ていると否応なしに発達遅滞や異常行動の問題にぶつかる。長年の経験で、歩き始める時期や言葉を話し始める時期にかなりの差があることは知っている。だからさほど心配しない。それは子どもの表情や周囲への反応を見ているとだいたい見当がつく。この点だけは恐らく母親よりも保育士の方が気づくのが早いだろう。毎日接していると勘のようなものも働く。
 問題は気づいた後である。親とのよほどの信頼関係がないと迂闊なことは口に出せない。連絡帳に何かそれらしいコメントがあるとか、親の方から何かありませんかと聞かれれば、遠回しに家での様子を聞いてみるといったことも可能になる。しかし朝は忙しいから親の側にその準備がないと無理だし、夕方も時間が遅くなると担当者の都合もあってなかなかすぐには機会をつくれない。
 そんなときは毎日毎日、昨日の感想は何かの間違いではないか、思い過ごしではないか、きっと取り越し苦労だろうと考えたり、表情や反応が昨日よりもよくならないかと精一杯だっこしてあげたり、おんぶしてあげたり、遊んであげたりして見守るしかない。そして、もう少し自分の子どもと向き合って一緒に過ごして欲しいと願うしかない。(終)

○分蘖の様子--続・田圃のある風景2009/07/18

 一昨日の写真には稲がすくすくと育ち、株の太くなっている様子が写っています。しかし分蘖の細部までは分かりません。そこで昔、田圃に入って田植えをしたことのある人には当時を思い起こしていただけるよう、またそうでない人にも分蘖の様子がお分かりいただけるように、もう少し近くで撮影したものをお目に掛けましょう。途中に節ができ、そこから枝分かれしている様子が写っています。水に映った青空にもご注目ください。
 なお「蘖」は草冠と木の字の間にツイという字(追から之繞を除いた部分)と辛とを並べて書きます。ひこばえの意です。漢音はゲツですが分蘖の場合は清音化して「ブンケツ」と読みます。下の「木」を「米」に替えただけの、よく似た字もあります。もやしの意です。音のゲツは変わりません。

■政治生命--新釈国語2009/07/18

 世間から政治家として認められ、選挙で選ばれ続けること。政治生命を絶たれる原因には政敵によるデマ攻撃などの謀略もあるが、多くは油断や奢りを背景とした不明朗な金銭の授受、不用意な発言、軽率な行動、異性関係のもつれなどである。政策失敗の責任を取ったり政争に敗れてみずから引退する政治家は少ない。政治家の生殺与奪(せいさつよだつ)は有権者である国民が握っていることをもっと自覚する必要がある。自覚はその時々の投票率で表される。

■したたか--新釈国語2009/07/18

 それぞれの人物が持つ強さや相手にしたときの手強さを表す言葉。あの手この手を駆使しても容易に靡(なび)かない、強くて手強いさまをいう。本来は官僚を相手にその政策実現を目指す政治家にこそ求められるべき資質だが近年、世襲や粗製濫造などの影響でこれを欠く国会議員が少なくない。むしろ対政治家との関係で逆に、こうした手強い対応をみせる官僚が増えているとの指摘もある。

 ⇒http://atsso.asablo.jp/blog/2009/05/29/ 世襲

○ほおずき1--梅雨明け(5)2009/07/18

 ほおずきは不思議な植物である。花が咲いてもその茎や葉の特徴を知る者でなければ、これを見分けることは難しい。東京は浅草の浅草寺境内で開かれる縁日の、ほおずき市で見るような鮮やかな朱の色はどこにもない。畑や庭の隅で、たいていは雑草に混じってひっそりと咲いている。写真は畑の隅に咲く雌花を撮した。根元近くには青い小さな袋が出来はじめていた。
 花の感じは少しピーマンなどに似ている気もするが、植物としては茄子の仲間に分類される。秋茄子や取り忘れた茄子の中には身が割れて、時に中の種子の粒々を覗かせるものがある。ほおずきの袋の中には丸い実が付き、その中は白い粒々の種子であふれている。粒の大きさは違うが、ナス科と聞いて連想するのはこの種子ぐらいだ。花は夏の季語とされ、朱色の紙風船のような袋を付けたものが秋の季語である。

  鬼灯の一つの花のこぼれたる 富安風生

■矛先(ほこさき)--新釈国語2009/07/18

 誰かを論難するときの言葉の向かう先。言葉で誰かを責める非難の意にも用いられる。矛とは古代に使用された武器の一種で、両刃の剣に長い柄が付いているものをいう。この柄を両手で握り、相手を狙って鋭く突き刺すように使う。その剣の先が矛先である。常に攻撃対象の相手に向けられることから、この意が生まれた。武器としての「ほこ」には鉾、戈、鋒、戟などもあるが、特に矛は使用頻度の高い熟語「矛盾」(むじゅん)の一要素として知られる。現代ではもっぱら非難合戦などの争いごとを示すときに用いられ、「矛を交える」は争いごとを始める意、「矛を収める」はこれを止める意となっている。