●夕部(ゆうべ・3画) 22009/07/20

 ところが「説文」では月の半ば見える形にかたどり、これを日暮れの意としている。右に図示したものが金文(左)と篆文(右)にそれぞれ見える字形である。
 夕部に分類される字ですぐに思い浮かぶのは外(ガイ・ゲ)、多(タ)、夜(ヤ)くらいであろう。夢(ム)、夥(カ)を自信を持って挙げられるのは漢字に詳しい人だ。ではこれらの字は全て月に関係があるのかというと、決して一様ではない。まず外から見てゆこう。この字が卜部でないことはすでに述べた。夕と卜から成る形声文字だが、この夕は実は月ではない。占いに使うため亀の甲から肉を掻き取るさまを表していて次回説明の肉月の仲間だ。このさまからはずす意が生まれたとされる。
 多は夕を二つ重ねた会意文字である。この夕も実は肉をかたどった肉月である。それが重なることで、たくさんあるという意を表している。夥は果と多からなる形声文字である。果は木の実を表し、木の実のたくさんあることを示す。だからこれも強いて分ければ肉月の系統に入る。
 結局、月に関係するのは夜と夢である。夜は亦と夕を組み合わせた形声文字で、前者が音のヤを表している。亦の音はヤクだがクは省かれている。意味は後者の夕によって示され、古い意の夜を表している。夢は夕の上に草冠と網頭(あみがしら)とワ冠を重ねた形声文字である。この夕もやはり夜の意で、残りが音を表すために使われている。いずれも一筋縄ではゆかない文字ばかりだ。

■自分の首を絞める--新釈国語2009/07/20

 結果として自分を苦しめるような愚かしい行為や軽はずみな行為をたとえていう。誰も自分で自分の首を絞めようなどと思って行動を起こすことはない。そうではなくて、楽になろう得をしようと考えるから始めるのである。しかし結果は時に思惑とは逆になり、今以上に苦しく悪くなってしまうことがある。だから用心が肝心なのである。人が用心を忘れ、あまり深く己(おのれ)を顧みることなく、得をしようと欲で物事を始めたとき起こるのがこういう結末である。
 国民に信を問うことなく政争を繰り返す政治家風の輩(やから)、政党の力とタレントの人気を区別できない衰弱頭の政治家、何でもポスターに頼る陣笠議員など、地道な日常活動の不足しがちな人々がテレビ映りのために無理な演技に走る場合はとりわけ注意が必要である。

○立葵1--盛夏2009/07/20

 タチアオイと聞いてすぐに浮かぶのは青空の下、線路際で咲くこの植物の立ち姿である。空にはじりじりと照りつけるまぶしい太陽があり、アブラゼミがうるさく鳴いている。時は夏休みである。だからちょうど今頃のことになる。
 だがタチアオイが咲き始めるのは随分早く、近頃は5月の末には咲き始める。まだ丈の低いうちから咲き始めて、上へ上へと咲き上がってゆく。その間、丈も同じように伸びる。まるで花と競争をしているようである。そして開花がてっぺんに追いつく頃、秋風が吹き始めて暑かった夏は終りが近づく。ほどなく夏休みも終わる。いつも残った宿題に頭を抱えたものである。

  着く汽車を迎えるように立葵 まさと

■優良誤認--新釈国語2009/07/20

 実際よりも著しく優良であると表示したり広告宣伝すること、また他の商品に比べてあたかもその商品が優れているかのように顧客に思わせる命名・品質表示・広告宣伝などを行うこと。具体的には普通の牛肉を国産有名ブランド牛肉であるかのように表示して販売すること、人造ダイヤを使ったネックレスを天然ダイヤであるかのように表示して販売すること、入院給付金の計算方法を実際とは異なる事例や説明によって医療保険の販売をすることなど多くの例がある。いずれも景品表示法で禁じられ、違反する行為があると認められる場合は公正取引委員会による排除命令などの措置がとられる。うまい話や都合のいい話はたとえ相手が有名企業や老舗であっても、うっかり載せられないような用心深さが常に必要である。

 ⇒http://www.jftc.go.jp/keihyo/yuryo.html 優良誤認

 なお政党のマニフェストや立候補者個人の公約の中にも同様の手段を用いて有権者に誤った認識を抱かせるものが紛れ込んでいないとも限らない。投票先の選択に当たっては何度も同じ手に惑わされない冷静な判断力と人を見る目が求められる。

 ⇒http://atsso.asablo.jp/blog/2009/07/01/ 人を見る目

○欅の幹の蝉の羽化--盛夏2009/07/20

 近所の子ども達が「蝉の羽化が始まったよ」と教えてくれました。つい先ほど夕方5時過ぎのことです。樹齢200年を超える欅の大木の地上1メートルほどの高さまで這い登った蝉が、ここを産所と殻を脱ぎ捨て始めていました。子ども達は遊んでいる途中で地面から這い出す蝉に気づき、ずっと観察を続けていたのです。嬉しそうに、はしゃぎ回っていました。

  日は西に欅の幹の蝉の羽化 まさと

○ほおずき3--梅雨明け(7)2009/07/20

 ほおずきの漢名は「枕草子」にも見える酸漿(サンショウ)である。古代中国の人々が注目したのは、この植物の葉や袋の色でも、袋そのものでも、もちろん花でもなく、熟しかけた実の酸っぱさであった。漿とは汁の意であり、ここでは実の中に種子と一緒に含まれる液体を指している。ここに中国と日本との民俗の差があり、文化の差があるように感じる。
 一方、日本では「古事記」に「赤加賀知と謂へるは今の酸漿ぞ」とあって、中国から漢名が伝わる前は「かがち」とか「あかかがち」と呼ばれていたことが分かる。古代において「あか」は明るいの意であり必ずしも現代の赤と同じではないが、鮮やかな朱色を指すものであろうことは容易に想像できる。また「かがち」は「かがよひ」や「かぎろひ」と同じ起源をもつ言葉であり、静止していながら時々は揺れて光る物体を意味する。
 これらの記述は、ほおずきが日本古来の野草であること、海外から渡来したとしてもそれは二千年を遙かに超えた昔であること、列島の先人達がこれを野原にあって赤く明るく輝く不思議な植物と見ていたことを示している。実を口に含み、種子を吐きだして、膨らませて遊ぶようになったのは中国の影響か独自に考え出した遊びかは不明だが、平安期以後の比較的新しい遊びかも知れない。(つづく)