■往生際--新釈国語2009/07/27

 追いつめられ、もう駄目だと観念して諦める瞬間。観念して諦めるさまにも用いられる。多く「往生際が悪い」の形で用いられ、諦めきれずにいつまでもぐずぐずしているさまをいう。往生はあの世に「往って生まれる」の意であり、死後に極楽など他の世界で生まれ変わることをいう。際(きわ)はその間際を指す。この言葉は、早く退陣または退場して欲しい相手がいつまでもそこに踏みとどまっている場合などに、退陣や退場を望む側の気持を代弁する表現としてよく用いられる。

●月(つきへん・4画) 22009/07/27

2.つきへん
 漢字にも運命がある。夕月は夕部に残ったが、他の月は月偏を誇ったのも束の間、海を渡った日本国では今や肉月に分類され筋肉などと混同される有様である。これでは米国の印象がよくなろうはずがない。つくづく文化政策の大切さ、文化侵略の危うさを感じる。寄らば大樹の陰もいいが、昨日まで鬼畜生だと言っていた相手にすり寄るのは誉められた行為ではない。武士は食わねど高楊枝の気概はどこへ失せたのだろうか。
 しかし「貧しくとも清貧に安んじる気位、たとえ痩せ我慢と言われようとも耐える強さを持ちたい」と力んでみても歴史を繙けば、有(ユウ)のように元々は肉部だったものが誤って月の仲間に入れられたり、服(フク)のように月とも肉とも無縁のものがいつの間にか月と誤認されて仲間入りするなど本家の歴史にも多少の怪しさはある。
 さて月偏の字はいずれも月の動きやその満ち欠けなどに関係している。まず朔(サク)は月が蘇るの意である。左側のゲキ(逆から之繞を除いたもの)がそれを表し、月の初めのついたちの意となる。これに対し望(漢音・ボウ、呉音・モウ)は満月の意である。最初は人が背伸びをし目を見張って遠くをのぞむ姿をかたどった象形文字だったが、途中から満月に変わった。今は形声文字として扱われ陰暦十五日の意だが、元の意味も残し眺望や希望といった熟語の中に生きている。
 期(漢音・キ、呉音・ゴ)は其(キ)の部分がめぐるの意の廻から来ていて月がひとめぐりする意である。つまり一カ月の意である。何々を期してなどという場合の「時を定める」とか「定めて会う」とか「約束する」も元はここから始まっている。熟語の期成や期待はこの意である。これらに比べれば朗(ロウ)は非常にわかりやすい形声文字である。月が光を、良が清らかさや美しさを表して、ほがらか、あきらかの意を表す。明朗の明(慣用・メイ、呉音・ミョウ)にも構成要素として月が含まれるが部首は日偏である。明るさで負けるからだろう。
 月は明るさだけでなく、しかし暗さだけでもない誠に朦朧としたさまも表すことができる。朦(モウ)も朧(ロウ)も月偏の形声文字であり、いずれもおぼろの意を表す。朧の旁の龍は元の音はリョウだが転じてロウとなった。なお和語としての「おぼろ」は春の宵の薄く雲がかかったような空を表現する言葉である。

○木槿--盛夏2009/07/27

 唐の詩人・白居易の放言詩に「槿花一日榮」(きんかいちじつのえい)というくだりがある。「平家物語」の冒頭にも通じる栄耀栄華の儚(はかな)さを詠ったものである。ムクゲの花は美しく清楚だが、その寿命はたったの一日しかない。朝咲いて夕方には萎み、やがて散ってしまう。華やかさの中に、どこか寂しさをたたえた花でもある。

  墓地越しに街裏見ゆる花木槿 富田木歩