○待宵草(2)--盛夏2009/08/01

 一般に帰化植物は繁殖力が強い。背高泡立草は空き地を席巻し、西洋蒲公英は関東蒲公英などを駆逐しつつある。その強さは肉食系の多い欧米人のイメージと重なるものがある。そのせいか、ひがめなのか、ずっと草食中心の生活を送ってきた日本人男性には帰化植物も欧米人もなかなか好きになれない時期があった。だが今の若者にはそんな気配はみじんも感じられない。それだけ日本人の食生活が変わったということかも知れない。
 しかし帰化植物の中にもかつての大和撫子並みに弱々しいのもあって、そういう種類は日本列島に勢力を拡げられないまま、いつしか姿を見せなくなってしまう。その代表格が月見草である。だから待宵草が時に月見草と呼ばれることはあっても、正真正銘の月見草が生きて咲く姿を日本の山野で見ることはまずないという。
 生誕百年を迎え何かと話題の多い太宰治は1938年(昭和13)秋、山梨県の御坂峠に滞在し多くの短編を書いた。その中のひとつ「富嶽百景」は月見草をモチーフにした小品であり、有名な「富士には月見草がよく似合ふ」の言葉が2回も記されている。月見草に至っては何と8回も登場する。数える方が驚くほど月見草に入れ込んでいる。
 だが、この花はおそらく待宵草であって月見草ではない。その根拠は太宰自身が記録した「ちらとひとめ見た黄金色の月見草の花ひとつ、花弁もあざやかに消えず残つた」の中に明確に記されている。月見草の花は白であって黄金色ではない。鮮やかな黄金色というのであればまず待宵草かその仲間と考えて間違いない。先日の写真も今日の写真もマツヨイグサの仲間を撮したものである。(つづく)

 ⇒http://atsso.asablo.jp/blog/2009/06/18/ 桜桃忌--夏便り

◆他人事・ひとごと2009/08/01

 長く岩波書店で校正を担当された古澤典子さんが、これを「タニンゴト」と読む不思議な言葉が出現した、と嘆いたのはもう20年以上も昔のことになった。「ひとごと」は「人事」と記すと「じんじ」との混同が懸念されるため明治以来「他人事」が多く用いられるようになったが、言葉そのものは「紫式部日記」や「徒然草」にも記される日本人にとって馴染みの深い表現である。その意味も「他人のこと」だけに限定した狭いものではない。

 第一これを「タニンゴト」と読んでは「他人事言えば影がさす」や「他人事言わば筵(むしろ)敷け」はどうなってしまうのか。そこまで語彙が豊かでないことを、みずから宣伝して歩くようなものである。岩波書店版「広辞苑」は、こうした西島麦南以来の口うるさい校正者に守られながら、この奇妙な語についてだけは何とか体面を保ってきたはずであった。だが、それも第5版(1998年11月)で「たにんごと」から「ひとごと」への参照を付けたことによって変ってしまった。「ひとごと」の項には次の解説が付け加えられた。

  近年、俗に「他人事」の表記にひかれて「たにんごと」ともいう。

 もし、ここまでするのであれば「俗に」だけではなくて、末尾に「が誤り」と付け加えるべきだった。そうしないと上述の格言などの説明に支障を来すからだ。語彙数を増やし実用も重視したい若い編集者の発想は理解するとしても、「広辞苑」の基を編んだ新村先生や文字と言葉を大事に考え懸命に自社水準の維持に努めた諸先輩の気持を汲み取る努力が足りなかった。「広辞苑」は第4版(1991年11月)の「いまいち」登場辺りから、ドイツの国民車の車台にアメリカ車の車体を載せたような妙な辞書に変りつつある。このことについてはいずれ詳しく書かなければなるまい。

 今回これを書いたのは、「タニンゴト」の誤用が遥かに先を行っていると気づいたからである。このところ第45回衆議院議員選挙の与野党逆転を見越した新聞記事が目につくようになったが、その中にルポライターによる官僚の憂鬱を伝えるものがあり、何と「若手にはどこか他人事的な空気があった」と記されていた。ルビはないが、これを「ヒトゴトテキ」と読ませるつもりはなく、おそらく頭の中では「タニンゴトテキ」と読んでキーボードを叩いたことだろう。

 つまり今や「ひとごと」はこうしたルポライターの間では死語に近く、「タニンゴト」が当然となり、さらに流行りの「的」まで付けて用いられる段階に達しているのではないか。そう懸念されたからだ。この署名入り・顔写真付きの記事(2009.07.29 朝刊・文化欄 p13)を掲載した「毎日新聞」を、だから三流と貶すつもりはない。なぜならこれが単に「毎日新聞」一紙の問題に止まらないからだ。

 文字文化の衰退を嘆くなら新聞社は、まず自社の記者教育を徹底しなければならない。校閲部員の劣化がこうした現象を生み出していることにも気づく必要がある。出版社も首相の漢字能力を笑う前に、自社の編集者の漢字能力を確かめておく必要がある。新聞社も出版社も、自分たちの仕事が一過性のテレビジャーナリズムなどとは基本的に異なることをもっと強く認識しなければならない。こうした一見なんでもないような誤表記の積み重ねが、日本人の漢字能力の日常風景をつくっているのだと自覚して欲しい。死に体に近い政治家をただ腐すだけでは日本の言語文化は守れない。

○昼顔--野の花々2009/08/01

 蓄音機などと言っても今の人には分かるまい。ステレオよりも更に昔の話である。蓄音機とステレオの間には電蓄があった。明日の待宵草(野の花々)はこういう時代の話になる。太宰の「富嶽百景」と同じか、あるいはもっと前の時代のことである。この時代の蓄音機には必ず大きな拡声装置が付いていた。この花を見ていて思い出すのが、その大きな拡声器である。多くの人が朝顔型と呼んでいたように記憶するが、どう見ても昼顔の形に見える。色が少ないのでその分、細部まで形がはっきりと見えるせいかもしれない。
 話は変って、こちらは先日「蝉の羽化が始まったよ」と教えてくれた近所の小学生姉弟である。もうすぐ夏休みという日の午後、姉弟は揃って学校を出ると家路についた。姉が足早に先を歩き、まだ幼さの残る一年生の弟がその後を追いかけた。そして徳さんの田圃の脇まで来たとき、弟がこの花を見つけて「お姉ちゃん、アサガオが咲いているよ」と叫んだ。「馬鹿ねえ昼間、アサガオが咲くわけないでしょ」分別くさい姉は母親そっくりの口調でそう答えると、それでも歩みを止め、弟の方に戻っていって指さす方角を眺めた。「なんだヒルガオじゃないの。」
 昼の「ひ」は日の意であり、朝と夕との間の太陽が空にある時間帯を指している。「る」は夜の「る」と同じく接尾語と見るのが一般的だ。顔(かほ)は目に見える様子・表情といったところだろう。だから古代にあっては、朝顔・昼顔・夕顔は植物の種類を指すというよりも朝(昼・夕)に咲く花、あるいは朝(昼・夕)に見る花くらいの意味合いで用いられたと見るのが妥当だろう。

  昼顔のはかなき色を掌にしたり 入江雪子

○待宵草(3)--盛夏2009/08/02

 この花を宵待草と呼ぶのは全くもって大正時代に流行った抒情歌謡「宵待草」のせいだろう。「待てど暮らせど来ぬ人を」で始まる、あの歌である。この歌はその後、太宰が「富嶽百景」を書いた1938年には松竹によって映画化され、その主題歌としても歌われた。主演した高峰三枝子(故人)の歌はレコードにもなった。最近は倍賞智恵子さんが吹き込んだものを聞くことが多い。
 この歌の原詞は竹久夢二が書いた。流行り歌になったものは西条八十が補作しているが、花の呼称を宵待草とした部分の歌詞は変っていない。わざわざ待宵草に変える理由はなかった。というよりもマツヨイグサではuとiで音の響きがよくない。ヨイマチグサならiとiでうまくゆく。難しく言えば著作者人格権のひとつである同一性保持権にも関わる問題と言えるが、そうした法律や権利の絡む話ではない。純粋に歌詞としての質が問われる問題である。竹久夢二がこの造語を考えた理由や背景を忘れてはいけない。
 日本語には○○待ちという言葉が少なくない。日待ち、月待ち、風待ち、心待ち、客待ち、七夜待ちなどいろいろなところに使われている。漢語なら待宵でも、歌にするときはやはり日本語風に宵待とするのが自然だ。マツヨイグサは漢語タイショウソウの訓読にはなっても日本の歌の歌詞には馴染まない。この点を見逃しては夢二の苦労も伝わらない。
 今日の写真は朝の7時に撮影している。雨が降らなかったので昨日のように濡れてはいないし、雲が厚く太陽が顔を出すこともなかったので何とか撮影できた。しかし時間が遅い分だけ花が萎みかけている。萎んだ花は全体に赤みが強くなり、暫くはそのままぶら下がっているが、やがてぽろりと落ちてしまう。(了)

●月(にくづき・4画) 32009/08/02

3.にくづき
 新字体に統一される前の月の字は肉月と区別され、横に2本並ぶ梯子の右端が僅かに離れていた。但し昔の活字は摩耗が早く紙型の痛みも早いので小さな活字で印刷されていると、見ただけでは区別が付かない。4号くらいの大きさがあれば、すぐに分かるだろう。肉月は梯子の左右が2本ともしっかり繋がっている。
 さて元々肉部に属した有が誤って月部に入れられたことは既に述べた。漢の時代のことである。服のことも話したが、能(ノウ)もなぜ肉月なのか説明がつかない。この字のム+月はエン(捐から手偏を取り去った字)という黒を表す字に由来し、右の2つのヒは獣の意である。黒い獣つまりクマの原字と見る説が有力である。
 他の大方の字はたいてい身体の一部に関係しているから、ここで改めて説明する必要もないだろう。例えば肩は旧字体では最初の一画は一ではなくノを横に倒した形をしていた。これにコを書いて、さらにノを付けた。つまり左右の肩をかたどった象形文字である。月はもちろん肉の意でよい。育(イク)の字の月も肉だが、この字は形声文字であり、肉の役割は音だけだと言われる。大事なのはその上に載る鍋蓋(卦算冠)とムの部分とにあり、これが母の胎内から生まれ出る子どもを表していた。つまりこの部分は象形文字になっている。
 肯定の肯(コウ)の字は会意文字である。骨と肉とが合わさって出来上がったと言われる。上に載る止が骨の略字であり、骨に硬く付いた肉が原義である。敢えて、うべなう、がえんじるなどはいずれも後から借用によって付けられた意味と言われる。胡座(コザ・あぐら)や胡弓(コキュウ)の胡(コ)は北方異民族の「えびす」を指すときに使われるが、これも元は顎の下の垂れ下がった部分の肉を表すためにつくられた形声文字である。古が音を表し喉(コウ・のど)に由来すると言われる。漢字の成り立ちには、なかなか一度くらいの説明では理解できない点が多く難儀する。

◆責任力--変な日本語2009/08/02

 見出しにするのも躊躇(ためら)われるほど、へんてこな造語が新聞の見出しを飾るようになった。先月末に発表された自民党の政権公約(マニフェスト)の表紙に見える言葉のことである。しかも誰も文句を言わない。表現の自由を尊重しているのか、あの総裁にしてあの言葉ありと諦めているのか、その背景や事情は分からない。

 まさか誰もそんな言葉が存在すると本気で考えているとは思えないが、しかし活字の影響力というのは侮れない。恐ろしい力を持っている。嘘や出鱈目でもそれが活字という綺麗な文字になって新聞紙面や雑誌やテレビの画面に登場するようになると、子どもだけでなく大人までがそんな言葉もあるのかと頭の中の辞書に書き込んでしまう。だから無視するのではなく、この不可思議な造語に注釈を付けることにした。

 責任能力とか責任感というなら分かる。辞書にも見出しがある。だが責任+力では何とも理解のしようがない。そもそも責任とは自分が引き受けて行わなければならない任務や義務のことである。何を引き受けて貰うかは基本的には国民・有権者が決めることである。もし何を引き受けられますよと言いたいのであれば、それは能力の意味だから責任能力と書けば済む。しかし今頃それを言い出したのでは、これまでがいかにも無責任だったように聞こえるし、責任能力がなかったようにも響く。それで「能」を省いて「能ある鷹は爪を隠す」とでも洒落たつもりだろうか。

 また自分が関わった事柄や行為から生じた結果に対して負う義務や償いのつもりであるなら、それにわざわざ「力」を付けたり公約に記すほどのことではない。時代の流れに逆行するような格差社会を生んだ責任を取って政権を他党に譲るか、早く国民に信を問うべきだった。それを任期が切れる今頃になって責任政党とか何とか言われても、腹が立つ以外に反応の示しようがない。ただ呆(あき)れるばかりだ。

 もうひとつ明確なことがある。何人もの大臣や政府高官が不祥事を起こし、任期中に次から次へと辞めたことだ。これだけは確かだ。まさかこれらの辞任事件をもって責任を取ったとか、どうだ責任を取らせる力があるだろうと誇示しているわけでもあるまい。だが、この説明が一番真実みがある。やはり国民を侮っているということか。

 かつての政権党には、もっとましな人士が大勢いたように記憶する。表面は立派でも裏ではただ腹黒いだけだとか私腹を肥やしすぎると酷評する大人も少なくなかったが子供心には、多少の学問もし、学問がない人にはそれなりの後見役が付いているように見えた。ところが最近はこれが文字通りの三流学者かそれ以下の怪しい先生ばかりになってしまった。

 常に迎合を旨とする後見役では無理が生じ、政策は綻(ほころ)びる。言葉には誤使用が増える。人間に寿命があるように、政党にも寿命があるのかも知れない。法人は本来、私人のそうした限界を超越するために考え出された知恵のはずだが、どこかに計算違いでもあったのだろうか。早く総選挙が終わり、せめて変な日本語だけでも速やかに消えて欲しいと願っている。

○夏菊(1)--野の花々2009/08/02

 菊は日本の秋を代表する季節の草花だ。この植物にとって陰暦9月9日に催される重陽(ちょうよう)の節句の観菊の宴はひとつの節目であり、以後咲くものは残菊とか残りの菊などと呼ばれる。
 だが夏のお盆(新暦)前に咲く菊の花もある。既に8月の声を聞き多少、月遅れの感があることは否めないが紹介しよう。これらの花は一般に夏菊と総称され、夏の季語にもなっている。いわば早咲きの菊の花達である。

  夏菊の茂りて荒れし畠かな 佐久間法師

■見切り発車--新釈国語2009/08/03

 ある施策についての議論や検討が未だ十分とは言えない段階・状態にある中で結論だけを急ぎ、実行に踏み切ること。元は終戦後の混乱期や高度成長期の通勤時によく見られた風景で、一部の乗客を駅のホームに残したまま満員の列車や電車を発車させることをいった。見切るの原義は全体をくまなく見ることだが転じて、全体をくまなく見たかどうかを問う前に見込みがないと諦めること、全体をよく見ることなく形勢の判断をすること、特に形勢不利の判断を下すことを指すようになった。まず結論ありきのお役所仕事や官庁の各種審議会などによく見られる現象・手法である。なおデフレ傾向が続く中で、小売り店が形勢不利の判断を早めてリスクの軽減に努めようとする販売手法は見切り販売と呼ばれ、見切り品はそうした際に価格引き下げの対象となる商品をいう。

 ⇒http://atsso.asablo.jp/blog/2009/07/19/ 見切り販売

○夏菊(2)--野の花々2009/08/03

 夏は冷たい素麺が好まれる。薄味のあっさりした漬け物も嬉しい。この時期に咲く夏菊はそうした日本人の心を察しているかのように、趣はあっさりとして匂いも薄いものが多い。だから同じ頃に咲く蝦夷(えぞ)菊とかアスターと呼ばれる園芸種に比べると、どうしても華やかさで負けてしまう。
 しかし園芸種にはない、野の花ならではの風情や侘びしさがある。園芸種というのは確かに綺麗だが、予備校や学習塾にせっせと通って受験術を身につけた子どものように、化粧品会社の上玉顧客のように見かけは秀才や美人でも、何処かに人為的なものがあって違和感を覚える。(了)

  夏菊のうすむらさきが語りかけ まさと

○白蓮(1)--盛夏2009/08/03

 白いハスの花は白蓮(びゃくれん)と呼ばれ、春に咲く白木蓮の異称「はくれん」と区別される。白木蓮の白にも梔(くちなし)の花の白にもどこか厚ぼったいものを感じるが、ハスの花の白蓮にはそうした重たい感じはない。これが、この花の白さの真骨頂であり、汚れのない純真な心の象徴と言われる所以(ゆえん)であろう。
 写真は開き始めて間もないハスの花である。朝のお勤めが「南無妙法蓮華経」と響く本堂の前で運良く目にすることができた。(つづく)

  蓮白しわが行末を想ふとき 瀬川あゆ女