○露草(3)--野の花々2009/08/08

 露草は「万葉集」にも9首が登場する。列島の先人達には馴染みの深い花だったと言えよう。但し呼称は「つゆくさ」ではなく、万葉仮名では月草または鴨頭草と記録されている。今日は、この「つきくさ」の正体を探ってみたい。まずは坂上大嬢(さかのうえのおおいらつめ)が大伴家持に贈った相聞歌から紹介しよう。

  月草のうつろひやすく思へかも我が思ふ人の言も告げ来ぬ

 これらの歌を目にしてすぐに気づくのは「うつろふ」あるいは「うつろひ」という言葉である。これが9首中5首に登場する。一緒に詠まれているのは「思ふ」「色」「心」などである。つまり、この時代の露草は「うつろひやすいもの」の象徴であったことが分かる。その意味はひとつには露草が朝咲いても夕には萎れて散ってしまうことだろう。それを次の相聞歌が示している。

  朝咲き夕は消ぬる月草の消ぬべき恋も我れはするかも 不知詠人

 しかし変りやすいと思われた原因は他にもあった。露草で染めた青が綺麗な色である反面、褪色の激しい色とも考えられていたことである。それを教えてくれるのが次の相聞歌である。(つづく)

  月草に衣色どり摺らめどもうつろふ色と言ふが苦しさ 不知詠

■オウンゴール--新釈カタカナ語2009/08/08

 主にサッカー(フットボール)において、みずからの行為によって味方のゴールにボールを入れ結果として相手側に得点を許すこと。サッカーは相手側のゴールにボールを蹴り込むことで得点になる球技だが、これを相手側ではなく誤って味方のゴールに入れてしまうことをいう。英語の own goal が自殺点と訳されるのはこのためである。しかし故意に行われるプレーではなく、相手の攻撃を防ごうとして敵味方がもつれ合う際に偶発的に発生するのが常である。バスケットボールやアイスホッケーなどの球技でも同様のことが起こりうる。転じて近年、味方の敗北や自身の辞任・引退に繋がるような重大な失敗や失態をみずからの言動によってわざわざ引き起こすことにも用いられるようになった。
 今のところ球技以外での言葉の使い手は首相官邸とその周辺に限られるが、何かと目立ちたがりで新しもの好きな政界やマスメディアのことだから、いつ全体に伝染・普及しないとも限らない。その際によくよく注意しなければならないのは、サッカーなど球技の場合はゴール前の激しい攻防の結果として全く偶然に起こるものであるのに対し、政治や報道の世界では自覚さえあれば十分に防ぎうる行為だということだ。この本質的な部分での差を忘れて単に分かりやすさや話題性など目先の事柄だけに注目していると、いずれ痛い目に遭うのは有権者や視聴者である。

○今日の朝顔(3)--盛夏2009/08/08

 朝顔の本朝渡来については平安時代とする説もあるようだ。この時代の中頃に書かれた「枕草子」には「朝顔」という語が3回登場する。但しひとつは起きたばかりの人の顔の意である。起きたての、ぼんやりした寝ぼけ顔を朝顔と称している。この表現はほぼ同時代と推定される「源氏物語」にも登場しており、当時の女性にとって寝起きの顔である朝顔についての関心は高かったのだろう。
 他の2つが植物と推定される朝顔である。そのうち七月の朝の様子を綴った段に登場する「朝顏の露落ちぬさきに文書かんとて」は、これだけの記述で現代の朝顔と見なすのは難しい。しかし草の花について唐の花と大和の花とを比べる、もうひとつの段に登場するのは現代の朝顔と見ることもできよう。少なくとも桔梗の花ではない。次のように表現されている。(つづく)

 夕顏は朝顏に似て、いひつづけたるもをかしかりぬべき花のすがたにて、にくき實のありさまこそいとくちをしけれ。