○尾花--秋の七草2009/09/21

 芒(ぼう)も薄(はく)も日本では「すすき」という訓を与えている。しかし前者のつくりである亡が先の細く尖った鋭さを表す鋒に通じ、これによって細く鋭い葉をもつ草の意になっているのに対し、後者は入り交じる、あるいは群がって生える草の意であるようだ。つまり対象を異なった視点から眺めているのだが結果としては同じものを指すことになった、ということらしい。事実、ススキは群生する草の総称でもある。漢字を宛てる際にはこんな点にも目を向けると先人の知恵が身近に感じられよう。
 一方、尾花はススキの穂を指す呼称である。その形状が動物の尻尾(しっぽ)に似ていることから名付けられた、とたいていの辞書には書いてある。ススキは米と同じイネ科の植物である。だから穂の出方もイネに似ている。異なるのはイネには米が実り、その重さで穂が撓(しな)るのに対し、ススキはどこまでも真っ直ぐに棒立ちしていることである。その美しさ軽さを花にたとえるのはよいとして、決して実をつけることのない雄花の解釈がないのは少し不思議な気がする。

  尾花照る日射しはまはる野辺の道 まさと

○栗拾い(1)2009/09/21

 近所の石山さんの家でも栗拾いが始まった。早朝、栗畑というか栗林に行って、落ちている栗の実を拾い集める。あるいは落ちている毬から栗の実を取り出す。こんな時はゴム長靴が一番である。毬を踏んでも痛くないし、毬を踏んづけて栗の実を取り出す際にも便利だ。

 子どもの頃の話である。まだ暗いうちに母は起き出し、嫁入り前だった叔母と連れだって山へ向かった。目指すは山栗の実である。1時間も歩くと栗の木が多く生える山頂近くの沢に着く。その時間にはもう足元がよく見えるくらいの明るさになっている。それからは視力と手の早さとを頼りに、虫食いのない栗の実を余すことなくひたすら拾い続ける。
 生栗はひとつひとつは小さくても数が集まると重くなる。腰に付けた魚籠(びく)に半分もたまると魚籠が腰にぶら下がって仕事の邪魔になる。そこで栗は背負い籠に移し、また拾い続ける。こうして2時間も拾うと、もう持ち帰れないほどの量になる。そこで栗拾いはお仕舞いにして、持参した握り飯を食べ家路につく。(つづく)

  山びこのひとりをさそふ栗拾ひ 飯田蛇笏

○秋の彼岸に咲くサクラ2009/09/21

 今年も1週間ほど前から咲き始めて見頃を迎えた。サクラがお彼岸の頃に咲くと言えば誰しも桜前線や気象庁が発表する「さくらの開花予想」などを思い浮かべるだろう。だがあれは春のお彼岸頃の話であって、まだ残暑の残る季節の話ではない。
 十月桜とか冬桜もそれなりに珍しいと思うが、気温が時に30度近くにまで上昇する秋の彼岸前に咲き始めるサクラを何と呼ぶのか寡聞にして知らない。開花の条件は例えば「最低気温が20度を下回る日が続くようになると」というようなことかも知れぬが、とにかくこれまで不思議とは思っても木の大きさもさほどでなく、本数も限られていたから大して気にも留めなかった。花の数も侘びしいほどのちらりほらりといった咲きっぷりであった。
 しかし今年は明らかに違う。かなり本格的に咲くようになった。澄みきった青空に白い小さな花びらを点々と散りばめて咲く。昨年までのような侘びしさを感じることはもうない。蕾の中には紅色を含むものも多少はあるが総じて白が勝り、写真で見るごとく大変清純な花びらである。