■現実直視--新釈国語2009/09/23

 こうなるだろうという予想、こうなって欲しいという希望的観測、今まではこうなったといった予断などを一切交えることなく、目の前で現実に進行しつつある状況だけを冷静に見つめること。例えば読売・朝日・日経の大新聞、毎日・産經の中新聞、公共放送という名で政権のスポークスマンを務め通した日本放送協会、政党兼宗教新聞など。今度の選挙も自民・公明が勝つだろう、勝って欲しい。多少は負けるかも知れないが、そういう不安もないわけではないが、でも今までもそう言いながらも勝ってきたではないか。常にそう考えて行動し、自分の将来像も描いてきた多くの記者達。だが今、何だかおかしい。違う気がする。いやこれは仮の現実だ。すぐに壊れるだろう。前にもこんなことがあった。が、すぐに壊れた。壊れなければ壊せばいい。きっと裏には何かある。無ければならぬ。あるはずだ。無ければつくってもよい。それが自分に与えられた使命ではないか等々。

 みな現実を直視することができずに、もがき、苦しんでいる。支離滅裂になりかけている。マスコミだけではない。インド洋での給油ができなければ日本の将来は無い、危ういと叫んだマスコミ各社。そして悩んだ小泉、安倍、福田、麻生の各総理大臣と公明党幹部。命ぜられるままに隊員やその家族まで不安に陥れた自衛隊の幹部達。こうした善良だが小さな頭の持ち主達に、その耳元でまことしやかに呟(つぶや)いたり囁(ささや)いたりした悪い奴がいるのだろう。無責任で、小ずるい奴がいるに違いない。幾つもの選択肢を与えることなく、自分に都合のよい情報だけをオブラートに包んで、少しずつ飲ませ続けたに違いない。なお目の前で進行しつつある状況が自分の望むものとは大きく異なる場合に、そうした現実を受け入れようとはしないで、むしろそこから逃げ出そうとすることは現実逃避と呼ばれる。

■下衆(2)2009/09/23

 昨日見たように古代から平安時代までの「げす」には(相対的に見て)身分が低いという意と、身分の低さを具体的に示す下女や使用人や供人(ともびと)などの意の、2つしかなかった。卑しさはあくまでも身分上の相対的な関係を示す言葉に過ぎなかった。

 江戸時代に入ると「下衆の後知恵」とか「下衆の知恵は後から」といった下衆を揶揄するような表現も登場したが、その場合でも「げす」の意は限定されたものだった。だから身分の低い者は役に立たないのだとか、知恵の周りが遅いのだといった範囲に止まっていた。からかいの起点は常に、身分の低さであった。

 ところが大正も末年近くに出版された金澤庄三郎編纂の「広辞林」を見ると、その意には根性賤しきものが加わっている。幕末から明治を経て大正に至る半世紀かそこらの間に、日本人の心に何か大きな変化のあったことに気づく。身分の卑しさに加えて、貴賤を超えた根性という視点からの賤しさが混じり込んでいるのだ。

 幕末も明治も日本の近代化という点では常に積極的な高い評価を受けてきた時代である。だが人間的な心理の面・心の奥底という点から見ると、そうばかりでもないようだ。おそらくは資本の力というようなものに負けた人間の弱さが始まった時代でもあったのだろう。(つづく)

○柿の実(2)2009/09/23

 去る者は日々に疎し、とは言うが早いものである。奈良・薬師寺の管主だった高田好胤師が亡くなって、数えてみたらもう11年余りになる。師がまだ30代の、若き頃の話である。修学旅行生を前にした師の語り口には定評があった。日頃は教室で騒がしい子供達も師の名調子には思わず耳を傾け、話に聴き入る。
 季節は4月の下旬。戦災こそ免れたものの地震の被害が各所に残る頃で、寂れた境内には草木が芽吹き、初夏の風が穏やかに吹いていた。いつものように、バスから降りた詰め襟姿に制帽姿の高校生達を復興前の西塔近くに集め、子規の話を持ち出して「柿くへば」の句を紹介し、さらに指先を東塔に向けて例の名調子を聴かせた。
 そして「御覧のように一見六重に見えますが、実は三重の塔でありまして、各層には裳階(もこし)と呼ばれる小さい屋根が付いてございます。この大小6つの屋根が微妙に重なりあって、えも言われぬ美しさを醸し出すのでございます。凍れる音楽と称えられておるのでございます。」と語り終えた。すると目の前で一人の高校生が、顎(あご)を撫でながらぼそっと呟いた。

  じっと聴く塔と若葉のコンチェルト

 師は句の見事さと、それが目の前の若者の口から漏れたものであることに強い衝撃を受けたという。以後、師の説明に一層の磨きが掛かったことは言うまでもない。なお昨日の写真も今日の写真も、柿の品種は富有柿である。本格的に出回るのは10月末以降である。(了)

○彼岸花--野の草花2009/09/23

 危うく彼岸花を忘れるところであった。秋のお彼岸が近づく頃に突然、姿を現わす。そして茎の頂きに真っ赤な針金状の花を咲かせて、また忽然(こつぜん)と消えてゆく。これまで目にした中で最も壮観だったのは日豊本線を南に下ったときの車窓からの眺めである。田圃の畦道という畦道を、この花の赤色がびっしりと埋めていた。
 この花は近寄って眺めると、豪華な金細工でも施したように花軸を伸ばし、その先に輪を描くようにして咲いている。だが、どこを見ても葉がない。実に不思議な花である。子どもの頃、墓地の周りでよく咲いていた。そのせいか年寄りの中には「ああ嫌だ、縁起が悪い」と言って避ける者もいた。死人花(しびとばな)の俗称さえあるという。
 この花が歌謡曲の文句に登場する曼珠沙華(マンジュシャゲ)と同じものであることは長じてから知った。曼珠沙華と言えば曼荼羅華(マンダラゲ)や摩訶曼荼羅華(マカマンダラゲ)や摩訶曼珠沙華(マカマンジュシャゲ)と同じく梵語由来の語であり、合わせて四華(シケ)と呼ばれる。いずれも天上から降るとされる目出度い花の名前である。それがなぜ逆の印象を持たれるようになったのだろうか。日本列島の先人達と仏教との関係はどうやら少し特殊なもののようだ。

  とびとびに籔の奥まで曼珠沙華 関圭草