○白い彼岸花--野の草花2009/09/25

 白い百日紅という言い回しには文字を目で見たときだけ感じる可笑しさ・矛盾がある。だが白い彼岸花の場合は、単に驚くのみで矛盾も可笑しさも感じることはない。まして彼岸花を知らない人には何の驚きも与えることはない。これがもし白い曼珠沙華だったらどうだろうか。
 仏教でいう四華について多少でも知っている人なら、白い花と聞いて思い浮かべるのは曼珠沙華ではない。白い花は曼陀羅華か摩訶曼荼羅華である。だから念のため「どんな形の花でしたか」などと尋ねたくなる。このように、その花を見たことがあるかどうか、あるいはその言葉を知っているかどうかで、同じ言葉を聞いたとき見たときの反応は変ってくる。美に対する感覚を養うためには余り余分なことを考えずに、花の美しさと色や形の不思議さだけを記憶の隅や心の隅に締まっておけるよう心がけなければならない。
 ところで白い彼岸花が突然、他の紅い花に混じって出現する理由は何だろう。突然変異と聞くと、たいていの大人は納得したような顔になる。だがそれは答える方も答えられた方も「要は、よく分かりません」と言っているだけだ。自然界のことはそれで済ませるとしても、例えばそれが癌の告知であったならきっと困るだろう、どうしようかと考える。短い命を終えた曼珠沙華の姿を目にすると、早まる日暮れどきがいっそう侘びしく感じられてならない。

  糸のごと枯れてさみしや曼珠沙華 太田鴻村

○秋茄子(2)2009/09/25

 そんな世の中だから今さら「秋茄子は嫁に食わすな」などと言ってみても始まらない。秋茄子を食べたければ八百屋でもスーパーマーケットでも、お金さえ持ってゆけばいくらでも手に入る。今はそういう何でも、お金お金の味気ない世の中になってしまった。戦中戦後の困窮を忘れ、あるいは忘れたふりをして、思い出したくもないとの理由で子にも孫にも伝えないまま、ひたすら経済復興と経済発展のみに専心してきた。そしてバブル経済を自演し、バブルがはじけても懲りることなく、今度は構造改革だの自己責任だの市場主義自由経済だのと小泉御輿を担いで浮かれてきた。

 この先のことは分からない。分からないが、ダムを造れば、道路を造れば、芸術館を建てれば景気がよくなる・客が集まると浮かれるのだけは止めにしたい。そういう他人のお金を当てにする発想は止めて、いま自分が立っている足元をよくよく見つめてみよう。この先も自分の脚で、自分の力で立ってゆけるだろうか。

 そして、言い古された諺でも何でも、先人の知恵が詰まっていそうなものは熟読玩味し、身体が動くうちは額に汗して働こう。飽食を止め、貿易などという怪しげな言葉を使って他国の食料を掠め取るのも止めよう。隣近所を大切にし、どんなときでも仲良く突き合うことを考えよう。みんなで助け合うことを考えよう。自分の住んでいる土地・地域に根を張って、踏ん張ることを考えよう。いつまた大地震が来るかも分からないのだから。

 と、ここまで書いて、もう一度秋茄子と嫁の関係に話を戻すことにした。物の本に依れば諸説あるらしく、定かでないと記されている。一体全体、定かでないとはどういうことか。定かでないものが、何を契機に、どこで生まれ、どうして今日まで生き延びたのだろうか。不思議ではないか。(つづく)

  秋茄子のいよいよ終る花少し 星野立子 ※原文のいよいよは繰り返し符号

○雀除け--実りの秋2009/09/25

 稲雀(いなすずめ)という季語があります。稲穂が垂れる季節になると雀がどこからともなく田圃に集まって、せっかく実った稲穂を食い荒らします。鳴子は、そうした雀の群れを追い散らすための工夫でした。田舎の雀には悪童という天敵もいました。油断しようものなら忽ち誘(おび)き寄せられ、一網打尽にされてしまいました。

 しかし平成の御代の雀たちは手厚い法律に守られています。法を無視する悪童も、雀を驚かそうとする悪童も滅多にいません。加えて都会に近い田圃は年々減るばかりです。一方、雀の数は増すばかりです。各地に雀のお宿ができています。村はずれの竹藪どころか、駅前の街路樹までがお宿に化しています。夕暮れ時の喧(かまびす)しき様を御覧になった方も多いことでしょう。糞害も馬鹿になりません。

 もっと困るのが徳さんのような篤農家のお百姓さんです。都会の雀も村の雀も、この季節になると山を越え川を越え、大挙して押し寄せてきます。周りに住宅があるので空砲や花火で追い散らすことも叶いません。そこで仕方なく、田圃の上に網を張り巡らすことにしました。これがまた大変な重労働です。田圃全体を1枚で覆い尽くすような大きな網はありません。所々繋ぎながら数日をかけて、ようやく作業を終えました。

 今のところ雀の被害は一日だけだった様子です。食料を自給するということは、まさに食うか食われるかの仕事なのです。NPOだか動物愛護だか環境省だかは知りませんが、自分の手を汚すことなく、机に向かって頭の中だけで考えている人には全く思いも及ばないことでしょう。こうした苦労の末に、お茶碗の白い御飯はつくられているのです。

  稲すゞめちり行藪や月の雲 土芳