○狐の剃刀(2)--野の草花2009/09/27

 彼岸花の仲間は11月から年末にかけて海岸近くの日当たりのよい斜面で咲き始める水仙が冬の花、そして日一日と日が長くなる頃に岬を彩る黄水仙が春の花、太い茎に大ぶりの花を付けるアマリリスが夏の花である。そして夏の終り、今度は狐の剃刀が芽を出し、花を付け、花は忽ち消える。

 狐の剃刀や彼岸花のように一体いつ葉が出るのだろうと心配したくなるものもあるが、多くは普通に葉が出て、茎が出てそれから花が咲く。実際は狐の剃刀や彼岸花にも葉はあるのだが、その時期には茎も花もないため誰も気づかないだけだ。

 名前からも想像されるように水仙や黄水仙は中国大陸を経由して渡来した。アマリリスは外来語そのもの、狐の剃刀と彼岸花が和名である。彼岸花は曼珠沙華とも呼ばれる。これを歓迎しない人々のいることも確かだ。狐の剃刀も決して誉められた呼称ではない。

 あるいはこれらの花々は太古の昔、球根が黒潮に乗って列島へと流れ着いたとも考えられる。文字のない時代のことは地中に眠る遺跡や遺物、そして物の名前や習慣などから想像するしか手がない。(了)

○零余子(1)--実りの秋2009/09/27

 鴨長明が日野山における晩年の隠遁生活などを綴った「方丈記」には、10歳になる近所の子どもと連れだって野山で遊ぶ楽しさも描かれている。その中に「またぬかごをもり、芹を摘む」という記述がある。この「ぬかご」が今日のテーマ零余子である。今は多く「むかご」と呼ばれている。「名義抄」には「零余子、ヌカゴ」とある。
 和名の「ぬかご」または「むかご」が何に由来する呼称であるかは分からない。しかし漢名の零余子(レイヨシ)については大方の想像が付く。零は雨の滴(しずく)の意であり、転じて僅か・少ないの意となった。零余は残りが極めて少ないの意である。端た金の「はした」の意もある。なお零は静かに、こぼれるように落ちるさまを表すときにも用いられる。
 察するに漢名の由来は「むかご」の食べ物としての大きさと、茎から離れ落ちるときの様とにありそうだ。その粒は地中にあるヤマノイモと比較して余りに小さく、蔓から離れる様はまさにこぼれ落ちるの形容がぴったりする。もっとも後者のこうした観察には詩人の目が欠かせない。俗人には、ゆめ思いつくことのない呼称と言えよう。(つづく)

  雨傘にこぼるゝ垣のむかごかな 室生犀星

○秋の空--秋色2009/09/27

 秋の色と書いて「シュウショク」と読む。万葉の時代、「いろ」とは色味(いろみ)や人の表情を指す言葉であった。それが時代とともに拡がり、徐々にこれらと似たようなもの・様子を示す言葉として使われるようになる。秋色は秋の色といった狭い意味ではなく、今では秋の気配や秋の深まり具合さらに秋の景色なども含む広い意味に使われている。果たして今年は、どんな秋色に出会えるか。1回目は空に浮かんだ雲の話である。

 写真の撮影日は9月24日。朝7時過ぎに家を出て空を見上げると、いつもとは違う雲が空一面に浮かんでいた。入道雲と鉄床(かなとこ)雲と鱗(うろこ)雲くらいしか知識はないが、これは鱗雲でよいだろうか。通常の雲よりだいぶ高いところにあるように感じる。これも秋の訪れを感じさせる現象のひとつではないだろうか。

  雲のみか秋天遠きものばかり 斎藤空華