○大晦日2010/01/01

 和語の「みそか」は三十日の意である。月齢に基づく旧暦では毎月「みそか」があり、一年最後の日となる12月の「みそか」つまり12月30日を「大みそか」と呼んで区別した。ところが新暦では12月は1日増えて31日となり、「みそか」の呼称はともかく最終日の地位は12月31日に譲らざるを得なくなった。数字よりも一年最後の日という位置づけが尊重されたのである。

 一方、漢字の「晦」は日偏に毎と書く。毎(マイ)は今は縦棒と横棒を交差するように書くが、元は縦棒ではなく点が二つだった。この字は冥(メイ)から転じたもので、暗くなることを意味する。満月が欠け始めて徐々に暗くなり新月となって月光が尽きる日、これが晦日(かいじつ)の原義である。そして翌日には再び月に光が戻り始める。これを朔日(さくじつ)と呼ぶ。

 和語の「みそか」は月の満ち欠けを数で表した呼称、漢語の「晦日」は月光の多寡に着目した呼称とも言えるだろう。晦渋は言葉や文章が難しすぎること、意味や論旨がわかりにくいこと、文章の意が通らないことなどをいう。来年も晦渋に堕することのないよう努めたい。

  いさゝかの借もをかしや大三十日 村上鬼城

年賀状 2010a2010/01/01



           途中で忙しくなりませんように (たまの)
           一年が佳い年でありますように (木多)
           突然のお休みがありませんように (まさと)

年賀状 2010b2010/01/01



 今年も、その時々に感じたこと、絵本の話などを綴ってまいります。(まさと)
 文字と言葉、インターネットの利用法について記します。(木多)
 季節の写真をお届けします。(たまの)

 ご意見・ご感想をお寄せ下さい。お待ちしています。

○元旦の月2010/01/01

 昔、もう半世紀近くも前のことである。大晦日の晩、除夜の鐘が終った頃ではないかと記憶する。その晩も、高台にある住宅地の雲ひとつない空に大きな満月が浮かんでいた。家々の窓にはまだ明かりが灯っていたことを覚えている。

 が、それ以上に鮮明に覚えているのが、ある家の庭先で大きな実を付けていた夏みかんのことである。きっとまだ酸っぱい味にもなっていない、味なしの夏みかんだろうなと思いながらその家の前を通り過ぎた。今でも庭先に下がる夏みかんを目にするたびに、そのときの記憶が蘇ってくるから不思議だ。


 年末に続き、元旦の月の出の写真も掲載した。ミニカメラでは「うさぎの餅つき」風景までは捉えることができない。そのため昨夜と比べて、どの程度に欠け始めたかを確認することができない。見た感じでは、昨夜よりは今日の方が真正の満月に近かった。



◎季節の言葉 初富士2010/01/01

 大晦日を無事に送ると、次は新しい年の初め元日である。元旦はその朝をいう。元朝ともいうが、今では広く一月一日を指す言葉として用いられることが多い。そのせいというわけでもないが元日は仕事も店も市場も休みのため、早起きするのは氏神様や鎮守様にお参りする一部の人ぐらいではないだろうか。

  元朝の見るものにせん富士の山 山崎宗鑑

 朝寝坊して、元朝が醸す目出度い瑞気や独特の瑞々しさを感じそこなった身でも、届けられた年賀状に目を通し急ぎ、忘れた人への返信を認めて郵便局へ向かう時には否応なしに外気に触れる。少々寝ぼけていても、目に入る景色は家並みも嶺の山々も田圃や畑や路傍の草まで、どこか美しく新鮮である。

 無事に赤い函に賀状を投げ入れて、ふと目を上げると、マンションの屋上の向こうに見慣れた台形の一部が見えた。富士山である。こんな所で、こんな角度に、まさか初富士を見ようとは思ってもみなかった。


 写真は夕刻、散歩の途中に立ち寄るいつもの眺めのよい場所で写した。日没後ではあったが、これも広い意味では初富士と言えるだろう。今日は一日中、強い風が吹いていた。お陰で夕方の雲にも邪魔されることなく、心ゆくまで元日の富士を楽しむことができた。佳い年になりそうだ。

  初富士をさへぎるもののなかりけり 片岡奈王


◎季節の言葉 二日2010/01/02

 月が替わり、2回目に訪れる日が二日である。年に12回ある計算だが俳句の世界では二日は新年の季語、従って年1回しかない。昨夜、初夢を見た人も未だ見ていない人も、昔は今日から新年の仕事に取りかかった。だから初荷(はつに)の日であり、書き初めや縫い初めの日でもあった。いま筆を執って文字の書ける人は書道教室が開け、針仕事のできる人は高級和服の仕立てができる。それくらいの特殊技能に変ってしまった。

 人間は長生きしても百歳くらいが上限だろう。自分の見聞だけで云々できる時代は長くても百年しかない。過ぎてみれば50年も60年も一炊の間と大差ない気がする。それでも数えれば色々勝手の違うことが起きている。文字を書くことがキーボードを打つことに変って人間の脳味噌はどんな影響を受けたのか。針仕事のできる人がいなくなって和服が廃れたのか、和服が廃れて針仕事をする人がいなくなったのか、それとも他の要因があってそうなったのか、考えさせられる。


 そんなことをあれこれ思案しながら二日の富士を眺めてきた。昨日の強い風も止んで、今日は朝から穏やかな温かい日和が続いている。太陽の位置が高くなった分だけ富士の姿もかすんでしまったが御容赦あれ。

  沖かけて波一つなき二日かな 万太郎

○夏みかん2010/01/02

 季語も季題も季を示す語であることには変わりがない。ただ俳句の詠題としていうときはやはり「次回の季題は…」とか「お題は…」が多いだろう。季語は季を示すために選ばれた個々の言葉を指していると解釈したい。

 昨日、ちょっと夏みかんの話をした。実際の場面は暦が新しい年に替ったばかりの時刻であった。この夏みかんは文字通り夏の季題として使われる。俳句における夏とは立夏過ぎをいうから現代の暦に直せば五月も初旬以降の季節を指している。だが立夏を過ぎてからの季題では、たわわに実る生気溢れた夏みかんを詠むのは難しいだろう。


 例えば麦なら晩春から立夏の頃に穂を出す。だからこれを夏の季題にするのも、「麦青む」といって春の季題にするのも構わない。しかし夏みかんとなると、味わう季節からして夏では遅い気がする。現代では「冬みかん」が終ってしばらくすると、もうハッサクや甘夏が店先に並ぶ。その姿を庭先に愛でるのはこれより遙かに早い時節である。晩冬から春先までのいま頃が一番、姿が美しいと感じる。




◎夢を見る力2010/01/03

 かつて作家の井上ひさし氏は「夢を見る力、その夢を信じて挫けぬ力、この二つの力があれば奇跡は起こせます。」と書いた。(遅筆堂文庫物語)


 地方の荒廃が叫ばれるようになって久しい。だがつぶさに調べれば、荒廃ばかりが進んでいるわけでもない。ダムと道路建設に頼るしか術を知らない地域ばかりでもない。

 そうした地域と他の多くの地域で異なるのは、自分が生まれた土地を本気で愛する若者の数の差ではないだろうか。また、それらの若者達を信じて見守る大人の影響力も無視できない。

 こうした大人達は本気で子どもや若者に地域の良さを伝えようと努力している。県庁や霞ヶ関や永田町に詣でることだけが自分の仕事ではないと知っている。

○白梅日記012010/01/03

 新年おめでとうございます。このたび目出度く写真日記の対象に選ばれました。満開になるまで日々、開花状況を写真に記録し伝えてくださるとのことです。


 写されることなど意識したこともなく、ひたすらお日様の恩恵だけを頼りに暮らしております。愛想があるわけでなし、紫陽花さんのような世辞も言えませんが古代の日本では花と聞けば、誰もがまず私たち梅の花を思い浮かべた時代もあったそうです。

  今のごと 心を常に思へらば まづ咲く花の 地に落ちめやも 縣犬養娘子

 この和歌に詠われた「花」がどうして梅の花と分かるのか、子どもの頃は随分と不思議に感じたものでした。できる子は、きっと根拠は「まづ咲く」という表現にあるのよ、そこから推し量っての主張だと思うわなどと話しておりました。

 先生の説明では、確かにそういう点もあるけれども、この和歌の題詞に「依梅發思歌一首」とあることが一番の根拠だそうです。大先輩の貴重な歴史まであるのに、いつの間にか桜さんに取って代わられたのは残念です。

◎季節の言葉 注連飾り2010/01/03

 中国人の伝統的生活態度の規範や知恵を記した「顔氏家訓」によれば、注連(ちゅうれん)とは葬式において死者を納めた棺を見送った後その魂が再び家の中に舞い戻らないよう門口に張り巡らした縄の意である。こうした風習が古代の日本にも伝わり、その土地土地で土俗的な信仰と混じり合って日本の「しめなわ」の形や習慣は生まれたものだろう。

 漢字は後から宛てたものだから「しめ」には「注連」以外にも「標」「占」「七五三」などが用いられる。その意は中国同様に外部からの侵入を禁じようとするもの、標識として神域と不浄界とを区別するための目印、神の御座所であることを強調するもの、藁(わら)の茎を左縒(ひだりよ)りに綯(な)いながら三筋、五筋、七筋と垂らす縄の綯い方を表すものなど微妙な差がある。


 近年は稲藁ではなく、畳表に使われる藺草(いぐさ)を用いた高級感のあるものが製造販売されている。そのため見た目が綺麗で、松が取れた後に焼き捨てるには惜しい気もする。が左義長とか、どんど焼き、さんくろう焼きなどと呼ばれる小正月行事の火祭りに、門松や書き初めなどと一緒に焼いて一年の無病息災を祈るのが多くの土地の古い仕来りと言えよう。蛇足ながら「注連飾る」は年の瀬、冬の季語である。

  注連はるや神も仏も一つ棚 阿部みどり女