◎季節の言葉 二日2010/01/02

 月が替わり、2回目に訪れる日が二日である。年に12回ある計算だが俳句の世界では二日は新年の季語、従って年1回しかない。昨夜、初夢を見た人も未だ見ていない人も、昔は今日から新年の仕事に取りかかった。だから初荷(はつに)の日であり、書き初めや縫い初めの日でもあった。いま筆を執って文字の書ける人は書道教室が開け、針仕事のできる人は高級和服の仕立てができる。それくらいの特殊技能に変ってしまった。

 人間は長生きしても百歳くらいが上限だろう。自分の見聞だけで云々できる時代は長くても百年しかない。過ぎてみれば50年も60年も一炊の間と大差ない気がする。それでも数えれば色々勝手の違うことが起きている。文字を書くことがキーボードを打つことに変って人間の脳味噌はどんな影響を受けたのか。針仕事のできる人がいなくなって和服が廃れたのか、和服が廃れて針仕事をする人がいなくなったのか、それとも他の要因があってそうなったのか、考えさせられる。


 そんなことをあれこれ思案しながら二日の富士を眺めてきた。昨日の強い風も止んで、今日は朝から穏やかな温かい日和が続いている。太陽の位置が高くなった分だけ富士の姿もかすんでしまったが御容赦あれ。

  沖かけて波一つなき二日かな 万太郎

○夏みかん2010/01/02

 季語も季題も季を示す語であることには変わりがない。ただ俳句の詠題としていうときはやはり「次回の季題は…」とか「お題は…」が多いだろう。季語は季を示すために選ばれた個々の言葉を指していると解釈したい。

 昨日、ちょっと夏みかんの話をした。実際の場面は暦が新しい年に替ったばかりの時刻であった。この夏みかんは文字通り夏の季題として使われる。俳句における夏とは立夏過ぎをいうから現代の暦に直せば五月も初旬以降の季節を指している。だが立夏を過ぎてからの季題では、たわわに実る生気溢れた夏みかんを詠むのは難しいだろう。


 例えば麦なら晩春から立夏の頃に穂を出す。だからこれを夏の季題にするのも、「麦青む」といって春の季題にするのも構わない。しかし夏みかんとなると、味わう季節からして夏では遅い気がする。現代では「冬みかん」が終ってしばらくすると、もうハッサクや甘夏が店先に並ぶ。その姿を庭先に愛でるのはこれより遙かに早い時節である。晩冬から春先までのいま頃が一番、姿が美しいと感じる。