◆豊後梅 22010/03/03

 ところで既に記したように豊後が大分県中部および南部を指す旧称であることは疑いない。だが、それだけで豊後梅の「豊後」を豊後の国の「豊後」と見なすのは危険である。その程度の論拠で納得していると、いずれ浄瑠璃の豊後節までが大分県の民謡と思われてしまうだろう。県のホームページで「豊後梅は、その名の示すように豊後(大分県)に発祥し、古くから豊後の名産として知られていました」と記すからには、名称以外の何か有力な根拠が必要である。

 しかし同県の県花・県木の紹介ページには、この点に関する明確な説明がない。「豊後梅の歴史」と題して江戸時代も17世紀後半の延宝9年(1681)に刊行された水野元勝の「花壇綱目」を紹介しているが、この刊本は今で云うところの園芸手引きであって豊後梅の由来を記すものではない。土質や施肥などの養生法は記しても、豊後国との関係には触れていない。この書の記載から推定できるのは、この品種が当時すでに園芸種として好事家などの間に一定の知名度をもっていたと想像されることくらいである。

 ホームページにはもうひとつ、杵築(きつき)藩主の松平公から「毎年将軍家に大梅の砂糖漬が献上され」たとの記述も見える。だが、この大梅を豊後梅と断定するためにはやはりそれなりの証拠や傍証が必要である。そうしたものが全て揃って献上の起源が明らかになり、それが江戸の初期17世紀初めにまで遡ることができて、しかも将軍家がこれを杵築の梅ではなく豊後の梅と呼んでいたことが文献や史料から説明できれば、当時まだ無名に近かったこの品種が江戸を中心に豊後梅(ぶんごのうめ)と呼ばれるようになったというようなことに、あるいはなるのかも知れない。

 そうなって初めて、上記の「花壇綱目」も大分県の県花・県木を支える史料のひとつに仲間入りすることができる。税金を使った仕事に史実に基づかない希望的記述や曖昧さは許されない。ただでさえ不確かなインターネット情報に新たなノイズを撒き散らすのは止めるべきだ。不明確な部分は「不確かではあるが」と率直に記す勇気が必要である。県の公式ページが今のような虚仮威(こけおど)しに近い文献史料の利用を行っていては県民の文化水準までが疑われかねない。(了)


◎季節の言葉 ひな飾り2010/03/03

 今日は春の節句。近ごろは「節供」より「節句」の方が多く用いられる。だが本来は節(せち)の日に供えるものの意である。だから「節供」と記すはずだが、いつの間にか替ってしまった。これも一度確かめておく必要があろう。なお節とは季節の変わり目ごとに祝いをする日のことで、元日(一月一日)に始まり、三月三日、五月五日、七月七日、九月九日と続く。

 子どもの頃、娘はいなかったが毎年この季節になると父が土蔵から「お雛様」を出して飾ってくれた。おそらくは伯母・叔母たちが買ってもらったものを姉妹で分けるわけにもゆかず、そのまま生家に残したのだろう。だから明治の作ではないかと思う。飾ってもらえたのは小学校までで、その後はぷつりと姿を見なくなった。土蔵の奥を探せば、きっとどこかで眠っているに違いない。

 また見たいものだ、今年こそは出そう・探そうと思っているうちに30年も40年も過ぎてしまった。どこにしまってあるか、もう教えてくれる人もいない。今のうちに見ておかないと、お雛様の存在すら誰も知らなくなってしまう。

  雛菓子の美しかりし世もありし 池内たけし


 写真の雛はパンフラワーを素材にした素人の作だが気に入っている。豆菓子のように小さくて可愛い。