◎練馬野にも空襲があった 52010/03/09

 その頃、中国大陸では関東軍による東北部への侵攻作戦が慌ただしく進められていた。昭和6年9月には柳条湖事件を自演して満州事変の火ぶたを切り、翌7年には各国の意向を無視して満州国を樹立し、長い日中戦争の泥沼へと突入していった。昭和8年は満州事変に関するリットン調査団の報告書が国際連盟総会で可決され、日本政府が連盟からの脱退を余儀なくされた年でもある。

 だが練馬野も大泉も学園都市の建設を除いては昔と何ら変わることのない平穏な日々が続いていた。時折通る電車の音以外は馬のいななく声か風の音が響くばかりだった。住民には軍部の意図や政府の方針など知る由もなく、不満といえば板橋区への編入が決まって村役場が廃され何かと不便を感じることくらいであった。


 そんな練馬野ではあったが戦線の拡大に伴って、兵員需要を賄うための徴収の余波が次第に押し寄せるようになった。特に米英開戦が避けられない状況になると、働き盛りの若者がいる家々には次々に召集令状の赤紙が届けられた。危機感を募らせた女性たちの間に、誰言うとなく千人針をしようという話が持ち上がったのもこの頃である。

 千人針とは一枚の布に千人の女性が赤糸で一針ずつ刺し、全部で千個の縫い玉をつくって出征兵士に贈る布きれの意である。戦場に赴けない女性たちが編み出した切ない祈りのような運動でもある。その起源は半世紀前の日清・日露の戦役まで遡る。家族や親戚から贈られた千人針の腹巻きをいつもしていた出征兵士が戦場で危ない目に遭いながらも無事に帰還できたという言い伝えに村の女性たちは願いを託した。(つづく)

 ⇒ http://www.pref.shiga.jp/heiwa/popup/aha_22.html 千人針(滋賀県)