☆追悼・井上ひさし先生2010/04/15

 井上先生が亡くなられた。昭和9年(1934)11月のお生まれである。先生は六十代も半ばを過ぎる頃から僕はあと何年生きられるかな、元気で体力の要る台本の執筆があと何本できるかなと半ば冗談のように言っておられた。当時はまだ幼かった坊ちゃんのことも気がかりだったに違いない。

 せめて平均余命くらいはお元気で、存分なご活躍をお願いできるものと思っていた。今の七十代半ばならあと10年やそこらは大丈夫と勝手に決めていた。それなのに急に鬼籍に入られてしまった。日本の戦争と平和について考える上でも、日本人のユーモアや知の問題について考える上でも大きな大きな柱を失ってしまった。誠に残念と云うほかない。

 すでに多くのメディアが関係者のコメントを発表し、特集も組んでいる。ここでは先生の作品を夢中で読み、その芝居を愛し憧れ、台本の遅れに悩まされながらも、劇場側から叱咤されたり揶揄されながらも、必死で芝居づくりを支えてきた人々のあったことを指摘しておきたい。またそれらの人々が先生のご様子の変調を感じ、人間が生き物である以上は誰も避けることのできない運命の日の遠くないことを察しながらも、実際にそうなってみると羅針盤を失い舵を失った小舟のように深い悲しみと落胆に揺れ沈み悲嘆に暮れる姿を目にして改めて、先生の芝居に賭ける情熱やお人柄を思わずにはいられない。

 十年ほど前のある日、先生が新宿のサザンシアターで行われた公演の後に「僕の夢は僕が亡くなったらサザンシアターを1年間借り切って、僕の芝居を全部通しでやってもらうことだね」と言われたことがある。そのときは何も考えずに「ああ、それは豪華ですね」と応えてしまったが、キャスティングや稽古時間の確保などちょっと考えただけでも困難な問題がたくさんあってすぐに実現できそうな話ではないとあとで気づいた。あるいは舞台制作の素人を前に軽口を言われただけのことかも知れない。だが「台本の心配はないですね」と言ったとき、「これが僕の遺言だって今から言っておけば、きっと誰かが考えてくれるでしょう」とも語っておられた。実現すればファンにとってはまさに夢のような話である。


 早いもので今日は仏教で云えば初七日にあたる。今頃、先生はきっと三途の川のほとりで恐い恐い鬼の姥と翁に詰問されていることだろう。若き日の先生には、とても娘さん三人の父親とは思えない「江戸紫絵巻源氏」のような性春を謳歌したパロディ小説もあるからだ。どんな顔で抗弁されることだろう。そう考えると悲しみが少し癒え、可笑しさが込み上げてくる。

 持ち前のユーモアと知恵で無事に川を渡りきって、彼岸で待つ竹田又右衛門さんなど幼馴染みの方々と再会できるよう祈りたい。そして小説のことも、台本のことも、締め切りのことも、「十分に強い」女性のこともみんな忘れて「下駄の上の卵」時代の童心に返り、思う存分に野球や悪戯を楽しんでいただきたい。

 先生、楽しい夢を、愉快な言葉を、生き抜く知恵を、たくさんたくさんありがとうございました。(合掌)