■たらい回し--新釈国語2009/07/22

 ある事柄や地位などを法律の範囲内であることを口実に馴れ合いや馴れ合いに近い簡略な手続きによって都合のよい身内などに次々と順送りし、決して他の者には触れたり近づいたりさせないこと。たらい(盥)は手や顔などを洗うために水を入れておく器を指す。元の意は、それを銘々が揃えて自分専用に使うのではなく仲間内でひとつの盥を買い求め、それを皆が順々に送り回して利用することをいった。現在では政権や一部の役職などのありようを示す言葉として主に用いられ、あたかも既得権であるかのように一部の政党や団体内で顔ぶれだけを替えながら独占し続けるさまをいう。
 なお一部の辞書やそれらに基づくインターネット辞書の中には、これを曲芸としての盥回しに由来する語と解説したものも見られるが、それらは回すことの意を誤解した安直な説明であり、利用に際しては十分な注意が必要である。

◆自民党総裁表紙論(2)2009/07/17

 自民党所属の国会議員384名はまず、上記のどの意味に「表紙」という語を解しているのか一人一人明らかにする必要がある。それは1年に157億を超える政党交付金を消費し、歳費など受け取って活動する国会議員としての最低限度の説明責任を果たすことでもある。自民党においては総裁という役職がいったい何であるのかをまず明確にしてもらう必要がある。取り外し自由の見せかけに過ぎないカバーなのか、それとも背だけを固めた仮表紙なのか、あるいは党員という名の読者が自分の好みで後から付けた本表紙なのかということをはっきりさせる必要がある。「広辞苑」や「大辞林」に記されたような「外側につける」といった曖昧な表現は許されない。そのような表現では、選挙の時だけ羽織って格好良くみせるジャケットだろうと疑われるだけだ。そして前回の郵政民営化をスローガンにした選挙と同じく、またしても騙そうとするのかと有権者を益々怒らせるだろう。
 また「包装紙」との表現もあるようだが、書店で出す包装紙はジャケットの上にさらにもう一枚羽織るものである。単に無駄であるというだけでなく、中身を一層見えにくくする役目をも果たしている。国民にはもはや悪意ある行為としか映らない。そこまでして有権者を騙そうとする意図、愚弄する目的は何なのか、これについてもやはり明確な説明が必要である。
 繰り返すが、国民から厳しく問いつめられているのは総裁や党執行部やそれを裏で支える大ボスや小ボスだけではない。小泉郵政民営化という仮表紙のついた書物を、これが本当の表紙ですと偽って選挙を戦い、大勝利するやあの表紙は1年しか使えないものでしたと、国民の許諾も承認も得ないまま勝手に取り替えてしまった自民党そのものにある。とりわけ1年ごとの取り替えを勝手に行い続けている所属の国会議員全員にある。表紙の取り替えに関与したこれらの議員全員に、まさに無断で取り替えたことの説明責任が求められている。
 書物も所詮は紙である。そうたびたびの表紙取り替えに耐えられるほど丈夫にはできていない。すでに書物本体がぼろぼろになっていることに気づかないまま、いくら立派そうに見える素材を用意してみても本体側の接着面がぼろぼろでは持たないことをもっと知る必要がある。この論が腑に落ちない向きは是非、手元の上製の書物を取り出してその表紙と本体とがどう接着されているか確かめることをお勧めする。(了)

◆自民党総裁表紙論(1)2009/07/16

 先日の都議会議員選挙で大敗した自民党は、党の最高責任者である麻生総裁の責任を問うかどうかをめぐって揺れている。ここでは、議論の中でしばしば聞こえてきた「表紙」という言葉について考えてみたい。マスメディアも含めて日本では、この言葉を使う人々の思い描く表紙というものが厳密な意味での表紙ではないと感じることが多い。その曖昧さが今回のような議論をまたしても引き起こしているのではないかと強く感じる。
 背景には日本の書物文化が人々の間に必ずしも十分には浸透しなかったという問題があるが、実は肝心の出版者にもこのことをあまり強くは意識してこなかったという責任がある。出版者自身が「表紙」についてどう考えているかは、日本の代表的な辞書を開けばすぐ分かる。例えば「大辞林」には「書物や帳簿などの外側に保護・装飾・内容表示などのために付けた、厚紙や革・布などのおおい」と説明されているが、これは「広辞苑」がいう「外側につける紙・革・布などのおおい」とほとんど差がない。
 これらの定義・説明には大きな問題がある。表紙の定義で最も大切なのは、日本語で言うところのカバーとの差を明確にすることである。英語の cover は本来の表紙に相当する言葉だが、日本では何故か jacket(ジャケット) の意に用いられる。ジャケットとは上着のことであり、寒ければ羽織り暑ければいつでも脱ぐことができる便利な衣類を指す。しかしカバーは衣類ではない。外皮の一部である。皮膚だから色を黒くしたいときは黒く塗り白くしたいときは白く塗ることはできるが、剥がして取り替えるのは容易ではない。本格的な手術を必要とする。専門の製本所に頼むしかないが、そうたびたび取り替えると書物本体をも傷つけたり痛めることになる。
 書物というのは中身が一番大事である。だから著者が書いた原稿を大判の用紙に印刷して消えない状態を確保し、これを予定したページの大きさに折りたたんで、背になる部分だけを固め、さらに仮の表紙を付けて販売した。これがフランス装とかフランス綴じと呼ばれるものである。読者は、この本を開くためには最初に各ページの地や小口部分の折り目にペーパーナイフを入れて切り離さなければならない。本表紙は読者がそれを必要と思えば、自分の気に入った材料・色・デザインなどを指定して専門の職人に頼んだり、自分の手で楽しみながら仕上げたのである。ペーパーナイフを入れる必要がないように予め裁断はされているが、今の新書版や文庫本の本体を包むように背の部分で糊付けされているものが仮表紙 paperback(ペーパーバック)である。この呼称には本表紙ではないという意味が含まれている。(つづく)

■政治家--新釈国語2009/07/01

 国の内外に揉め事や争い事などが起きないよう予め実情を調べて対策を立て、それらを法案として議会に提案して国民の合意を取り付けることに日夜勤(いそ)しむ人々。現職の国会議員またはその経験者について用いることが多く、これを地方議会議員に用いるときはやや異なった意味合いが含まれる。同じような活動を行っていてもその目的が私利私欲と保身に傾きがちな人々、駆け引きや根回しが巧くても党利党略を優先する人々と真の意味の政治家とは区別されなければならないが、日本では基準となるべき政治責任の中身が曖昧模糊としているため専らマスコミ報道に頼ってこの判断を下そうとする嫌いがある。なお公的な責任感に欠け、自己と特定地域・団体の利益のみを追求する議員は軽蔑して「政治屋」と呼ばれるが、これと英語の politician とは全く異なるものである。米語の場合は多分に共通する意味合いを含むとは言え、政治風土を無視して単純に同一視するのは妥当な解釈とは言い難い。

■エコ--新釈カタカナ語2009/06/27

 エコノミー(英語:economy、経済性重視)なのかエコロジー(英語:ecology、環境負荷軽減)なのか、正体がよく分からない和製のカタカナ語。前者であれば景気対策が重要視され、消費の拡大が追求される。後者であれば地球環境への負荷を極限まで減らすことが目標となり、資源の消費は抑制されなければならない。しかしエコポイントだとかエコ減税と呼ばれるものを見ていると国民の購買意欲を刺激し、一層の消費拡大を図る施策のようにも見えてくる。大型の液晶テレビに買い換えてエコポイントを稼げばテレビをつくるための資源は消費され、テレビを見る時間が増えれば電力の消費も増える。貯まったエコポイントを使えばそれはそれでまた新たな消費に繋がる。エコ減税を利用してクルマを買い換えればクルマをつくるための資源は消費され、燃費がよいと乗り回せばガソリンの消費も増えてゆく。どこがエコロジーなのか分からない。

○蓮華躑躅--夏便り2009/06/26

 先祖の命名には時折おやっと思うような理解しがたいものがあって困惑させられる。この高原に咲くツツジの色もそのひとつである。まだ田起こしが始まる前の田圃に咲く蓮華草の花は誰が見ても紅色ないしは薄紅色系であろう。ところが同じく蓮華の2文字を冠しながら、ツツジの方は朱色である。これを紅色系と感じる人はいまい。
 信州の霧ヶ峰から車山に連なる高原は今がちょうど見頃である。昔、大菩薩峠でこの群落に出会ったのは7月の初めだった。ところが日光や赤城高原あたりでは1ヵ月以上も早く5月には咲いていたように記憶する。広い牧場の至る所にこの花の大きな株があって辺り一面、朱色に染まっていた。高地に行くほど、その色は濃さを増すように感じる。
 ところがこの花を平地に持ってきて庭に植えると4月の中頃には咲いてしまう。しかもその色たるや何とも上品というか、物足りないというか、ごく薄い朱色なのである。高原で見るような、ちょっとどぎついと感じる朱色に染まることは決してない。咲いてもすぐに萎れるような気がする。まさか「野に置け蓮華草」でもあるまいにと思ったものである。
 写真の花は、畑の隅で咲いていたものを見つけて撮影した。畑とはいっても標高が900メートルはある高原の一角だ。それでも少し色あせたように感じるのは、近くに人間が住まうせいだろうか。

■裁判員制度--新釈国語2009/06/24

 憲法以下各種の法律に精通し全ての権力から独立して良心に従いながら裁判を行うとは言っても、人を見る目においては何かと不安を抱える多くの裁判官に対し、国民が優しく救いの手を差しのべることで、無実の人が誤って罰せられるのを防ごうとする仕組み。この仕組みに国民が参加するのは(あるいは参加しなければならないのは)裁判官の誤った判断から自分たちを守るためであって、司法に対する信頼向上のためなどではない。信頼できないからこそ参加するのである。
 この制度について最高裁判所は「国民のみなさんに裁判員として刑事裁判に参加してもらい、被告人が有罪かどうか、有罪の場合どのような刑にするかを裁判官と一緒に決めてもらう制度です。」と説明しているが、罪の軽重を案ずる前にまず冤罪撲滅のためにこそ機能させる必要がある。裁判官3人+裁判員6人という数の配分も、この機能の発揮を期待させるものである。
 裁判員に選ばれた人は、「国民のみなさんが刑事裁判に参加することにより、裁判が身近で分かりやすいものとなり、司法に対する国民のみなさんの信頼の向上につながることが期待されています。」などという御為ごかしの説明に惑わされることなく、また科学的だとか証拠だとかいったことに神経を尖らせるのでもなく、何よりもまず自分の目でまっすぐに被告と向き合い、その人が起訴状に記されたような罪を犯す人間であるかないか、それをみずからの心に問うてみることが基本である。裁判員6人の目が揃いも揃ってよほどの曇ったものでない限り、6人が思うところを率直に述べることによって、足利事件のような馬鹿げた冤罪は無くせるだろう。

◎アジサイ回顧(1)--夏便り2009/06/21

 先週15日に終了した連載記事「アジサイの季節」(全37回)に書き漏らしたことなどを綴ります。
 源順が白居易の「紫陽花詩」を「あぢさゐ」と結びつけたことによって日本の知識人がもっていた「あぢさゐ感」が大きく変わった、という筆者の説はすでにご紹介しました。彼がこの植物に注目したのは今から1080年ほど前のことです。白居易が紫陽花(シヨウカ)と名付けた植物の正体が何であるかは本欄の守備範囲を超えます。究明は、その道の専門家に譲るしかありません。ここでは、この花が日本で言うところのアジサイには該当しないだろうという点だけ指摘しておきます。
 その理由は、現代中国語でもアジサイには全く別の呼称が用いられているからです。ひとつはよく知られる八仙花 baxianhua(aの音は全て上バー付き)です。この呼称は「羣芳譜・雪毬」に「繍毬木」とか「春月開花、五瓣、百花成朶、團●如毬、其毬満樹」とあってコデマリをも思わせる植物ですが、「花有、紅白二種」ともあるのでアジサイにも用いられています(●の字は国構え+欒)。
 もうひとつは綉球花 xiuqiuhua(綉は繁体字、uの音はアクサン付き)です。どちらの呼称も、北京にある対外経済貿易大学と商務印書館が共同編集した「小学館日中辞典」に掲載されています。

◎漢名探し(11)--アジサイの季節2009/06/15

 源順は漢詩文をよくし、「万葉集」の訓釈や「後撰和歌集」の撰進にも参加した英才です。「倭名類聚鈔」の編纂中に「白氏文集」を読み、そのとき目に飛び込んできた漢名「紫陽花」の何が彼に「あぢさゐ」を連想させたのでしょうか。キーワードとなりそうなものは多くありません。まず「山花」であり、花の色が「紫」であり、よい香りがして、しかも綺麗だということです。この中で視覚的に最もはっきりしているのは花の色です。この色と綺麗な「山花」ということだけで恐らく、すぐに「あぢさゐ」が浮かんだのでしょう。
 醍醐天皇皇女勤子内親王の命により撰進を命じられた身としては、一語でも多くの採録を心がけるのが人情です。だから、この段階で採録を決めてしまい、もう一つの手がかりである香りを確かめるという作業は省いてしまったのでしょう。そう考えることで紫陽花に「あぢさゐ」の訓を付けることが可能になります。鼻が利くとか嗅覚が怪しかったなどという詮索は無用でしょう。
 ここで一番大事なのは、源順の脳裏にあって機能した花の印象が「万葉集」掲載の二つの歌に表現されたものではなく、当時の人々が年一回梅雨の季節に実際に目で見て感じていたものだろうという点です。つまり当時「あぢさゐ」と呼ばれていたのは、一昨日第1回に掲載したヤマアジサイに近いものだったのではないでしょうか。この花なら色が紫というよりは青や藍に近いものであっても色変化の点から許容されるでしょうし、綺麗な山花という点でも合格でしょう。これでガクアジサイにわざわざ「顎」を付ける理由もはっきりしてきます。要するにガクアジサイは万葉の「あぢさゐ」には該当しないのです。
 そして源順の「早合点」は思わぬところで日本の知識階級に変化をもたらしました。それまで避けていた「あぢさゐ」の使用が白楽天の紫陽花を思い浮かべることで一気に解き放たれ、自由に歌の中に詠み込むことができるようになったのです。四葩との併用は平安歌人のこうした心の変化を示す呪(まじな)いのようにも感じられます。万葉集の時代から既に400年の歳月が流れていました。
 今年のアジサイ特集、最後の一枚はヤマアジサイの仲間といわれるユキノシタです。細やかな花たちの優しい微笑みをしばしお楽しみください。ご愛読、誠に有難うございました。(完)

新釈カタカナ語辞典(予告)2009/06/10

 明日から不定期で、新しい語釈辞典の連載を追加します。カタカナ語というのは片仮名で表記される言葉という意味です。パソコン用語など外来の言葉が中心になりますが、由来のはっきりしないものや日本生まれの言葉も混じりそうです。
 近頃ひどく気になるのが、官僚も政治家も新聞記者も平気で、明らかに従来の日本語とは生まれも育ちも異なる片仮名言葉を使うことです。一方で高齢化社会の到来を問題にしながら、一方では高齢者に決して理解しやすいとは思われない外来の言葉や聞いたこともないような片仮名表記の言葉を何の注釈もなしに平然と使っています。こうした姿勢に見え隠れするのは、この程度の言葉が理解できない日本人などいるわけがないといった、聞き手や読み手である国民を無視した高慢な態度です。
 筆者もまた理解できない側の一人であることを最初に申し上げて、懸命に意味や由来を調べたり勉強を重ねながら解説するつもりです。下記がその一例です。ご期待下さい。

■マーケティング marketing(英語)
 商売を盛んにして儲けを増やすために、どんな商品やサービスがよく売れるか調査し、それらをどんな方法で宣伝し販売すれば成功するか検討して結論を出すこと。官僚や学者風に言えば、生産者から消費者への流通を円滑にする活動。
 高度成長前の時代を知る人々にはマーケットは食料品や衣料品や日用雑貨などを買い求める場所、小さな店や露店の並ぶ市場(いちば)のイメージが強いことでしょう。しかしこの言葉の背景にあるマーケットは、売る側に立つ商人から見たものです。つまり商品の売り先です。利益を期待できる市場(しじょう)であるか、将来そうなる可能性があるかに関心をおいて使っています。消費者にとっては警戒が必要な言葉と言えるでしょう。