リヴ・タイラーと絵本--人気女優の子育て事情2012/09/26

 今週初め、見慣れない雑誌が一冊転送されてきた。雑誌のタイトルは"GOSSIPS"、一目見て若い女性向けと分かる体裁のファッション誌であった。が、それにしてはタイトルが刺激的である。表紙をめくると、米国発行の"US WEEKLY"と独占提携している旨の説明が目に止まった。同誌は米国のセレブ(celebrity)と称される人々の最新動向をファッションを中心に紹介する週刊誌である。届けられたのは、言わばその日本語版ダイジェストといったところだろう。但しこちらは月刊で、その2012.11号だった。

 ページを繰ると、セレブ達のさまざまなデニム姿が紹介されている中に、この手の雑誌には珍しい「セレブがオススメ! 秋の読書週間」と銘打った見開きページが出てきた。「読書好きのセレブたちがオススメする愛読書を大公開!」とも書いてある。そしてエマ・ワトソンは「星の王子さま」、ドリュー・バリモアは「夜と霧」、ナタリー・ポートマンは「アンネの日記」、ラナ・デル・レイは「思考は現実化する」、ウィル・スミスは「アルケミスト 夢を旅した少年」といった紹介に混じって、「もしゃもしゃマクレリー おさんぽにゆく」を勧めるリヴ・タイラーの写真があった。これが我が家に転送されてきた理由だった。

 リヴ・タイラーは「アルマゲドン」や「ロード・オブ・ザ・リング」シリーズに出演し日本の洋画ファンにも人気の高いハリウッド女優だが、彼女がユニセフ(UNICEF・国連児童基金)による子どものための活動(日本では黒柳徹子さんの活動が著名)や女性のための乳ガン撲滅運動(この活動には彼女の母や祖母も参加)に熱心に取り組んでいることは日本ではあまり知られていない。

 彼女がこうした活動に熱心なのは自分でも出産を経験し、実際に子育てをしていることの影響が大きい。2003年春にミュージシャンのロイストン・ランドン氏と結婚し、翌04年暮れ一子マイロ(Milo William)君に恵まれた。ランドン氏との生活には破局も伝えられたが、彼女自身の生い立ちから来る複雑な思いを子どもにだけはさせたくないという気持が強く、精一杯の子育てに努めている様子が"US WEEKLY"に掲載された親子のスナップ写真からもうかがえる。

 彼女はマイロ君との時間を大切にしていて、パーティにおける彼女のゴージャスな服装の解説を読むと、「今週、リヴは煌びやかなパーティーに出席して赤いじゅうたんの上でポーズをとるよりも、ジーンズ姿で息子のマイロ君とマンハッタンを散歩することに多くの時間を費やしました」といった調子のコメントを時々見かける。そんな彼女がマイロ君のために読んであげる絵本、親子で一緒に楽しむ絵本が"Hairy Maclary"(邦題:もしゃもしゃマクレリー)なのである。


 この絵本は今から29年前の1983年にニュージーランドで初めて出版され、主人公のマクレリー(テリア犬)はたちまち英語圏の子どもたちの人気者となった。(彼女自身も犬を飼っているからマンハッタン近郊のウェストビレッジに行けば散歩中の彼女に遭えるかも知れない)が、ただの可愛い犬の絵本ではない。それは手に取って実際にめくってみると分かる。日本人のもつ絵本に対する先入観や常識が根底から覆されてしまう。(詳細は2009年11月24日の記事で紹介)

 ⇒ http://atsso.asablo.jp/blog/2009/11/24/ ドッドさんの絵本(2)

 しかしそんな優れた絵本でも、キングスイングリッシュ圏内での普及に比べると、アメリカンイングリッシュ圏内での知名度はさほど高くない。絵本のセンスもどちらかと言えば英国的である。愛息子のために、この絵本に目を止めた彼女の知性や母性に感心するほかない。ハリウッドの人気女優だけでは終わらないことを、彼女を追いかけるカメラマンの目が確信している。何より、そうした母子の成長を見守るレンズの目が温かい。これが、多くのハリウッド女優や日本の雑誌メディアと異なる点だろう。

 この絵本の日本紹介は2004年である。通訳もされる翻訳家佐藤綾子さんのご尽力により出版にこぎつけた。翻訳には小生も参加でき、いまこうして絵本が縁となってリヴ・タイラーさん母子と繋がったことに感謝している。

 ⇒ http://www.usmagazine.com/hot-pics/matching-uggs-2011211 (お揃いのブーツで)

敬老の日--大根日記(4)2012/09/17

 今日は敬老の日。前々回の記事で触れた母は大正8年(1919)に生まれ、独居を断念するきっかけとなった昨年末の事件まで入院経験なしの生活を続けてきた。通院は20年ほど前、他人に勧められて「持病」の心臓病の診察を受けに公立病院を訪れた1回だけである。そのとき処方された薬を服用して「ひどい目に」あって以来、医者嫌いとも言える状況が続く。それでも月2回、2週間おきに巡回してくる地域の診療所の看護師の訪問だけは受けていた。

 こう記すと母はいかにも健康そうに感じられるが、真偽のほどはよく判らない。その理由は第一に、診療所の医師によると心臓に「持病」のような症状は見られないが若干血圧が高めであるとのことだった。母は数年前から「血圧の薬」と称して、この医師の処方したものを確かに服用していた。また同じ頃に父が亡くなり、「夜、眠れないことがある」と看護師に訴えて睡眠導入剤を処方してもらうようになった。これらの診療・投薬に要する費用(自己負担額)は月々3千円くらいであったと聞く。

 理由の第二は、昨年末の入院事件で判った保険外費用の存在である。そのひとつは農協の置き薬代が毎月1万円前後もかかったこと、また処方された薬の配達に訪れる町の薬局の主人に勧められて飲用が始まった各種サプリメントの支払いが毎月やはり1万円を超えていたことである。母は薬局が勧めるサプリメントを次の二つの理由で毎日必ず飲んでいた。一つはテレビのワイドショウ番組でよく話題にされること、もう一つは祖父(母の実父)から「医者の薬は効かないから具合が悪いときは薬局の高い薬を飲まないと駄目だ」と聞かされていたことである。

 町の薬局が届けるサプリメントも農協の置き薬も処方箋に基づく投薬も、母にはみな同列の「薬」と映っていた。独り暮らしの母が信じたのは医学的な知識でも医者の言葉でも身内の言葉でもない。自分の財布から出てゆく金額そのものだった。その差こそがまさに効能の差であると信じて疑わなかった。加えて、症状が改善しないのは服用量が少ない=薬代を惜しむからだという妙な「自信」のようなものまで付けてしまった。だから年末に入って風邪をこじらせると当然のように手元の総合感冒薬・解熱鎮痛剤・睡眠導入剤・各種サプリメントを次々と過剰に服用し、面倒な食事の準備は後回しにして布団に横たわった。そして「後半日、発見が遅れたら」というところまで病状を悪化させた。

 幸いにも大事には至らず、新年早々に退院を許された。但し独居は不可との条件付きだった。さんざん揉めた末、我が草庵に落ち着くことになり、今は全く新しい住環境(食事環境+文化環境)の下で暮らしている。退院から8ヵ月以上が過ぎ、酷暑の夏もどうやら峠を越えた今、事実として言えることは退院したそのときから薬というものを全く口にしていないこと、もちろんサプリメントの類の利用も皆無なことである。朝昼晩きちんと定時に食事を取り、午後のおやつにお茶と少々のお菓子(または煎餅)を口にするのみの生活が続く。

 だから保険診療の公費負担分月額2.7万円(患者負担1割として)のことも、薬局・置き薬関係の支出の月額2万円余のことも次第に母の記憶からは遠ざかりつつある。そしてよく眠る。悩みと言えば「大きい方がたまにしか出てくれない」ことだろう。腰は数年前から、くの字に曲がってしまった。長い歩行には杖が欠かせない。だが痩せ落ちた肩や背中の肉は元に復し、痩せ細っていた腕も元の太さを取り戻した。食事作りは止め(新しいガス器具の操作に不慣れ)、洗濯物を干したり取り込むこともできない(腰を伸ばすのが難儀)が、農作業ほどのこだわりを見せることもない。悟った様子もないが惚ける気配もない。

 本人は来春の定期健診まで健康診断を受けない・その必要がないと言い張っている。ところが昨今のような何かと難しいことの多い世の中では、年寄りがあまり医者から遠ざかるのも感心できないものらしい。何より行政側に生存の確認の取れないことが大きな理由のようだ。医者要らずの健康・元気者がもっと歓迎されるような「普通の」世の中でありたい。保険診療が年1回・定期健診のみの被保険者(例えば50歳以上、60歳以上、65歳以上の)には多少でも追加の所得控除が受けられるとか、翌年の保険料負担が軽減されるとか、KKR(国家公務員共済組合連合会)の保養所の優待利用券でも配られるといった恩典・健康奨励施策があれば目標にもなろう。励みのない、ただ徴収あるのみの徴税国家ではつまらない。(つづく)

オクラ(夏野菜)--ヒロ田中さんからの手紙2012/09/02

 ブログの中断が28ヵ月を超えた。理由は触れないが、いぶかしく思われた方、写真の手配でお困りになった方など少なからぬ方々に影響を及ぼしたことも確かだ。つい先日まで何も知らずに過ごしていた。今となっては不明をお詫びするしかない。

 だが、この間ずっと気にかかっていたのは米国在住・ヒロ田中さんのことである。ヒロさんが小生のオクラの記事に目を止められ、ご自分の体験や彼の地の調査で判明したことなどをわざわざお知らせくださったのはブログが中断する少し前、ちょうどお彼岸の終りだった。

 日本はまだオクラの季節には早かったので「夏が来たら公開して、せっかくの知見を多くの方に知ってもらいましょう」と約束したところで中断となってしまった。我ながら全く不甲斐の無いことをしたものである。

 では前口上はこのくらいにして、以下にヒロ田中さんのご教示を転載する。長文なので切りのよいところで2つに分け、それぞれ見出しを付けた。略地図の赤い印は米国に移住したヒロさんがオクラと遭遇するテネシー州メンフィスの位置である。

米国テネシー州メンフィス


(1)米国にもオクラがあった ?!

たまのまさと 様

 北カロライナ州シャーロット在のヒロ田中と申します。南部生活約30年になります。オクラに関する文章を楽しく読ませていただきました。

 ⇒ http://atsso.asablo.jp/blog/2009/09/05/4563736 オクラ(2)--夏野菜

 時効ですから言ってしまいますが、1981年の夏までオクラは日本独特の季節野菜だと思っていました。夏の料理屋や居酒屋などで出されるあのシャキシャキ、ヌルヌルの突き出し。とりわけ旨いものとは思いませんでしたが、ビールが旨い夏が来ると枝豆などとともに懐かしく響くコトバでした。

 米国南部の女性と結婚したので、強い南部訛りの親戚が大勢できました。大所帯の家族にとっては初めての日本人ということで、毎週末、時にはウィークデーにも晩御飯に呼ばれ、あのヘビーなサザン・フードを食べさせられました。東京の味覚に慣れていた自分にはかなりの舌覚ショックでした。

 さて、東京から遙々メンフィスへ移住して来たその夏、大所帯の晩御飯の支度に掛かったブロンドの義母が紙袋を私に手渡しながら「庭の、ほら、あそこに生えているオークラをいっぱいもいできて。」と言ったものです。なにか庭に生えているものを「もいできてくれろ」と言うのですが、キッチンの窓から見渡すと、トマトやズキーニなどと並んで大きな葉の何かが生えているのは見えても、それが何であるか見当が付きません。

オクラの畑

 そこで、庭の片隅のその場所まで行き、ランダムに栽培されている植物を一目見て驚きました。それは、オが強く発音されるオークラであり、ぼくの目には日本のオクラだったのです。かなりの文化的衝撃でした。米国南部、しかもミシシッピの深南部で人生の大半を生きてきた彼女には、日本にもオクラがあることなど知る由もありません。

 その日の晩御飯は定番キャットフィッシュのフライだったので、とてつもなく大量のオークラは1センチくらいの長さにカットされ、コーン・ミールに塗(まぶ)され、コーン・オイルでフライにされて食卓に並びました。

 移住したメンフィスとケイジャン文化のメッカ、ニューオーリンズは車でたったの5時間の距離でしたから、音楽と食体験のためよくルイジアナへ南下しました。おかげで何種類かのクリオール/ケイジャン料理のレパートリーが増えました。(つづく)

◎言葉の詮索 縁結び(4)2010/04/09

 ましてこれが親類縁者となれば、夫や妻となれば、子となれば、兄弟姉妹となれば、それらの人が口にするものを自分も口にすることに何の造作や躊躇(ためら)いが要るでしょうか。日本列島には昔から、人間同士の繋がりや知り合うことの大切さを思う温かい気持が人々の心の中に息づいているのです。


 そんな島国に新たな言葉として定着した縁結びには単なる知り合いの関係を超えた、より深くより密接な関係へと進むことの願いが込められています。年齢の異なる他人同士があたかも親子であるが如くに契(ちぎ)る養子縁組み、血縁はなくても兄弟の約束を交わす義兄弟の契り、赤の他人同士だった男女が結びつく夫婦の縁組みなど様々な組合せによる結びつきが考え出されました。中でも若い男女の結びつきは生物としての本能に基づくものでもあるため和合による次の世代の誕生が期待されると同時に、他の結びつきとは異なる人間社会ならではの難しい問題も残されています。

 織田信長などの武将が活躍した時代、盛んに来日してキリスト教の布教に努めた宣教師たちは日本の人々に神の教えを説くため俗語を交えた平易な教義書をつくりました。その一冊「どちりなきりしたん」には「一度縁を結びて後は、男女ともに離別し、又、余の人と交はる事かつて叶はざるものなり」と、記されています。新しく誕生した徳川幕府の禁教政策によって宣教師たちは迫害されたり国外に追い払われたりしたため、この書の影響は極めて限定的なもので終ってしまいました。江戸の町ではかなり自由な男女の関係も行われていたようです。

 明治に入っても男女の悩みには深刻なものがありました。作家として知られる夏目漱石もまた夫婦の関係については最後まで悩み続けたひとりでした。長編小説「明暗」には「こればかりは妙なものでね。全く見ず知らずのものが、いっしょになったところで、きっと不縁になるとも限らないしね、またいくらこの人ならばと思い込んでできた夫婦でも、末始終和合するとは限らないんだから」と記しています。この作品は新聞に連載されていましたが、作者の病死によって結末を見ることなく終ってしまいました。作者がどのような結末を考えていたかは想像するしかありません。

 末始終(すえしじゅう)和合するとは夫婦仲の極めてよいこと、男女の関係が末永く続くことを指しています。ヒトがサルから進化した動物であることは最初に書きました。若い皆さんには「良縁を得たい」「この人となら結ばれたい」「縁を結びたい」と願う気持が大変強いことでしょう。しかしそうした気持が一時のものに止まっては固い縁結びにはなりません。「縁結び」とは二人が夫婦「である」という運命のような関係に落ち着くことではなく、夫婦でありつづけるために懸命に努力を「する」関係になるのだと肝に銘じることなのです。だから二人で一緒に、これを神仏の前で誓うことが終生解(ほど)けることのない固い固い理想の縁結びの第一歩になるのです。(了)

◎言葉の詮索 縁結び(3)2010/04/08

 縁結びは仏教の言葉である結縁(けちえん)を訓読みにした「縁を結ぶ」から生まれた言葉です。仏教では仏の道に縁をつけることを結縁と云います。仏の慈悲にすがらずとも生きてゆけると自信を持っていた人、自分のしたいように好き勝手に生きてきた人がある日ふと人生の無常を感じるようになります。生あるものは必ず滅ぶのだと知るようになります。

 すると急に来世のことが気になります。それまで全く無縁だった仏法を意識したり、仏道との繋がりを気にかけるようになります。いずれ生の尽きる日の来ることを知り、何人にもそれが避けられない運命であることを知って、成仏を願うようになります。苦しむことも生死の境目を知ることなく、静かにあの世へ旅立ちたいものだと考えるようになります。そして、あの世を支配する仏の知遇を得ておく必要に気づかされます。これが仏教における結縁、すなわち縁を結ぶの意味です。


 これに対し日本列島に暮らす先人たちが考えたのは今を生きる人々との強いきずなでした。あの世には地獄もあれば極楽もあるだろう。だが、そこに暮らすのはいずれも現世から移り住んだ人々のはずである。ならば、まず現世での縁こそ大事にすべきではないか。現世で互いの繋がりを大事にし、諍(いさか)いを避け、平穏無事に暮らすならば、必ずや来世でもまたそのように他の人々と暮らせるであろう。素朴に、そう考えたのです。これが先人たちの考えた広い意味での縁ということの中身です。

 江戸時代の初期17世紀半ばに松江重頼が編纂した「毛吹草(けふきぐさ)」は貞門俳諧の作法書として広く流布しました。その中に「縁に連(つら)るれば唐の物を食ふ」という表現があります。人間は縁さえあれば全く食べたことのない異国の物でも口に入れるものだと解釈される言葉です。当時の人々が縁というものをいかに重んじていたかの例と云えるでしょう。

 注意したいのはこの場合の縁が決して特別な関係を指す言葉ではないということです。異国である唐から来た人を見たことがある、その人がどんな姿をしているか知っているといった程度のことでしょう。隣国といえども海を越えての自由な往来は叶わなかった時代の話です。そんな程度のことでも人々はこれを天から与えられた縁として大事に考えたのです。袖振り合うも多生の縁とはまさに人々のこうした気持を代表する言葉と云えます。(つづく)


◎言葉の詮索 縁結び(2)2010/04/07

 漢字の縁は漢音では「えん」と読みますが、訓読みでは「ふち」とか「へり」とするのが一般的です。どちらも昨日説明した端っこの意です。日本語ではこのように同一またはよく似た内容の事柄に対して幾つもの言い方や表現のあることが少なくありません。その場合、それぞれの意味に対応する漢字のあるときは使い分けも可能ですが、ないときは同じ漢字を宛てて読み分けることになります。

 縁にはほかにも「えにし」「ゆかり」「よすが」といった訓も使われています。このうち「えにし」は漢語の縁に副助詞の「し」が付いたものだと云われています。これは「いつしか」「おりしも」などというときの「し」と同じ働きをする助詞で、副詞に似た機能をもっています。「えんし」では言いにくいので「えにし」に変わったのでしょう。意味は縁結びの縁と同様に男女間の繋がりを表しています。

 これに対し「ゆかり」は生地、学校、勤務先など何らかの繋がりや関係があることを示す言葉です。親戚関係についても用いられます。また「よすが」は古くは「よすか」と濁らない言い方が一般的でした。文字にするときは「寄す処」と記します。拠り所や頼りの意ですが、漢字の縁を宛てるのはそれが人の場合です。特に夫、妻、子など互いの関係が深く、従って頼りにもなる人を指しています。単なる拠り所の意味で使うときは縁は使いません。


 縁を結ぶということは決して一時的な男女の関係を築くことではありません。人類にとっては社会の永続性を確実にするために、その源をつくることを意味する言葉です。また一人ひとりの人間として見た場合は、生涯をともに手を取り合って一緒に生きてゆくための相手を決めることであり、さらに末の頼みをつくるための伴侶を選ぶことでもあるのです。(つづく)

◎言葉の詮索 縁結び(1)2010/04/06

 縁という漢字は正字では糸偏に彖(たん)と書きます。糸偏は織物を表し、彖には端(はし)の意があります。つまり布の端っこが原義です。この端をもって他の布の端と結んだり端と端を縫い合わせれば、より長い布・大きな布とすることができます。一枚の布だけでは端っこに過ぎなくても他の布と繋ぎ合わせるときには、この端っこが重要な役目をするわけです。

 ところで人間(ヒト)は群れて暮らす動物です。年齢も身体の大きさも力の強さも好みも違う老若男女が社会という群れをつくって生活しています。群れの中で生まれ、寿命が尽きると死に、残った者がその亡骸を弔います。子どもが生まれるためには成熟した若い男女が他の哺乳類と同様に交わり、女性は母となって新しい命を誕生させることが必要です。


 一方、男性もニホンザルのような単なるオスとしての役割だけを負っていてはヒトの社会は成立ちません。伴侶となった女性を助け、住まいや食料を確保し、子どもを安全かつ確実に成人させる重要な役目を負っています。次の世代の担い手が育つまで常に見守り続ける必要があるのです。

 これが父性と呼ばれるものです。従来のサル社会には見られなかった父性の誕生・獲得がサルの群れに継続的な夫婦という結合を生み出し、結合の結果でもある子どもを含めた家族がヒト社会とサル社会とを分ける最も重要な差となったのです。若い皆さんには、この点をしっかりと自覚して伴侶探しに望んで欲しいと思います。(つづく)

◎練馬野にも空襲があった 102010/03/16

 こうして今年2010年の1月下旬にバスの中でたまたま地元のお年寄りから伺った若い頃の思い出話を整理してみると、太平洋戦争が始まってからの練馬野はもはやかつてのような鄙びた武蔵野の一部ではなくなっていたことに気づかされる。実情は全くその逆であり、英米の大国を相手に仕掛けた「聖戦」を完遂するための重要な拠点に変わっていたと見ることができる。


 さすればこの地域が相手からの攻撃や爆撃に晒される可能性は回避できない。ひとたび戦局が悪化すれば極めてその可能性が高くなる。住民たちはそんなことを遠くで感じながら夫や息子や孫を出征させ、留守を預かりながら不安な日々を送っていたことになる。日の丸直撃の話には、そんな住民たちの率直な心情が現れていた気がする。

 事実、終戦間近い昭和20年この地区は全村疎開を言い渡され、多くの住民が隣村にあたる埼玉県の片山村(現・新座市)へ移ることになったとも聞いた。ひとつ間違えば練馬野は焼夷弾による攻撃とガソリンの爆発で火の海と化し、人も家も林も家畜も全てが丸焼けの台地に変わり果てる寸前の状況にあったと云えるだろう。


 最後に気になる点を挙げて、この話を終ることにしたい。それは、こうした話が練馬区や板橋区の地元できちんと語り伝えられているだろうかという点である。東京下町のいわゆる東京大空襲については近年、発掘や保存が進んでいる。だが、現在も軍事基地や軍事施設と無縁とは云えない両区において、また埼玉県側の和光市、朝霞市、新座市において、こうした問題への取組みがどのように行われているのか気にかかる。生き証人の多くがすでに80歳に近づき、あるいは90歳を越える現状にあって一刻の猶予もならないと感じている。(了)

◎練馬野にも空襲があった 92010/03/15

 押し黙ってしまった女性に替わり、今度は向かい側の席から70代半ば過ぎと思しき男性が話しかけてきた。先程来の会話が耳に届いていた風だった。男性も大泉の生まれだと言った。そして空襲の背景を解説してくれた。


 それによると、この辺りは最初から米軍に狙われていたのではないかということだった。かつて九州は国東半島の山の寺で聞いた、米軍の爆撃機が帰りの燃料節約のために余った爆弾を人家の少ない山中に捨てていった話とは全く趣の異なるものだった。

 男性が挙げた根拠は三つあった。うちふたつは紛れもない公知の事実である。一つはこの場所が太平洋戦争の開戦を前に移転してきた陸軍予科士官学校や陸軍被服廠など軍の枢要な施設(戦後は駐留米軍基地として接収され、返還後は多くが陸上自衛隊朝霞駐屯地となる)に近かったこと、もうひとつは光が丘に戦時中の昭和18年(1943)突貫工事で帝都防衛のための飛行場が建設されていたことである。

 三つ目はこの男性が子どもの頃に聞いた噂である。従ってこれが残された記録などに符合するものかどうかは分からない。内容からすればそのような記録はむしろ残っていないと考える方が自然だ。しかし噂の因になる何らかの作業が当時この地区でも行われ、それを地元に残る年寄りや女性や子どもたちの一部が目撃したであろうことは容易に想像できる。

 その噂とは飛行機の燃料であるガソリンにまつわるものだった。諏訪神社に近い場所に広がる雑木林の中には大量のガソリンが隠してあると村人たちの間に噂が流れていた。だからこの辺りは米軍から狙われているのだろうと大人たちが小声で囁き合った。当時まだ国民学校に通う小学生だった男性はその光景をはっきりと覚えている。(つづく)

◎練馬野にも空襲があった 82010/03/14

「被害はそれだけだったけどね。でも日本が負ける徴(しる)しではないかって、みんなが言ったんだ…」
「そんなことがあったのですか?」


「それから、別の空襲の時にはね、おばあちゃんが一人亡くなったんだ…」
「空襲で亡くなった人がこの辺りにもいたのですね?!」

「ウチの近所だけどね。丸山ってとこの近くで、おばあちゃんが孫と留守番をしていたときに空襲さあって、背中をやられたんだ…」
そう言って、一息ついて窓の外に目をやった。亡くなったそのおばあちゃんの顔が急に浮かんできたのかも知れない。

「おばあちゃんが、とっさに孫を抱えて地面にうずくまったんだって…。だから孫だけは無傷で助かったのよ。きっとおばあちゃんは身代わりになったんだって、みんなして言って泣いたね…」

 それっきり女性は押し黙ってしまった。封印されていた記憶が蘇り、辛くなったのだろう。目頭を押さえていた。(つづく)