■角を矯めて牛を殺す--新釈国語2010/01/11

 角は動物の頭頂部に突き出た円錐形の硬い突起をいい、矯めるは性癖や形状などを世間一般の価値や基準に添うよう改めることをいう。牛には2本の角があり、円を描くように互いに内側に曲がって生えているが、この場合の矯めるとは(1)自己の価値観、都合、独善などに基づいて角とは本来、垂直に生えるべきものであると決めつけること、(2)この決めつけに添って角の形状を垂直に改めるために無理に強い力を加え続けること、の二つの行為を指す。

 牛を殺すとは、これら二つの行為がもたらした結果にほかならない。牛は生きていてこそ農耕にも牛車牽きにも使えるし、厩肥もつくる。だが、死しては食肉になるぐらいの用しかない。決めつけが無理強いを生み、無理強いが仇(あだ)となって牛は死に至る。死んだ牛を蘇らせることはできない。決めつけがなければ牛も死なずに済む。賢人ならば後悔する前に、まず決めつけの愚を廃さなければならない。

 ところで辞書は、この言葉について「少々の欠点を直そうとして、かえってそのもの自体を駄目にする。枝葉にかかずらわって、肝心な根本をそこなうことのたとえ」と記している(大辞林)。しかし最初から角を「少々の欠点」と説いたのでは辞書の解説にはならない。これでは角の曲がりを欠点と見なす背景に何があるか伝えることができない。「肝心な根本をそこなう」ほどの愚かな行為は常に、この背景によって引き起こされる。辞書を名乗る以上、そこに身勝手な価値観に基づく独善主義の潜むことくらいは明らかにしてほしいものだ。(つづく)

●大人は赤子の心を失わず2009/11/21

 大人(たいじん)は君主など徳の高い人を指す言葉、赤子(せきし)は生まれたばかりの赤ん坊をいう。徳のある人はいつまでも、赤ん坊のように純粋で偽りのない心を持ち続けるものだという意味である。君主たる者は常に民の暮らしに心を砕き、その気持を理解しなければならないという諌めの言葉としても知られる。

 昨今の政治の有り様を見ていると先の自公政権は言うに及ばず、この秋誕生した新連立政権までもがまるでこの言葉を知らぬように思われてくる。少しは、皇居にお住まいの老夫妻の爪の垢でも押し戴いて煎じて飲めと忠告したい。所詮、政治家は君主とは別物の垢まみれの存在ということだろうが、それにしてもあまりに情けない気がする。特に腹立たしいのが官房機密費なる税の行方である。

 原典:大人者不失其赤子之心者也(孟子「離婁」下)

■生物時計--新釈国語2009/10/13

 太陽系を構成する星のひとつである地球に40億年前に誕生した生命が、生物として進化を遂げる過程で獲得した1日を24時間とする時間測定の仕組み。例えば植物の葉の運動である光周期性、動物の睡眠・覚醒のサイクルなど多くの生命現象のリズムを司る機能と考えられている。近年の分子生物学研究の進展によりDNA遺伝子の特定の塩基配列に、こうした機能を伝える共通部分のあることが解明されている。体内時計ともいう。

 人類は500万年以上前にサルがヒトに進化することで誕生した。その後、人類は火を使うことを覚え、これを照明として利用し、さらに人工的に闇を照らす方法も電流を利用することで獲得した。その結果、地球の自転周期とは関係なく夜でも仕事ができるようになったが、ヒトが動物であることには何らの変化も起きていない。例えば動物の出産時刻が夜半から明け方に集中するのも、地球で暮らす生命体にとってそれが一番安全な時間帯であると認識されたためではないかと考えられている。

 生物時計は受精によって生命が誕生した瞬間から回り始め、出産を経て胎外に出た瞬間から今度は生命の終焉である死に向かって時を刻む。これが加齢である。加齢は、ある時期までは成長とか発達とも呼ばれている。こうした加齢の過程で生物時計のリズムを狂わせるような人為的な強い力が加えられると、その影響はリズム異常症と呼ばれる現象となって精神的な躁鬱状態を引き起こしたり、不登校や出社拒否などの原因となり、さらには加齢を促進させ生物としての寿命を縮めることにもつながってゆく。

 生物時計を狂わせる負の力の代表的なものが恒常的な夜勤労働であり、時差ぼけであることはよく知られている。しかしリズム異常症には大小様々なものがあって、精神的な躁鬱症状以外にも多くの問題を引き起こしている。食事時間が不規則なために起こる肥満や便秘、朝食抜きや夜食過多が引き起こすイライラや胃腸障害、夜更かしの後の極端な集中力欠如など、いずれも生物時計のリズムが乱されて起こる諸症状である。いずれの場合も生物としての寿命に少なからぬ負荷をかけていると覚悟する必要があろう。

■現実直視--新釈国語2009/09/23

 こうなるだろうという予想、こうなって欲しいという希望的観測、今まではこうなったといった予断などを一切交えることなく、目の前で現実に進行しつつある状況だけを冷静に見つめること。例えば読売・朝日・日経の大新聞、毎日・産經の中新聞、公共放送という名で政権のスポークスマンを務め通した日本放送協会、政党兼宗教新聞など。今度の選挙も自民・公明が勝つだろう、勝って欲しい。多少は負けるかも知れないが、そういう不安もないわけではないが、でも今までもそう言いながらも勝ってきたではないか。常にそう考えて行動し、自分の将来像も描いてきた多くの記者達。だが今、何だかおかしい。違う気がする。いやこれは仮の現実だ。すぐに壊れるだろう。前にもこんなことがあった。が、すぐに壊れた。壊れなければ壊せばいい。きっと裏には何かある。無ければならぬ。あるはずだ。無ければつくってもよい。それが自分に与えられた使命ではないか等々。

 みな現実を直視することができずに、もがき、苦しんでいる。支離滅裂になりかけている。マスコミだけではない。インド洋での給油ができなければ日本の将来は無い、危ういと叫んだマスコミ各社。そして悩んだ小泉、安倍、福田、麻生の各総理大臣と公明党幹部。命ぜられるままに隊員やその家族まで不安に陥れた自衛隊の幹部達。こうした善良だが小さな頭の持ち主達に、その耳元でまことしやかに呟(つぶや)いたり囁(ささや)いたりした悪い奴がいるのだろう。無責任で、小ずるい奴がいるに違いない。幾つもの選択肢を与えることなく、自分に都合のよい情報だけをオブラートに包んで、少しずつ飲ませ続けたに違いない。なお目の前で進行しつつある状況が自分の望むものとは大きく異なる場合に、そうした現実を受け入れようとはしないで、むしろそこから逃げ出そうとすることは現実逃避と呼ばれる。

■全員野球--新釈国語2009/09/22

 チームのメンバー全員が一丸となって相手と勝負しよう、ということをたとえていう言葉。野球は1チーム9人ずつが2つに分かれて闘う球技である。しかし攻撃に際して実際に打席に立つことができるのは打順が回ってきたメンバーのみである。首尾よく出塁できれば引き続き攻撃に参加できるが、アウトになればベンチに下がらなければならない。多いときは8人、少ないときでも5人は攻撃に参加ができない仕組みのスポーツが野球である。これに対して全員野球は、そんな場合でもベンチから声援を送るとか、次の打者に投手の狙い球を教えるとか、相手の投手を野次るなどチームの勝利を目指してそれぞれ精一杯の努力を傾けようとすることをいう。最近は正選手に選ばれなかった補欠の選手や補欠にも選ばれなかった野球部員など、味方チームの範囲をより広く捉えて用いられることもある。
 なお政界用語として使われる場合、選手の範囲は与党にあっては閣僚や閣僚に準ずる人々、副大臣、政務官、衆参両院の正副議長や正副委員長、党執行部に選出・指名された人々であり、これらの範囲から漏れた人々を含めて一丸となることが本来の全員野球の意である。一方、野党の場合は一般に規模が小さく選手に漏れる人の数もそう多くないため、全員野球が意識される機会はあまりない。難しいのは規模が中くらいの場合であり、2009年夏の民主党政権誕生はこの中くらいの規模を無難に乗り切った結果だと見ることができる

■猟官運動--新釈国語2009/09/15

 大臣・副大臣・長官・次官・局長などに象徴される高位の官職に就けてもらうことを狙って任命権者に対し様々な方法で行う一種の就職活動。広く一般企業、各種団体、大学、大病院などにおける役職についても用いられる。法的な規制も届け出の必要もないため実際にどのような活動が行われているかは不明である。一般的には自薦型(直接売り込み型)・他薦型(間接売り込み型)・贈答作戦型・胡麻擂り型などの形態と、それらを巧みに組み合わせたものが中心ではないかと推測される。活動を成功させるためには何よりも任命権者の思考様式、生活習慣、趣味・嗜好、性癖、家族構成などを知る必要があるとする意見も見られる。しばしば官職に就くことだけが目的となり、その地位を得た後の仕事ぶりが曖昧にされるため、官庁・企業・大学を問わず猟官運動を腐敗や堕落の原因と考える人は少なくない。

■捨て石--新釈国語2009/09/14

 不要になり、そのまま元の場所に置いたのでは邪魔だからと他の場所へ移して所有権も放棄した石のこと。転じて様々な分野でいろいろな意味に使われるようになった。大別すると原義に近い意味合いを遺すものと、捨てることによって逆に利益や効果を得ようと企てるものとがあり、傾向としては捨てるという行為の意味合いが薄れて比重が将来の利益獲得に傾きつつあると言える。主な例は以下の通りである。

【原義に近いもの】
○採石場で、目的とする鉱石ではないため捨てる石。

【ある目的のために捨てるもの】
○囲碁で、作戦上わざと相手に取らせることにした石。

【ある目的のために利用するもの】
○河川や海岸などの工事で、流水や海水対策として川底や海中に投げ入れて基礎工事を容易にするための石。
○庭園の風景をつくるために、所々に配置する石。景石ともいう。

 なお「自分が捨て石になる」とか「捨て石になる覚悟で」などという場合は河川工事などで沈める石に近い意味で使っていると推測されるが、結果として原義と同様の捨て石になるか、それとも効果的に働いて将来の利益に繋がるかを自分では決められない点に特徴がある。非常に無駄骨を折る可能性の高い行為と言わなければならないが、もし後事を余人に託すつもりがなくて捨て石と言うのであれば、それは聞く側を欺く偽りの発言となる。

■御都合主義(2)--新釈国語2009/09/13

 この10年、製鉄会社も自動車製造会社も日本の大企業の多くが急激に売上げを伸ばし、利益を増やしてきた。しかし国際競争力を維持するという名分を掲げて、その利益を多くの人々に還元する努力は見事に怠ってきた。そして一部の大企業経営者と与党の政治家と官僚や公務員だけが平穏に暮らすという妙に不安定な社会に変えてしまった。しかも政権交代があったというのに、霞ヶ関を先導した高級官僚達はなぜか辞表を出さない。一方で天下りだけは急ぐ。政権が代われば、これまで否定してきた政策にも手を染めなければならない。罵倒したり嘲っていた施策にも本気で取り組まなければならない。まっとうな人間なら、そんな器用な真似はできないはずだ。さっさと辞表を叩きつけて役所を去るのが筋だろう。それをしないのは彼等が腰抜けというよりも、実は御都合主義の信奉者だからではないだろうか。彼等に共通するのは一見みんなの利益、社員の利益、大勢の利益、国民の利益というような顔をして相手にもそう思わせ、その裏でしっかりと自分の利益だけは最後まで忘れないことである。

 もうそういう輩(やから)が跋扈(ばっこ)する、大手を振って歩く時代は終わらせよう。曲がりなりにも裁判員制度も始まったことだ。罪は憎むが、罪人は警察や検察のために悪事を働くのではない。取り調べは警察の手柄のためにあるのではない。厳罰主義の傾向は強まるだろうが、無実の人を罰することだけは何としても避けなければならない。省庁は官僚のためにあるのではない。官僚は省庁のためにあるのでもない。霞ヶ関の官僚を見る目は厳しさを増すだろう。などなど、政権交代に寄せる期待は高まるばかりだ。経営者たる者、官僚たる者、政治家たる者、私心は綺麗さっぱり捨て去って、難しいとは分かっていても常にみんなの幸せを願い、その目標に向かって努力する、楽天的かも知れないがそういう姿勢こそ大事だろう。これを間もなく退陣する誤読総理に代わって御都合主義(ごとごうしゅぎ)と名付けることにした。従来の市場原理主義と置き換わってくれれば、こんな嬉しいことはない。(了)

○写真は夏咲きの大きなグラジオラス。明治の初めに渡来し季語にも採用されていると聞くが、あまり句の例を知らない。

■御都合主義(1)--新釈国語2009/09/12

 一定の見識をもつことなく、その場凌ぎで物事を処理したり行動することを軽蔑していう言葉。都合の前に付けた御(ご)の文字と末尾の主義がこうした行動に対して軽蔑の眼で見ていることを表す。都は旧字体では者の部分にもう一画、点が付いている。今も奢や緖には使われている字体だが、人が集まるの意があり、人が集まってできる邑(むら)の意となった。都(みやこ)はこれに部首の大里を付けることで、邑がさらに発展して人口が増えたことを表している。なお都会も都市も都の音は漢音の「ト」であるが、都合や都度の場合は呉音の「ツ」になる。これは後者が日本で生まれた漢語風表現だからである。そのため都合も漢音を用いて「トゴウ」と読むと意味が変り、全部を足す・合わせるなど総計の意となる。

 御都合主義(ごつごうしゅぎ)はもちろん誉められたことではない。だが、何でも不変の見識さえあればよい・示せばよいというものでもない。例えば大企業の経営者が自社の利益のみを守るという大方針・定見の下に法人税は上げるな・引き下げよ、温室効果ガス削減目標は緩和せよ、などと叫ぶのはいかがなものであろうか。官僚や政治家が国益を守るという不変の大方針を理由に軍備増強に走り、原発推進のみを唯一のエネルギー政策と主張し、そのために惜しみなく税金をつぎ込もうとするのは本当に国民の安全に役立っているのだろうか。食料の大半を海外に依存するという政策は誰のためにあるのだろうか。(つづく)

○写真は松葉ボタン。夏を謳歌したこの花にも秋の気配が漂い始めている。

■下駄の雪--新釈国語2009/09/08

 下駄の歯に付着した雪のこと。雪の1~2センチも降り積もった道を下駄で歩くと、白いはずの雪道に下駄の歯で踏まれた跡から地面の土色が顔を出し、まるで漢字の「二」の字を書いたように見える。これが下駄の跡だが、地面が顔を出すのは踏まれた雪が下駄の歯に付着するからである。しかも雪は踏まれるたびに固まり次の雪が付着して、なかなか下駄の歯から落ちることがない。
 自民党と連立を組んで与党の一員となり都合4回の総選挙を闘った公明党は時に自民党の政策に異を唱えることはあっても10年間一度も政権を離脱することはなく、問題があっても最後は必ず自民党に同調して閣内協力を貫き通した。こんな公明党の対応ぶり・姿勢に対し、自民党の幹部が鼻歌交じりに漏らした言葉が「踏まれてもついてゆきます下駄の雪」だった。
 常に庶民の味方と称し、また政権与党としての実行力を誇示し続けた公明党ではあったが、他の政権より政策的に近かいと言われた福田政権の幕引きにも手を貸すなど内実は権力志向が強く、政権の座の維持に異常なほどの執念を見せたことも事実である。下駄の雪は、こうした公明党の政治姿勢を肝心の連立相手である自民党が最初から見透かし巧みに利用していた証拠と言えるだろう。政治は所詮「キツネとタヌキの化かし合いよ」と主張する人々に、格好の材料を提供していたことになる。