◎季節の言葉 河津桜2010/01/31

 河津桜は命名からまだ三十数年の歴史しかない比較的新しい品種の桜である。日本人は桜が好きだから、これからも各地に新しい種類の桜が誕生することだろう。90歳を過ぎた年寄りが、時に「長生きはしてみるものだ。まさかこんな経験ができるとは思わなかった」などと呟くのを耳にする。だが多くは科学技術の進歩に対する驚きの述懐であって、自然の恩恵に感謝する言葉は少ない。河津桜は自然がもたらした恵みの貴重な例かも知れぬ。


 以下、伊豆半島は南端に近い東海岸にある人口8千人余りの小さな町、静岡県賀茂郡河津町役場の説明をお借りしながら、河津桜について紹介する。これも長生きしたればこその恩恵であろう。有難いことだ。(合掌)

 河津桜は緋寒桜と早咲き大島桜が自然交配して誕生した品種と言われ、開花の時期が早いこと、花の期間が1ヵ月もあることの2つを特徴としている。また花の形は「平開形で一重のやや下向き」、「花弁は5枚の円形で無毛」、「色は蕾の時は濃紅色だが、満開時は淡紅色になる」と説明されている。本日撮影の次の写真で、まずは前記の説明を確かめていただこう。


 この桜の発見は昭和30年(1955)頃と言われ、河津川沿いの雑草の中で見つけた実生の苗木(原木)は発見者(故人)の手で自宅の庭に植えられた。今では樹高10メートル、幹周り1メートル余の大木に育っている。場所は伊豆急河津駅からそう遠くない田中地区にある民家の庭である。新品種としての命名は昭和49年(1974)、翌年には河津町の木にも指定され、町を挙げての桜祭「河津桜まつり」は今年で20回目を迎える。


◆大根の話2010/01/23

 大根といっても役者や芝居の話ではない。寒中に収穫する甘く瑞々しい冬大根の話である。まず畑から紹介しよう。すでに多くは昨年のうちに抜き取られて市場に出荷され、自家用と近所用だけが掘り残されている。


 次は販売所の様子である。畑の横に設えた屋根付きの小さな棚に水菜、ネギ、大根、白菜が並んでいる。今朝、分けていただいたのは大根2本、品種はいずれも「秋づまり」である。根首を葉が覆うので寒さに強いと言われている。だが初めにできた長い葉はほとんどが寒気に当たって萎れてしまい、今は後から芽を出した中心部の短い葉っぱだけが付いている。


 大根の丈は右の長い方が75センチ余、左の短い方が70センチもあった。太さも相応に右の方がある。あまり長いので引っ張るだけでは抜くことができず、長芋並みに脇の土を掘ってから抜いたとか。長く太い方をお目にかけられないのはカメラを取りに厨房を出たスキに、あろう事か家人によって切り刻まれ漬物用の短冊にされてしまったためである。


 やや厚めの輪切りにして、そのまま生で囓(かじ)ると実に美味い。ほのかな甘さがある。辛みが欲しいときは皮の引き加減で調節する。大根サラダもお勧めだ。とにかく文句なしに美味い。いくら食べても飽きないし、胃にもやさしい。引いた皮は天ぷらにすれば酒のつまみになる。葉も千切りにした浅漬けに混ぜれば余すところなく使える。もちろん味噌汁の実にもなる。寸分の無駄もない。全て消費できる有難い野菜なのである。

○獣除け--実りの秋2009/09/26

 いま鳥獣害に悩まされているのは都会の農家だけではない。中山間地と称される山あいの集落でも猿、鹿、猪、狢(むじな)などの食害に脅かされている。しかも対策の有効な決め手がない状態が続いている。集落全体を牧場のように金網で囲ったところまである。それでも猿の群れはやって来る。鹿は柵を跳び越えるし、猪も隙を見つけて入り込む。狢を防ぐ手はない。
 写真の風景はまだ秋の彼岸前の、朝露が残る時間帯の棚田を山の裾の方から見上げたものである。右手前方の山の端に、ちょうど朝日が昇ったところである。斜めの光が初秋の朝の爽やかな空気を感じさせてくれる。写真とはまさに光の力の表現であることを教えてくれる。
 しかし気になることもある。右側の土手には網の目が見えるし、テープも光っている。これらは害獣が田圃に入り込まないよう耕作者が設置したものだが、気休めにしかならないという。実際この朝、猪が入り込んで田圃中を転げ回った跡が見つかっている。それでも何もしないよりは増しではないか。そう考えて、今年も周りに網を張ったそうである。テープは雀除けとのことだった。

○雀除け--実りの秋2009/09/25

 稲雀(いなすずめ)という季語があります。稲穂が垂れる季節になると雀がどこからともなく田圃に集まって、せっかく実った稲穂を食い荒らします。鳴子は、そうした雀の群れを追い散らすための工夫でした。田舎の雀には悪童という天敵もいました。油断しようものなら忽ち誘(おび)き寄せられ、一網打尽にされてしまいました。

 しかし平成の御代の雀たちは手厚い法律に守られています。法を無視する悪童も、雀を驚かそうとする悪童も滅多にいません。加えて都会に近い田圃は年々減るばかりです。一方、雀の数は増すばかりです。各地に雀のお宿ができています。村はずれの竹藪どころか、駅前の街路樹までがお宿に化しています。夕暮れ時の喧(かまびす)しき様を御覧になった方も多いことでしょう。糞害も馬鹿になりません。

 もっと困るのが徳さんのような篤農家のお百姓さんです。都会の雀も村の雀も、この季節になると山を越え川を越え、大挙して押し寄せてきます。周りに住宅があるので空砲や花火で追い散らすことも叶いません。そこで仕方なく、田圃の上に網を張り巡らすことにしました。これがまた大変な重労働です。田圃全体を1枚で覆い尽くすような大きな網はありません。所々繋ぎながら数日をかけて、ようやく作業を終えました。

 今のところ雀の被害は一日だけだった様子です。食料を自給するということは、まさに食うか食われるかの仕事なのです。NPOだか動物愛護だか環境省だかは知りませんが、自分の手を汚すことなく、机に向かって頭の中だけで考えている人には全く思いも及ばないことでしょう。こうした苦労の末に、お茶碗の白い御飯はつくられているのです。

  稲すゞめちり行藪や月の雲 土芳

○秋の彼岸に咲くサクラ2009/09/21

 今年も1週間ほど前から咲き始めて見頃を迎えた。サクラがお彼岸の頃に咲くと言えば誰しも桜前線や気象庁が発表する「さくらの開花予想」などを思い浮かべるだろう。だがあれは春のお彼岸頃の話であって、まだ残暑の残る季節の話ではない。
 十月桜とか冬桜もそれなりに珍しいと思うが、気温が時に30度近くにまで上昇する秋の彼岸前に咲き始めるサクラを何と呼ぶのか寡聞にして知らない。開花の条件は例えば「最低気温が20度を下回る日が続くようになると」というようなことかも知れぬが、とにかくこれまで不思議とは思っても木の大きさもさほどでなく、本数も限られていたから大して気にも留めなかった。花の数も侘びしいほどのちらりほらりといった咲きっぷりであった。
 しかし今年は明らかに違う。かなり本格的に咲くようになった。澄みきった青空に白い小さな花びらを点々と散りばめて咲く。昨年までのような侘びしさを感じることはもうない。蕾の中には紅色を含むものも多少はあるが総じて白が勝り、写真で見るごとく大変清純な花びらである。

○草木瓜--実りの秋2009/09/09

 ボケの実は漢方で用いられる。そのためか中国では花ではなく実に注目しての命名となった。草ではなく木に瓜形の実が生る。これが呼称の由来であろう。しかし中国原産と言われる木瓜(ぼくか・もくか)と、日本の山野に自生する草木瓜(くさぼけ)とがどれほどの差のあるものか実はよく分からない。
 物の本には木瓜は人の背ほどの高さになるとか庭木に用いられるなどとあるが、盆栽に仕立てた物などを見ると草木瓜との区別は容易でない。強いてあげれば草木瓜の花が薄い朱色混じりの如何にも田舎育ちといった白色系であるのに対し、到来物の園芸種には紅色あり、白あり、咲き分けありと都びている点だろう。
 写真はまだ夏の盛りの草木瓜の実を撮したものである。具合よく日に当たり、綺麗に色づいている。蔕(へた)の部分が見えなければ青リンゴと紛うばかりの色や形である。こうしたものはそう多くない。もし薄紅色がなくて表面が薄黄色の土色に近ければ今の季節、長十郎や幸水といった梨の実と間違えるかも知れない。
 なお秋になれば黄色く熟してよい香りがするとか酸味が強いなどと記すものを見かけるが、目にする草木瓜の実はどこまでも石のように堅く、さほど香りがよいとも思えない。もっぱら25度の焼酎に入れ、氷砂糖を加えて木瓜酒にして楽しむ。年数が経つと紅色の濃さがどんどん増して独特の赤黒い色に変る。そして口当たりもどろっとした感じになり、ややクセのある薬のような味がする。この辺に漢方に選ばれる秘密があるのかも知れない。

○オクラ(1)--夏野菜2009/09/03

 近所の石山さんの畑にはオクラの畝がずらりと並ぶ場所がある。この春に「大根の味」で紹介した主婦が耕す、広い畑のことである。この場所が7月の中旬頃から午前中だけ急に華やかになった。待宵草のような黄色の花が、ご主人が出勤する頃から急に咲き始めるのである。早朝はまだ閉じていて、しかも不思議なことに午後になるとまた閉じてしまう。だから多分ご主人は、この花のことは知らないだろう。

 閉じた花は遠くからは白い点くらいにしか見えない。だが、その白っぽいとんがり帽子のような花びらの下で小さなオクラの赤ちゃんが育ち始めている。そしてオクラが育つと、とんがり帽子は落ちてしまう。育ち始めたオクラの成長は早く、あっという間に10センチを超える長さとなる。

 この大きなオクラを石山さんは20本も袋に詰めて週2回、100円で分けてくれる。その日が近づくと曜日を間違えないように早く寝て早く起き、散歩の帰りに石山さんの畑へ寄って戴いて帰る。たいてい胡瓜に茄子にトマトに獅子唐と、他の夏野菜も加わるから帰りの荷物は結構な重さである。腕の鍛錬だと思って右と左と時々持ち替えながら家路につくが、欲張った日は肩が凝る。(つづく)

 ⇒http://atsso.asablo.jp/blog/2009/03/08/ 大根の味(2)

○蜂の巣作り--盛夏2009/07/22

 小学校5年の頃だったと思う、友達に自然児がいて川魚のつかみ方や釣り方を手ほどきしてくれた。釣るときの餌は基本的に現地調達だった。どこにヤマメが隠れているか、どうすれば逃がさずに手づかみできるか、餌はどこに棲んでいるか等々、実に論理的で理にかなった作法であった。もちろん危険に遭わないための用心や運悪く遭遇したときの対処法まで実に丁寧に教えてくれた。もし「貴方の人生の師は誰か」と尋ねられたら、迷わずに父親と彼の名とを挙げるだろう。
 ああいうことを幼い頃から、おそらく小学校に上がる前から親について見よう見まねで覚え、自分なりの理屈で整理したのだと思う。アウトドア等と訳の分からぬことをテレビや雑誌を通して付け焼き刃で覚えても所詮は架空の絵空事でしかない。山や川などの自然を目の前にすると勝手が違うから、たちまち事故に遭ってしまう。そんな連中がエコだとか環境保護だとかと知った風なことを言っても耳を傾ける気にはなれない。
 そんなことを言い出す前に、道ばたの畑や田圃にゴミを捨てるなと言いたい。自分の口に入る食料がどこで栽培されているのか、まずそれを考えることから始めるべきだ。算数ができるより英語ができるより、自分の口に入る食べ物について深く考え、それらを大事にする人間でありたい。
 写真はアシナガバチの巣である。蜂の頭部は大きくないが、余分な知恵は要らないし持たない生物だから生きる上で不足することも困ることもない。雨を凌ぎ外敵の目にも付きにくい場所を選んで小さな巣を築き、卵を産み、子バチを増やしながら徐々に巣を大きくしている。環境への負荷の小ささ、生き方の誠実さ、種の保存に対する熱意など蜂に学ぶべき事だって少なくないはずだ。

■見切り販売--新釈国語2009/07/19

 消費期限の迫った生鮮食品や賞味期限の残り日数が少なくなった食品について通常の販売価格を引き下げて販売すること。商品をどのような価格で販売するかは、独占禁止法による不当廉売の規定に抵触しない範囲で、それぞれの販売者が独自に判断して自由に決めるのが普通である。価格を引き下げれば利益は減るが、売れ残って廃棄するよりは原価の回収に役立つし、ゴミの量が減るので環境への負荷も小さくなる。しかしフランチャイズ制を採るコンビニエンスストアの中には本部との契約で弁当、おにぎり、サンドイッチなどの見切り販売を実施できないところが多く、公正取引委員会が実態調査と是正に乗り出した。優越的地位の乱用を防ぎ公正競争を確保するというビジネス面への配慮はもちろん重要だが、それ以上に今後は全地球的視野に立った資源消費の無駄防止対策が強く求められる。

○かぼちゃ(2)--夏野菜2009/07/02

 生ゴミはなるべく出さないように気を付けていても、畑で落とし損ねた黄色の葉っぱが見つかることもあれば、ゴボウの皮のように時には捨てざるを得ないこともある。南瓜の種もそうしたもののひとつである。子どもの頃はおやつ替わりによく食べたが近頃は滅多に口にしない。そのため生ゴミに混じってコンポストへ押し込められる。コンポストが満杯になると、出来上がった堆肥の一部として底の方から取り出され畑に撒かれる。このとき南瓜の種はまだ生きている。
 生きているから、時期が来ると、畑のあちこちで雨後の竹の子のように芽を出す。南瓜ばかり作るわけではないから、多くはいつか抜かれてしまう。だが運良く畑の隅などに芽を出したものはそのまま放置される。こうして南瓜は毎年、誰意識することなく栽培され、蜂の活躍などでうまく受粉できた雌花には可愛い南瓜の子が育ち始める。一方、雌花ではあっても雄花から花粉を届けてもらえなければ、やがて黄色に変色し腐ってしまう。
 南瓜には雄花がひょろひょろといっぱい付く。昨日の写真には開花前の雄花が2本写っている。今日の写真は雌花である。花がややしぼみかけ、受粉期が終わったことを示している。花の下にある小さな赤ちゃんが育つかどうかは、あと四五日もすれば分かるだろう。急に成長が始まれば、初秋には実りが期待できる。西瓜も南瓜も秋の季語だが、花は夏の季語である。(つづく)

  上空をB29が飛ぶ南瓜花  関淡水