夏から秋へ--蕎麦っ喰い2012/09/23

  蕎麦はまだ 花でもてなす 山路かな  芭蕉


 俳句の先覚、芭蕉ならではの句と言えよう。この季節、地方を旅すると、あちこちで車窓からソバの白い花を目にするようになった。例年より早く今日から新蕎麦を出し始めた店もあると、ラジオが伝えていた。もうそんな季節に入ったのである。

 ひと頃、国内のそば粉は中国からの輸入物が圧倒的に多かった。あちこちの蕎麦屋で中国産の粉を使っているとか混ぜているといった類の噂が絶えなかった。だが農林水産省の説明では近年、中国からの輸入物は確実に減っている。

 その陰で確実に増えているのが米国からの輸入そば粉である。まだ量としてはそれほど多くないが、それでも国産そば粉3万トンの半分に達する。一方、中国産は減ったとは言え、国産のまだ1.5倍近くもある。

 こういう数字の問題は、このブログの守備範囲ではない。蕎麦の味は元より、そば粉の産地を大事と思う方々には農林水産省の次の資料をお勧めしたい。国内の主産地なども分かるし、何より作物統計を利用する際の手引きとして便利だ。(つづく)

 ⇒ http://www.maff.go.jp/j/tokei/kikaku/digest/pdf/soba_yunyu.pdf  グラフと絵で見る食料・農業


秋の色2012/09/20

 黄金に色づく稲穂、山肌を彩る黄や紅のモミジ、色づいた桜の葉、イチョウの葉などをつい思い浮かべてしまうが、それは我ら凡人世界の目玉に映る景色であって侘び寂の世界で用いられる「色」の話はそうした絵の具の色選びとはだいぶ趣が異なっている。たとえるならカメラのレンズを通して季節季節に感じる、あの光の色とでもいったらよいだろう。


 ススキの穂の写真は背景の空気が爽やかで光の色も清々しく、いかにも秋を思わせる一枚ではある。だが「秋の色」というときは、同じ場面を切り取っていてもどこかに他の季節とは違う感じの残る景色、「そうか秋が来ているのか」といった感じのする情景を指すのである。時には盛りを過ぎて感じる一抹の寂しさも混じる、そんな複雑さも備えた季題といえるだろう。

  木や草に 何を残して 秋の色  園女

 大正か昭和の作を思わせる平明かつどこかに知的な香りのする句だが、作者は三百年も昔の女性である。初出とされる原典(羽黒月山湯殿三山雅集)を自分の目で確認するまで、どうにも信じ難い作品であった。


夏から秋へ--雲(3)2012/09/15

 相変わらず日中は暑いが、朝晩はそれでもだいぶ楽になった。もう少しの辛抱だと自分に言い聞かせながら仕事をしている。朝晩が過ごしやすくなった理由を素人なりに考えてみると、やはり太陽に行き着く。日の出の時刻が六月七月の頃とは相当に違っている。夏至の頃は朝四時半にはもう日が昇っていた。今は五時をかなり過ぎないと太陽にお目にかかれない。


 困るのはいつまでも日中の気温が高いままなのに、日射しが容赦なく部屋の中まで入り込むようになったことである。以前は日中の室内気温の低下を、この入り込む日射しで補っていた。だから有難かった。ところが昨今は迷惑この上ない。真夏のように、もう少し高いところのままでいてくれないかと恨めしくなる。


 とは言え、日中でもあちこちに日陰のできる場所が多くなった。上手くコースを探せば、こうした日陰の道を秋の風に吹かれながら心静かに散歩することだってできるだろう。来週はもう彼岸の入りである。かくして、今年もまた一年が終わってしまうのだろうか。

  秋雲の 白き見つづけ 部屋くらし  篠原 梵

夏から秋へ--雲(2)2012/09/14

 この季節、東西南北の空に姿を見せる雲の種類が夏の雲から秋の雲へと代わりつつある。東や北にはまだ夏の雲のそびえ立つこともあるが、南や西の空には徐々に一捌け塗ったような秋の雲が多くなった。


 西山の向こうに陽が沈み空の色が変わり始めた頃、透けて見えるような雲の下を、西へ向かう旅客機の細く白い姿が見えた。高度3千メートルくらいのところを水平飛行しているはずだから、雲の位置はそれよりもはるかに高いことになる。秋の空を高いと感じるのは、実際に高く遠いところまで視界が利くからだろう。(9月8日撮影)

  夢殿の 夢の上なる 秋の雲  野田別天楼



夏から秋へ--百日紅余談2012/09/08

 歳時記は百日紅(ひゃくじつこう)を初夏の植物に数えるが、花の見頃は毎年八月から九月彼岸の頃である。実感としては晩夏の花であり、残暑のイメージも強い。重なる記憶はじりじりと照りつける日射しであり、湧くように鳴き続ける蝉の声である。では背景は秋の繊細な雲が合うだろうか、それとも入道雲だろうか。


 この百日紅を庭に植えた家の多くは花が終り葉が落ちると、その年伸びた小枝の全てを伸びた根元からすっかり伐り落としてしまう。翌年また新しい枝が伸びて同じように花を咲かせるが、伐り落とした後はいつの間にかすっかり塞がっていて腐りの入る心配もない。実に丈夫な樹木である。

 しかし場所さえあれば、百日紅の枝はなるべく伐らずに放置しておきたい。野に咲く梅の古木や斜面に植えられた桜の大木に負けず、枝を落下傘の如くに伸ばして咲く姿は見事なものである。鎌倉宅間ヶ谷の報國禪寺脇にある民家には昭和の戦前からそんな風にして仕立てられた大木が3本並んでいる。平成に入った頃、寺側でも植木屋がそこそこの幹周りのある百日紅を新たに植えたが、離れて眺めると貫禄に関脇と幕下くらいの差があった。

 そんな堂々たる百日紅ではあるが、いつの頃からか枝の間を電線が通るようになり、やがて電話線が続き、さらにテレビの太いケーブルが続き、光回線のケーブルが続くと、もはや写真に収めるような景色ではなくなってしまった。この木が植えられた頃、その先に家はなく、麓の農家が耕す何枚かの水田と畑があるのみだった。そんな水田が埋められ、畑は潰されて家々の建ち並ぶ時代がやって来た。百日紅にとっては枝を伸ばしては咲き、咲いては散ってまた枝を伸ばすことを繰り返したに過ぎないが、数十年の歳月が流れるうちに谷戸の景色はすっかり変わってしまったのである。

 ⇒ http://atsso.asablo.jp/blog/2009/09/16/ 百日紅(1)--夏の終りに
 ⇒ http://atsso.asablo.jp/blog/2009/09/19/4588016 百日紅(2)--夏の終りに
 ⇒ http://atsso.asablo.jp/blog/2009/09/24/4595124 シロバナサルスベリ--夏の終りに



夏から秋へ--雲(1)2012/09/04




 お天道様はやはり暦を御存じなのであろう。あれほどに暑かった今年の関東も九月の声を聞いた途端激しい雨に見舞われ、すっかり秋めいてしまった。写真はそんな期待と予感を抱かせた一日朝の、北東の空を撮したものである。ちょうど日の出の時刻であった。大きな積雲がむくむくと湧き上がり、朝の光に輝き始めている。

  雲の峰 雷を封じて 聳えけり  漱石

 確かに夏の雲にはこうしたむくつけき姿形をしたものが多い。これが、京の堂上貴族ならずとも不気味に感じる一番の理由だろう。実際この日の午後には、この辺りにも予感と期待に合わせるかのように雨が降り始めた。そして今朝まで、時に雷鳴・時に土砂降りをまじえながら降っては止みを繰り返した。

 次は三日の夕刻に、同じ北東の空をやや遠くから撮したものである。日没にはまだ少し間があったが西の空には雲があり、夕陽を見ることはなかった。二枚の間には二日と半日の時間が流れている。断続的に降り続いた雨の量は百ミリを超えた。雲の様子も光の色も、空気も風も、季節が夏から秋へと確実に変わりつつあることを感じさせる。



◎言葉の詮索 縁結び(4)2010/04/09

 ましてこれが親類縁者となれば、夫や妻となれば、子となれば、兄弟姉妹となれば、それらの人が口にするものを自分も口にすることに何の造作や躊躇(ためら)いが要るでしょうか。日本列島には昔から、人間同士の繋がりや知り合うことの大切さを思う温かい気持が人々の心の中に息づいているのです。


 そんな島国に新たな言葉として定着した縁結びには単なる知り合いの関係を超えた、より深くより密接な関係へと進むことの願いが込められています。年齢の異なる他人同士があたかも親子であるが如くに契(ちぎ)る養子縁組み、血縁はなくても兄弟の約束を交わす義兄弟の契り、赤の他人同士だった男女が結びつく夫婦の縁組みなど様々な組合せによる結びつきが考え出されました。中でも若い男女の結びつきは生物としての本能に基づくものでもあるため和合による次の世代の誕生が期待されると同時に、他の結びつきとは異なる人間社会ならではの難しい問題も残されています。

 織田信長などの武将が活躍した時代、盛んに来日してキリスト教の布教に努めた宣教師たちは日本の人々に神の教えを説くため俗語を交えた平易な教義書をつくりました。その一冊「どちりなきりしたん」には「一度縁を結びて後は、男女ともに離別し、又、余の人と交はる事かつて叶はざるものなり」と、記されています。新しく誕生した徳川幕府の禁教政策によって宣教師たちは迫害されたり国外に追い払われたりしたため、この書の影響は極めて限定的なもので終ってしまいました。江戸の町ではかなり自由な男女の関係も行われていたようです。

 明治に入っても男女の悩みには深刻なものがありました。作家として知られる夏目漱石もまた夫婦の関係については最後まで悩み続けたひとりでした。長編小説「明暗」には「こればかりは妙なものでね。全く見ず知らずのものが、いっしょになったところで、きっと不縁になるとも限らないしね、またいくらこの人ならばと思い込んでできた夫婦でも、末始終和合するとは限らないんだから」と記しています。この作品は新聞に連載されていましたが、作者の病死によって結末を見ることなく終ってしまいました。作者がどのような結末を考えていたかは想像するしかありません。

 末始終(すえしじゅう)和合するとは夫婦仲の極めてよいこと、男女の関係が末永く続くことを指しています。ヒトがサルから進化した動物であることは最初に書きました。若い皆さんには「良縁を得たい」「この人となら結ばれたい」「縁を結びたい」と願う気持が大変強いことでしょう。しかしそうした気持が一時のものに止まっては固い縁結びにはなりません。「縁結び」とは二人が夫婦「である」という運命のような関係に落ち着くことではなく、夫婦でありつづけるために懸命に努力を「する」関係になるのだと肝に銘じることなのです。だから二人で一緒に、これを神仏の前で誓うことが終生解(ほど)けることのない固い固い理想の縁結びの第一歩になるのです。(了)

◎季節の言葉 花冷え2010/03/30

 桜が開花する3月の下旬は彼岸を過ぎたとはいえ、陽気は決して温暖一辺倒ではない。急に冷え込んで夜桜見物などとても無理ということが珍しくない。花冷えはそんな時候を巧みに表現した言葉である。

 とはいえ、昨日来の冷え込みは尋常なものではない。箱根には40センチを超える大雪が降った。つい半月前に箱根峠へ行ったとき、道の端や斜面の岩陰に残る雪をみて名残雪だ風流だと喜んだことがまるで嘘のようだ。冬は終っていなかったのである。

 お陰で桜はこの1週間、全く成長を止めてしまったかと思われるほどじっとして動きがない。レンズ越しに覗くと強い雨や寒気に打たれて花びらの端が所々茶色に変じた気の毒なものもあるにはあるが大半はまだ初々しく、陽気の好転を辛抱強く待っている。


 寒冷前線の通過が暦を2ヵ月ほど前に押し戻してしまった。ついでに空気まで冬の清浄なものに入れ替えていった。そのせいで今日は、富士山の頂上近くに落ちる見事な夕日を心ゆくまで眺めることができた。だが指の先も手の甲も冷たい風に晒されて、すっかり悴(かじか)んでしまった。油断すると風邪を引きかねない。花冷えは風流でも年寄りには優しくない。心底報える。

  花冷の道を下水の音くぐる 石井ながし


◆足利事件と飯塚事件の差(3)2010/03/27

 最近、政治の世界では説明責任と云うことが喧(やかま)しく叫ばれるようになった。鳩山総理も民主党の小沢幹事長も説明責任を果たしていない、そのことが内閣支持率や民主党支持率急落の最大の原因だとマスコミはしきりに報道している。では今回の冤罪について日本の裁判所や司法関係者は国民に納得のゆく説明をしているだろうか。

 宇都宮地裁の佐藤裁判長は判決で菅谷さんが無実であると言い切った。その根拠についても明らかにした。管家さんを犯人扱いし、精神的に追いつめ、自白を強要し、挙げ句の果てに17年半に及ぶ長い刑務所暮らしを強いることになった有罪の決めてであるDNA型の鑑定が誤りだったと断じた。


 菅谷さんについては、ここに至るまでに地裁、高裁、最高裁と3回もその道の専門家が血税を使った審理を行っている。だが誰一人として、菅谷さんの罪が濡れ衣であることを見抜けなかった。三審制は機能しなかった。再審請求審の棄却も含めれば4回も節穴裁判が行われていたことになる。これが裁判のあるべき姿でないことは誰の目にも明らかだろう。日本の裁判官も司法関係者も、これを不名誉なことと思わないのだろうか。不思議でならない。どう見ても日本の刑事裁判は「人を見る目」を排除した、それとは相容れない恐ろしく非人間的な基準や常識によって行われている。

 ⇒ http://atsso.asablo.jp/blog/2009/07/01/4404461 人を見る目

 日本の裁判所や裁判官に「人を見る目」やその持ち主となることを期待するのはどうも無理そうである。司法試験に合格するような人には、合格しても検察官や裁判官を志すような人にはそんな人間らしい目の持ち主は期待できないと云うことだろう。もしそんなことはない、それくらいの目は持っていると主張する人がいれば、裁判所がこれまで再審の訴えに対しどんな対応をしてきたか、なぜ「真実の声に耳を傾けられ」なかったのか、傾けようとしなかったのか、その原因は何だったのか、どこに耳を貸さない・傾けない本当の原因があったのかをつぶさに検証し、その結果を国民に向かって堂々と公表して欲しいものだ。

 しかし新聞などで法曹関係者のコメントを読むと、裁判所にこうした期待を抱くのは無理だと思わざるを得ない。となればここはマスコミに期待するしかない。そもそもマスコミにも冤罪を許した大きな責任がある。マスコミは今こそ自発的かつ積極的に足利事件を始めとする戦後の冤罪事件の報道を洗い直し、自分たちがそれぞれの事件にどう対応したか、事件や裁判とどう向き合ってきたか、犯人や被告とされた人たちと面会しその話に一度でも耳を傾けたことがあるかをまず検証してみる必要がある。そうした自己点検が果たして行われるかどうか、どのくらいの規模になるのかを見守りたい。

 もしこうした努力を怠ったまま、相変わらず「警察への取材で分かった」とか「関係者への取材で分かった」などと記者発表や意図的に流される情報ばかりに頼ってこれまでと同様の安直な報道姿勢を続けるとしたら日本のマスメディアは早晩、国民の信頼も支持も失い消滅することになるだろう。今こそ警察官にも検察官にも裁判官にも期待できないが、しかしジャーナリストには「人を見る目」があることを見せて欲しい。それを検証記事で証明して欲しい。(つづく)

◆足利事件と飯塚事件の差(2)2010/03/26

 栃木県足利市で20年前の1990年に幼い女児が殺害された事件の犯人として逮捕され、2000年に無期懲役が確定した管家利和さんの再審(やり直し裁判)で26日、宇都宮地方裁判所の佐藤正信裁判長は菅谷さんに対し明確に無罪とする判決を言い渡した。公判の状況から無罪判決の出ることは十分予測されていたが、無罪の根拠として捜査段階におけるDNA鑑定の証拠能力、菅谷さんの自白の任意性や信用性、あるいは録音テープが証拠採用された起訴後の検察官の取り調べについてどこまで踏み込んだ判決が下されるかに注目が集まっていた。また無期懲役確定までの関係者として唯一謝罪のなかった裁判官が公判廷で菅谷さんに対し、どのような対応を見せるかも注目されていた。


 判決の中で佐藤裁判長は捜査段階におけるDNA鑑定に証拠能力がないこと、自白は虚偽で信用性のないことを挙げ、菅谷さんが「犯人でないことは誰の目にも明らかになった」と述べた。また起訴後に行われた検察官による別事件の取り調べについて黙秘権の告知をしていないこと、弁護士にも事前に連絡をしていないことを挙げ、取り調べに違法性の認められる点も指摘した。

 従来の再審無罪判決では速やかな無罪の言い渡しこそが被告の利益であり名誉回復につながるとする検察側の主張に配慮する形で、綿密な証拠調べによる有罪確定判決の問題点の洗い出しを避ける嫌いがあった。だが今回の判決では「無罪を言い渡すには誤った証拠を取り除く必要がある」とする弁護側の主張を容れ、DNA型の再鑑定に当たった鑑定人の証人尋問、取り調べの様子を録音したテープの再生、取り調べに当たった検事の証人尋問などを行っている。今後の再審裁判のあり方を考える上でも大きな前進と云えるだろう。

 加えて、判決の言い渡し後もうひとつ特筆すべき出来事があった。佐藤裁判長が二人の陪席裁判官とともに立ち上がり、「菅谷さんの真実の声に十分に耳を傾けられず、17年半の長きにわたり自由を奪うことになりました。誠に申し訳なく思います」と謝罪したのである。これこそ菅谷さんの深く傷つけられた心を開き、悪夢のような忌まわしい獄中生活を払拭して新たな再出発の後押しをするに相応しい再審裁判官としての対応と云えよう。

 本来なら最高裁長官が全裁判官を代表して詫びるべきところである。こんなところにも人間としての値打ちが現れている。嫌なことばかり続く世の中だが、少し救われた気がする。判決後の「嬉しい限りです。予想もしていなかった」と語る菅谷さんの笑顔が何より佐藤裁判長の判断の適切さを表している。このことを真に理解できる裁判官がこの国には何人いるだろうか。誰か知っていたら答えて欲しい。(つづく)

 ⇒ http://atsso.asablo.jp/blog/2010/01/23/4833688 足利事件と飯塚事件の差