夏から秋へ--雲(3)2012/09/15

 相変わらず日中は暑いが、朝晩はそれでもだいぶ楽になった。もう少しの辛抱だと自分に言い聞かせながら仕事をしている。朝晩が過ごしやすくなった理由を素人なりに考えてみると、やはり太陽に行き着く。日の出の時刻が六月七月の頃とは相当に違っている。夏至の頃は朝四時半にはもう日が昇っていた。今は五時をかなり過ぎないと太陽にお目にかかれない。


 困るのはいつまでも日中の気温が高いままなのに、日射しが容赦なく部屋の中まで入り込むようになったことである。以前は日中の室内気温の低下を、この入り込む日射しで補っていた。だから有難かった。ところが昨今は迷惑この上ない。真夏のように、もう少し高いところのままでいてくれないかと恨めしくなる。


 とは言え、日中でもあちこちに日陰のできる場所が多くなった。上手くコースを探せば、こうした日陰の道を秋の風に吹かれながら心静かに散歩することだってできるだろう。来週はもう彼岸の入りである。かくして、今年もまた一年が終わってしまうのだろうか。

  秋雲の 白き見つづけ 部屋くらし  篠原 梵

夏から秋へ--雲(2)2012/09/14

 この季節、東西南北の空に姿を見せる雲の種類が夏の雲から秋の雲へと代わりつつある。東や北にはまだ夏の雲のそびえ立つこともあるが、南や西の空には徐々に一捌け塗ったような秋の雲が多くなった。


 西山の向こうに陽が沈み空の色が変わり始めた頃、透けて見えるような雲の下を、西へ向かう旅客機の細く白い姿が見えた。高度3千メートルくらいのところを水平飛行しているはずだから、雲の位置はそれよりもはるかに高いことになる。秋の空を高いと感じるのは、実際に高く遠いところまで視界が利くからだろう。(9月8日撮影)

  夢殿の 夢の上なる 秋の雲  野田別天楼



福島の桃2012/09/13

 我が家ではもっぱら到来物の桃の実だが、この桃だけは例年の桃といささか事情が異なっている。贈り主が丹精込めて育てた自作の品でもなければ、百貨店などに依頼した贈答品でもない。ただ「福島の桃」というだけで、あちこち転々とした末に我が家にたどり着いた数奇な身の上の桃の実である。妙な時代になったものだと嘆息せずにはいられない。

 これまでは岡山や山梨産の桃を食することが多かった。だが今回この桃の実を囓って、すぐに「これが自分の記憶にある桃の食感・桃の味だ」と感じた。身のしまり加減、固さ、歯ごたえ、そして甘さといっぺんに嬉しくなった。しかし、お礼を言いたくても肝心の育ての親・生産者が判らない。桃の実に口がきけたらきっと畑の様子くらいは教えてくれるだろうにと残念でならない。


 余談だが、俳句では桃の花は春の、実は秋のそれぞれ季題とされる。昨今は中元の贈答品として立秋前に出回るものが少なくない中で、この季節にまだ桃の実が食せることも教えてもらった。これも「福島の桃」のお陰である。

  伯母が来て 桃を手土産 母は留守  虚子


 


夏から秋へ--百日紅余談2012/09/08

 歳時記は百日紅(ひゃくじつこう)を初夏の植物に数えるが、花の見頃は毎年八月から九月彼岸の頃である。実感としては晩夏の花であり、残暑のイメージも強い。重なる記憶はじりじりと照りつける日射しであり、湧くように鳴き続ける蝉の声である。では背景は秋の繊細な雲が合うだろうか、それとも入道雲だろうか。


 この百日紅を庭に植えた家の多くは花が終り葉が落ちると、その年伸びた小枝の全てを伸びた根元からすっかり伐り落としてしまう。翌年また新しい枝が伸びて同じように花を咲かせるが、伐り落とした後はいつの間にかすっかり塞がっていて腐りの入る心配もない。実に丈夫な樹木である。

 しかし場所さえあれば、百日紅の枝はなるべく伐らずに放置しておきたい。野に咲く梅の古木や斜面に植えられた桜の大木に負けず、枝を落下傘の如くに伸ばして咲く姿は見事なものである。鎌倉宅間ヶ谷の報國禪寺脇にある民家には昭和の戦前からそんな風にして仕立てられた大木が3本並んでいる。平成に入った頃、寺側でも植木屋がそこそこの幹周りのある百日紅を新たに植えたが、離れて眺めると貫禄に関脇と幕下くらいの差があった。

 そんな堂々たる百日紅ではあるが、いつの頃からか枝の間を電線が通るようになり、やがて電話線が続き、さらにテレビの太いケーブルが続き、光回線のケーブルが続くと、もはや写真に収めるような景色ではなくなってしまった。この木が植えられた頃、その先に家はなく、麓の農家が耕す何枚かの水田と畑があるのみだった。そんな水田が埋められ、畑は潰されて家々の建ち並ぶ時代がやって来た。百日紅にとっては枝を伸ばしては咲き、咲いては散ってまた枝を伸ばすことを繰り返したに過ぎないが、数十年の歳月が流れるうちに谷戸の景色はすっかり変わってしまったのである。

 ⇒ http://atsso.asablo.jp/blog/2009/09/16/ 百日紅(1)--夏の終りに
 ⇒ http://atsso.asablo.jp/blog/2009/09/19/4588016 百日紅(2)--夏の終りに
 ⇒ http://atsso.asablo.jp/blog/2009/09/24/4595124 シロバナサルスベリ--夏の終りに



夏から秋へ--露・つゆ2012/09/07

 今日は二十四節気の白露(はくろ)、昼と夜の長さがほぼ等しくなる秋分・彼岸の中日まであと半月である。昔から「暑さ寒さも彼岸まで」というくらいだから、今年の暑さももう少しの辛抱だ。そして、さらにその半月余り後の十月八日が寒露(かんろ)である。日中は相変わらず暑いが、本格的な秋がすぐそこまで来ている。

 露(つゆ)は朝露や夜露を含め、多くが秋の季題とされる。だが秋の専売特許ではない。例えば「古今和歌集」には僧正遍昭が詠んだ、春の柳に光る白露(しらつゆ)を数珠に見立てた歌が収録されている。

 俳句では異なる季節の露を句にするときは春や夏を冠し、春の露・夏の露というように区別する。また白露(はくろ)と寒露(かんろ)は時候を句にするとき用いる。水蒸気が凝結してできた水滴の描写には漢字表記は同じでも「しらつゆ」が使われるから、声に出して読むときは注意したい。

  野の露に よこれし足を 洗けり  杉風


 多くの俳人が「露」を用いる中で、次の作品は「つゆ」の二文字にこだわった繊細な女性らしい佳句といえよう。

  つゆと云ふ このかなもじの 好きで書く  高田美恵子


夏から秋へ--秋の蝶2012/09/06

 単に「蝶」と言えば菜の花畑を群れ飛ぶモンシロチョウなど春の蝶のイメージが強い。そこで他の季節に見かけた蝶にはそれぞれ夏・秋・冬を冠して区別する。


 写真の蝶は小型の割りに胴が太いため時に蛾と勘違いもされるが、立派に蝶の仲間である。イチモンジセセリと呼ばれ、日本全国どこでも普通に見かける。但し幼虫はイネを食べる害虫だから歓迎はできない。

 写真を拡大すると、前ばねにある大小合わせて8個の白斑の環状に並ぶ様子が確認できる。因みに後ばねの白斑は4個であり、こちらは一列に並ぶ。これが「一文字」の所以だろう。

 蝶が載る花は秋の季題にもされる芙蓉である。八月も終りが近づくと早朝に咲き出し、妙に艶めかしい雰囲気を漂わせて辺りを圧倒するが、夕方には敢えなく萎れてしまう。華麗だが、ちょっと寂しくもなる一日花である。

  花心まで にじり寄らんか 秋の蝶  まさと

夏から秋へ--雲(1)2012/09/04




 お天道様はやはり暦を御存じなのであろう。あれほどに暑かった今年の関東も九月の声を聞いた途端激しい雨に見舞われ、すっかり秋めいてしまった。写真はそんな期待と予感を抱かせた一日朝の、北東の空を撮したものである。ちょうど日の出の時刻であった。大きな積雲がむくむくと湧き上がり、朝の光に輝き始めている。

  雲の峰 雷を封じて 聳えけり  漱石

 確かに夏の雲にはこうしたむくつけき姿形をしたものが多い。これが、京の堂上貴族ならずとも不気味に感じる一番の理由だろう。実際この日の午後には、この辺りにも予感と期待に合わせるかのように雨が降り始めた。そして今朝まで、時に雷鳴・時に土砂降りをまじえながら降っては止みを繰り返した。

 次は三日の夕刻に、同じ北東の空をやや遠くから撮したものである。日没にはまだ少し間があったが西の空には雲があり、夕陽を見ることはなかった。二枚の間には二日と半日の時間が流れている。断続的に降り続いた雨の量は百ミリを超えた。雲の様子も光の色も、空気も風も、季節が夏から秋へと確実に変わりつつあることを感じさせる。



オクラ(夏野菜)--ヒロ田中さんからの手紙 22012/09/03

 ヒロ田中さんから頂戴した手紙の続きを公開します。これでオクラが米国に渡来した背景や時期、そしてgumboとの関係も明らかになりました。ご教示に深く感謝いたします。 


(2)米国版「オークラ」の起源

 より深く料理のバックグラウンドや歴史的背景を知りたくなり、さまざまな料理サイトを読んでいたある日ある料理研究家による文章を読み始めた瞬間、思わず声を上げてしまいました。料理名のガンボ、またはガムボはスワヒリ語でオークラを指すと説明されていたのです。たしかにアフリカ語の響きを持つコトバですが、思わずシタリとヒザを打ったのは、元の発音はグンボ、またはグムボであったという件(くだり)を読んだ時でした。この方がもっとスワヒリ発音に近いと、そしてもっとも説得力があると思えたからです。

 歴史考証:アフリカから入荷し、競売にかけられた奴隷たちは主に南部諸州のプランテーションで使役される。奴隷小屋の夕餉の定番がグムボ。なんでもかんでも刻んで屋外で煮立たせる粗末なスープ。ご主人さまの邸宅の厨房で料理に従事する奴隷たちが、白人たちが見向きもしない臓物や脂肪や骨を小屋に持って帰り、スープに使う。ある時はご主人の厨房で同じような献立を作ったことも考えられる。「これは何だ?」と訊ねられた奴隷がオークラのことを訊かれているのだと思い「グムボ」と答える。白人たちはgumboと書き、米語式にUをAと発音し、いつの間にかこの誤解が料理名になった。

 この考証が、自分にはピッタリ来る一番の説明でした。少なくともガンボのメッカ、ルイジアナではそう信じられています。日本にオークラがいつ、どのように伝来したか、諸説紛々で眉ツバな説明もあるようです。しかし、グムボ=オークラという考証が自分なりに納得できた気がするので、日本バージョンの考証はそのままお蔵入りでもいいと思っています。誤字脱字および冗漫な文章をご容赦ください。

 ヒロ田中 拝  (2010年3月24日)


 最後に、石山さんのオクラ畑の様子もお目にかけましょう。上が夕方の6時過ぎ、下が翌朝8時過ぎの撮影です。
 



◎季節の言葉 筍・竹の子(2)2010/04/18

 グラム○○○円と表示して量り売りする店もあれば、選り取り見取りの均一料金で大量に販売する店もある。どの店にも共通するのは商品名の表示が「筍」ではなく「竹の子」と3文字にしている点である。鶏卵が玉子と書いて販売されるのと似ている。近ごろは客の方でも筍と表示されたのでは読めない人が多いかも知れない。

  筍の秤したゝかに上りけり 田村木国

 筍は竹冠+旬(じゅん)と記すが、旬は他の多くの漢字に先駆けて朝鮮半島経由で日本に伝わった文字のひとつである。勹には「めぐる」の意があり、これと日を組合わせることで甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸の十干を一巡りする意となり、十日を単位とする数え方に用いられる。上旬、中旬、下旬だけでなく、旬報とか旬刊とか旬日などよく目にする漢字だろう。

 ところで筍という漢字の音(漢音)は「じゅん」ではなく「しゅん」である。しかし旬は日本では「じゅん」が先に音として定着したのでこれを「しゅん」と読む人は少なく、もっぱら慣用音の「じゅん」で通っている。


 興味深いのは、この字が十日の意ではなく野菜や果物や魚などの味が最もよくなる時節の意としても使われることと、その際には慣用音の「じゅん」ではなく本来の漢音である「しゅん」が用いられることである。実は「しゅん」という音には春(しゅん)に通じる響きがあり、春先に芽吹いた柔らかくアクの少ない新芽を好んで食した列島の先人たちの生きる知恵がこの文字に目を止めたのではないだろうか。そして地中からほんの少しだけ頭を出した竹の子こそ、この旬のイメージを象徴する食べ物ではないかと思うのだが考えすぎだろうか。(了)

☆追悼・井上ひさし先生2010/04/15

 井上先生が亡くなられた。昭和9年(1934)11月のお生まれである。先生は六十代も半ばを過ぎる頃から僕はあと何年生きられるかな、元気で体力の要る台本の執筆があと何本できるかなと半ば冗談のように言っておられた。当時はまだ幼かった坊ちゃんのことも気がかりだったに違いない。

 せめて平均余命くらいはお元気で、存分なご活躍をお願いできるものと思っていた。今の七十代半ばならあと10年やそこらは大丈夫と勝手に決めていた。それなのに急に鬼籍に入られてしまった。日本の戦争と平和について考える上でも、日本人のユーモアや知の問題について考える上でも大きな大きな柱を失ってしまった。誠に残念と云うほかない。

 すでに多くのメディアが関係者のコメントを発表し、特集も組んでいる。ここでは先生の作品を夢中で読み、その芝居を愛し憧れ、台本の遅れに悩まされながらも、劇場側から叱咤されたり揶揄されながらも、必死で芝居づくりを支えてきた人々のあったことを指摘しておきたい。またそれらの人々が先生のご様子の変調を感じ、人間が生き物である以上は誰も避けることのできない運命の日の遠くないことを察しながらも、実際にそうなってみると羅針盤を失い舵を失った小舟のように深い悲しみと落胆に揺れ沈み悲嘆に暮れる姿を目にして改めて、先生の芝居に賭ける情熱やお人柄を思わずにはいられない。

 十年ほど前のある日、先生が新宿のサザンシアターで行われた公演の後に「僕の夢は僕が亡くなったらサザンシアターを1年間借り切って、僕の芝居を全部通しでやってもらうことだね」と言われたことがある。そのときは何も考えずに「ああ、それは豪華ですね」と応えてしまったが、キャスティングや稽古時間の確保などちょっと考えただけでも困難な問題がたくさんあってすぐに実現できそうな話ではないとあとで気づいた。あるいは舞台制作の素人を前に軽口を言われただけのことかも知れない。だが「台本の心配はないですね」と言ったとき、「これが僕の遺言だって今から言っておけば、きっと誰かが考えてくれるでしょう」とも語っておられた。実現すればファンにとってはまさに夢のような話である。


 早いもので今日は仏教で云えば初七日にあたる。今頃、先生はきっと三途の川のほとりで恐い恐い鬼の姥と翁に詰問されていることだろう。若き日の先生には、とても娘さん三人の父親とは思えない「江戸紫絵巻源氏」のような性春を謳歌したパロディ小説もあるからだ。どんな顔で抗弁されることだろう。そう考えると悲しみが少し癒え、可笑しさが込み上げてくる。

 持ち前のユーモアと知恵で無事に川を渡りきって、彼岸で待つ竹田又右衛門さんなど幼馴染みの方々と再会できるよう祈りたい。そして小説のことも、台本のことも、締め切りのことも、「十分に強い」女性のこともみんな忘れて「下駄の上の卵」時代の童心に返り、思う存分に野球や悪戯を楽しんでいただきたい。

 先生、楽しい夢を、愉快な言葉を、生き抜く知恵を、たくさんたくさんありがとうございました。(合掌)