■しゃしゃり出る--新釈国語2009/06/07

 マスメディアを通じて広く国民に顔を知られるため政治家などが事あるごとにカメラの前に立とうと派手な行動をしたり、何かにつけて目立つ発言を繰り返すこと。次の選挙での当選に不安を抱える新人議員などに共通する行動との指摘もある。一般には、分をわきまえない人がその人に関係のないことや求められてもいないことに対して口を出したり手を出したりすることをいう。男尊女卑傾向の強い時代や社会においては女性の行動一般を指して用いられることもあった。一説に「差し出る」ことを罵っていう言葉だとされ、すでに江戸時代の浮世草子にその用例を見ることができる。

棚田--田圃のある風景2009/06/07

 山あいの傾斜地に麓から尾根へ向かって一段また一段と階段のように幾段も続く小さな田圃、それが棚田です。田圃は畑と違って豊富な給水が必要です。水持ちもよくないと稲を作るのは難しくなります。先人たちは日当たりのよい山の斜面に水持ちのよい場所を見つけては藪を伐り、土を起こして均し、畦を付け、水を引き入れて、せっせと田圃を増やしてきました。
 多少遠くても傾斜を利用すれば谷川から水を引くことは難事業ではありません。それに家族など少人数の力だけで水田を開くには、棚田のような狭い場所の方が好都合だったのです。田圃は全体が常に水に浸かっているよう水平に造る必要があります。そうでないと水の管理ができないからです。
 これが広大な平地より先に、山あいの不便な場所に水田が開かれた理由です。ブルドーザーのような機械のない、人力と鍬と鎌だけが頼りだった時代の話です。山の斜面は、地盤さえしっかりしていれば平地のように水害に見舞われる危険もありませんでした。
 こうした努力によって河川上流部の保水力が維持され洪水の発生を防いできた点も見逃せません。いま各地に広がる休耕田の原野化を目にするたびに洪水被害の拡大が案じられてなりません。と同時に、先人たちの知恵も汗も継承できない我が身の不甲斐なさが情けなくなります。ただただ申し訳なく思うばかりです。

紫陽花--アジサイの季節2009/06/07

 六月の花アジサイには分からないことがいくつもあります。現代語表記では「あじさい」ですが歴史的仮名遣いに従えば「あぢさゐ」です。「名義抄」には「アヅサヰ」とあります。まず「あぢ」「さゐ」なのか、「あづ」「さゐ」なのか分かりません。「さゐ」はヤマユリの古名です。季節は一致しますが、花としての類似点は浮かびません。「あぢ」「あづ」も実はよく分からない言葉です。「あづさ」「ゐ」なら元の言葉は分かりますが、なぜこの花に「あづさ」を冠するのか説明が付きません。(つづく)

  あぢさゐや つじつまあはぬ ゆめのすじ 高橋 潤

四葩--アジサイの季節2009/06/07

 この難しい漢字は「よひら」と読みます。葩(は)は華の意、つまり花のことです。
王安石の詩に「山路葩卉多し」とあります。古来、日本では木の葉や紙のように薄くて、ある広さを持ったものを「ひら」と呼んできました。そうしたものの数を表すときに使います。「ビラをまく」の「ビラ」も恐らく、この「ひら」に由来する言葉でしょう。
 花の場合も、この定義に当てはまるものは「ひら」と呼びます。そして「桜の花びらが散る」とか「足下にひとひらの花が舞い落ちて」などと使います。漢字を当てる人は多く「片」や「枚」を用いますが、これを「ひら」と読める人は少なくなりました。いずれ「ひとひら」や「ふたひら」は死語になるのかも知れません。
 日本語史の資料としても注目を集める「夫木和歌抄」(ふぼくわかしょう)には、夏の部を開くと紫陽花を詠んだものが11首記録されています。うち8首に、同時に詠み込まれているのがこの「よひら」という言葉です。「よひらのはな」が紫陽花の別名とも言われる所以です。

  夏もなほ心はつきぬ紫陽花の四葩の露に月もすみけり  藤原俊成