◆自民党総裁表紙論(1)2009/07/16

 先日の都議会議員選挙で大敗した自民党は、党の最高責任者である麻生総裁の責任を問うかどうかをめぐって揺れている。ここでは、議論の中でしばしば聞こえてきた「表紙」という言葉について考えてみたい。マスメディアも含めて日本では、この言葉を使う人々の思い描く表紙というものが厳密な意味での表紙ではないと感じることが多い。その曖昧さが今回のような議論をまたしても引き起こしているのではないかと強く感じる。
 背景には日本の書物文化が人々の間に必ずしも十分には浸透しなかったという問題があるが、実は肝心の出版者にもこのことをあまり強くは意識してこなかったという責任がある。出版者自身が「表紙」についてどう考えているかは、日本の代表的な辞書を開けばすぐ分かる。例えば「大辞林」には「書物や帳簿などの外側に保護・装飾・内容表示などのために付けた、厚紙や革・布などのおおい」と説明されているが、これは「広辞苑」がいう「外側につける紙・革・布などのおおい」とほとんど差がない。
 これらの定義・説明には大きな問題がある。表紙の定義で最も大切なのは、日本語で言うところのカバーとの差を明確にすることである。英語の cover は本来の表紙に相当する言葉だが、日本では何故か jacket(ジャケット) の意に用いられる。ジャケットとは上着のことであり、寒ければ羽織り暑ければいつでも脱ぐことができる便利な衣類を指す。しかしカバーは衣類ではない。外皮の一部である。皮膚だから色を黒くしたいときは黒く塗り白くしたいときは白く塗ることはできるが、剥がして取り替えるのは容易ではない。本格的な手術を必要とする。専門の製本所に頼むしかないが、そうたびたび取り替えると書物本体をも傷つけたり痛めることになる。
 書物というのは中身が一番大事である。だから著者が書いた原稿を大判の用紙に印刷して消えない状態を確保し、これを予定したページの大きさに折りたたんで、背になる部分だけを固め、さらに仮の表紙を付けて販売した。これがフランス装とかフランス綴じと呼ばれるものである。読者は、この本を開くためには最初に各ページの地や小口部分の折り目にペーパーナイフを入れて切り離さなければならない。本表紙は読者がそれを必要と思えば、自分の気に入った材料・色・デザインなどを指定して専門の職人に頼んだり、自分の手で楽しみながら仕上げたのである。ペーパーナイフを入れる必要がないように予め裁断はされているが、今の新書版や文庫本の本体を包むように背の部分で糊付けされているものが仮表紙 paperback(ペーパーバック)である。この呼称には本表紙ではないという意味が含まれている。(つづく)

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