■見切り販売--新釈国語2009/07/19

 消費期限の迫った生鮮食品や賞味期限の残り日数が少なくなった食品について通常の販売価格を引き下げて販売すること。商品をどのような価格で販売するかは、独占禁止法による不当廉売の規定に抵触しない範囲で、それぞれの販売者が独自に判断して自由に決めるのが普通である。価格を引き下げれば利益は減るが、売れ残って廃棄するよりは原価の回収に役立つし、ゴミの量が減るので環境への負荷も小さくなる。しかしフランチャイズ制を採るコンビニエンスストアの中には本部との契約で弁当、おにぎり、サンドイッチなどの見切り販売を実施できないところが多く、公正取引委員会が実態調査と是正に乗り出した。優越的地位の乱用を防ぎ公正競争を確保するというビジネス面への配慮はもちろん重要だが、それ以上に今後は全地球的視野に立った資源消費の無駄防止対策が強く求められる。

○ほおずき2--梅雨明け(6)2009/07/19

 歴史的仮名遣いでは「ほほづき」と記す。「ほおずき」では何のことか分からぬが、「ほほづき」なら意味が見えてくる。この語について考えるとき、ちょうど1000年ほど前に成立した随筆「枕草子」を忘れることはできない。作者は一条天皇の皇后に仕え、才媛と謳われた清少納言である。ほおずきにはことのほか関心を寄せていたのではないかと想像される。216段には「酸漿」が、また64段には「ぬかつき」が見え、後述するように他にも記述が確認されている。「酸漿」はほおずきの漢名であり、当時は「ぬかつき」あるいは「ぬかづき」とも呼ばれていた。
 ところで「ほほ」も「ぬか」も顔の一部である。前者は頬であり、後者は額の意になる。では、それらの「つき」とは何だろうか。ほおずきの朱色に熟した実を袋から取り出し、実の中に詰まっている白い粒々の種子を実の外皮を破らないように上手に取り出して風船状にする。子どもの頃はこれを膨らましたり、口に含んで鳴らしたりして遊んだ。そのとき子どもの赤い頬が膨らむ。「ほほづき」ならこうした頬の様子を顔つきに準ずるものとして浮かべることも可能だし、何より朱色の袋が赤い頬のようでもある。
 一方「ぬかつき」の場合は、額の様子という解釈では今ひとつ合点がゆかない。ほおずきを額にたとえる理由が明確ではない。この鍵も実は「枕草子」にある。清少納言はこの随筆の中で「ぬか」という語を3回登場させ、ひとつはほおずきの意に、残り2回は額突きの意に用いている。額突きとは丁寧なお辞儀の意であり、額を地面に突き立てるように深く頭を垂れるお辞儀をいう。つまり、ほおずきの実の生り様・袋が幹からぶら下がる様子をたとえたものと考えられる。
 写真は昨日の花が受粉してできる、まだ青い袋の様子である。袋の中にはやはり青い実がひとつ付いている。(つづく)

○ビックリグミ--盛夏2009/07/19

 先月21日の「夏便り」で紹介したグミにはまだ黄色や緑色の実も写っていた。この木のグミはその後みな熟して食べられたり落ちてしまったが、記事をご覧になった方から山梨の生家にも同様のグミがあることを教えていただき、同県ではこれをビックリグミと呼ぶことも教わった。
 その後、たまたま甲州地方へ出かける機会があり、車窓から注意して見ていたら南アルプスを望む山あいの村で古寺の近くに深紅に熟したグミの実を見つけた。これがそのときの写真である。近所の人に聞いてみると「昔は子どもが喜んで食べたけど、今は子どもがいないからね」との返事だった。スグリの実と変わらぬ状況のようだ。

 ⇒http://atsso.asablo.jp/blog/2009/06/21/ グミ(1)

■仏の光より金の光--新釈国語2009/07/19

 漢方薬のような穏やかな効き目のあるものよりも人は、すぐに効き目のあるものや現実的な利益を求めがちであることをたとえた言葉。仏は苦しむ人々に慈悲の心で接し安らぎの時を与えてくれるが、それですぐに何かが出来たり始まるわけではない。一方、金(かね)には即物的な力があり物が買え、借金が返せる。人間の心は弱いため、長期的な視点に立った判断が必要と分かってはいても目の前に札束を見せられると、つい現金の方に手を伸ばしてしまうことを表している。政治は「予算のばらまきが至上」と信じて止まない政治家の教典に特筆された言葉でもある。

●夕部(ゆうべ・3画) 12009/07/19

 よく「ギターの夕べ」とか「芝居と音楽の夕べ」などという。開始の時刻はその土地によっても変わるようだが日本ではおおむね18時から19時であろう。海外では20時とか21時という話をよく聞く。いずれにしても現代の日本では夕方過ぎから夜のある時刻までを指し、深夜は含まれていない。ところが「夕べは全く眠れなかった」という場合は前夜全体を指す。つまり夜中の意である。
 古代の日本では「ゆふへ」または「ゆふべ」は、朝を意味する「あした」の対になる言葉として用いられた。一日を明るい昼の時間と暗い夜の時間に大別し、「ゆふべ」は暗い夜の側に属する呼称であった。その入り口に当たる部分を受け持っていたのがこの言葉である。つまり、ゆふへ → よひ → よなか → あかとき → あした と呼び分けていたのである。
 古代中国では夕(セキ)は初め、夜の意に用いられた。上記はその時代の字形である。甲骨文には、このように月と同じ形に描かれている。(つづく)

○赤い紫露草--盛夏2009/07/19

 先月中旬の「夏便り」に紫露草を紹介した際、「随分と赤味を帯びたものもあって驚かされる」と書いた。その花に先日再開した。
 比べてみると、改めてその違いにびっくりする。まさに百花百様の感がある。小なりといえども実に鮮やかだ。
 しかし花は一日咲いただけで萎んでしまう。紫は華やかだが、この植物には短命の世界である。

 ⇒http://atsso.asablo.jp/blog/2009/06/18/ 紫露草の色