○今日の朝顔(4)--盛夏2009/08/09

 花の姿が夕顔は朝顔に似ているというのは、どちらも漏斗形の花を開くからであろう。開花の時期は夕顔は夕方近くであり、花の色は白と決まっている。夕顔には大きな実が生り食用にできる。一方の朝顔には種子の入った小粒の実はできるが、これは漢方でいうところの牽牛子(けんごし)であり生薬として下剤などに用いられる。
 たびたび紹介する「名義抄」には「牽牛子、アサガホ」の記述も見えるが、漢名では花は牽牛花(けんぎゅうか)と呼ぶ。牽牛は牛を牽(ひ)くの意であり、星の名としても知られる。天の川を彩る織姫・彦星の彦星に当たることは紹介するまでもないだろう。それにしても、この時代の朝顔とはいったいどんな色をした花だったのだろうか。(つづく)

  床ずれに白粉ぬりぬ牽牛花 富田木歩

○露草(4)--野の花々2009/08/09

 露草の花汁を摺り付けた衣の色は綺麗でも水に濡らすと色落ちする。時間が経てば褪(あ)せてしまう。そんな評判が拡がるにつれ、この植物は元々花の命が短いこともあって、人の心の変りやすさ・移ろいやすさを象徴する代名詞となってゆく。
 万葉の時代から250年ほど経た平安時代の中頃、紫式部は「源氏物語」総角(あげまき)の中でこの植物を巧みに利用している。光源氏の孫にあたり色好みの性格を受け継いだと評判の高い匂宮(におうのみや)について「なほ音に聞く月草の色なる御心なりけり」と、その心を露草の色にたとえて紹介した。
 露草はさらに「古今和歌集」にも顔を出すが、うちひとつは「うつし心」に掛かる枕詞としての役割に転じている。この植物名が広く日本文学の中に普及定着したことを示す出来事と言えるだろう。(つづく)

  いで人は事のみぞよき月草のうつし心は色ことにして 不知詠人

◆里芋の葉の朝露2009/08/09

 近所の小学校の夏休みが始まってもう3週間が過ぎた。今どうなっているかは知らないが、昔の農村の小学校は夏休みが短かった。3週間もなかったように記憶する。夏休みの課題は確か「夏休み帳」と呼ばれるようなものがあって、そこに全てが集約されていたはずだ。だが例外もあった。習字はそのひとつだった。
 手本を真似て二三枚も書くだけのことだから取りかかればすぐに終わるのだが、まず墨を擦らなければならない。この季節に墨を擦るときは「里芋の葉に溜まった朝露を使うと上達が早い」と誰かが教えてくれた。家の前にある畑には里芋が植えられ、茎が大きく伸びていた。朝早く、この露を葉から零さないように柄杓で集めて使った。最初は露というものの特性を知らないから身体が不用心に葉に触れて、みな零してしまった。子どもにはそれなりに難しい作業だった。
 現代の日本人にとって「いも」と言えば多くはジャガ芋であり、薩摩芋だろう。いま里芋を思い浮かべる人は少ないに違いない。自然薯に至っては皆無に近いだろう。だが先人との関係はこの逆の順に始まっている。里芋がいつ、どんな方法で列島にもたらされたかは明確でない。ハスもそうだが文字や仏教とは異なる、食文化渡来の道が古くから別のルートで存在したのではないだろうか。
 因みに「万葉集」の次の歌に見える「うもの葉」は里芋の葉のことだと言われる。意吉麻呂(おきまろ)なる作者が宴席で即興に詠んだ戯れ歌に過ぎないが、この時代に人々がハスや里芋をどう見ていたかが分かって面白い。少なくとも奈良の都ではハスはまだ珍しく一方、里芋はどこの家にも見られるほど広く普及していたのである。

  蓮葉(はちすば)はかくこそあるもの意吉麻呂が家なるものはうもの葉にあらし 長意吉麻呂