○蓼(5)--野の花2009/10/08

 奈良東大寺の正倉院に伝わる正倉院文書には「塩一升八合 海藻二連 漬瓜四十果 生茄子五升 菁二束 蓼十五把 大豆二升」などと当時の食べ物の名称が記されている。奈良時代、蓼は大豆や海藻と並ぶ立派な食品のひとつとされていたのである。にもかかわらず一方には「蓼食う虫も好きずき」に代表されるような、これを格好の物好き扱いの材料にする風潮も存在している。誠に不思議と言うほかない。

 但し現代では蓼の知名度そのものが下がり、その正体が見えにくくなっている分だけ、常人とは違う物好きのようだぞという意味合いが増しているのではないか。元の意味は必ずしもそうした意味合いを含まず、単に人の好みは決して一様なものではないとする点にあったと考えられる。

 タデは漢名に由来する呼称である。「説文」には辛菜とする説明も見られるが、中国には蓼虫不知苦(リョウチュウニガキヲシラズ)という言葉も伝わっている。「蓼を食う虫は蓼の葉が苦いから食べているのでも、苦いと思って食べているのでもなく、美味いと思うからこれをせっせと食べるのだ。好きになれば、人がそれをどう思うかなどは関係ないことだ」という意味である。蓼の葉を食べる習慣も諺もみな中国から伝わったものと言えるだろう。(了)

  蓼咲くと誰も言はず吾も言はず 加倉井秋を