●大人は赤子の心を失わず2009/11/21

 大人(たいじん)は君主など徳の高い人を指す言葉、赤子(せきし)は生まれたばかりの赤ん坊をいう。徳のある人はいつまでも、赤ん坊のように純粋で偽りのない心を持ち続けるものだという意味である。君主たる者は常に民の暮らしに心を砕き、その気持を理解しなければならないという諌めの言葉としても知られる。

 昨今の政治の有り様を見ていると先の自公政権は言うに及ばず、この秋誕生した新連立政権までもがまるでこの言葉を知らぬように思われてくる。少しは、皇居にお住まいの老夫妻の爪の垢でも押し戴いて煎じて飲めと忠告したい。所詮、政治家は君主とは別物の垢まみれの存在ということだろうが、それにしてもあまりに情けない気がする。特に腹立たしいのが官房機密費なる税の行方である。

 原典:大人者不失其赤子之心者也(孟子「離婁」下)

◆ドッドさんの絵本2009/11/22

 もうすぐまた師走がやって来る。日本では厳しい冬の季節を迎えるが、南半球にあるニュージーランドはこれからが夏本番である。茶目っ気たっぷりの愉快な犬6匹が繰り広げる楽しい絵本の作者ドッドさんはここで生まれ、今も北島のタウランガに暮らしている。小さい頃から絵を描くのが大好きで美術学校に学び、クイーンマーガレット・カレッジで美術の先生をしていた。そんな彼女が絵本の制作を手がけるようになったのは、猫の絵本に入れる挿絵を頼まれたことがきっかけだった。

 掲載したのは1983年に発表した第1作目 Hairy Maclary from Donaldson's Dairy (1983) のお話の「転」にあたる箇所の挿絵(一部分)である。この場面は登場人物(?)となる6匹が勢揃いし意気揚々とお散歩を続けるうちに、とうとう町外れまで来てしまったという箇所にあたる。どの挿絵にもドッドさんらしい細やかな仕掛けがあって幼い子どもでも十分楽しめるようになっている。しかもこのページには少し大きな子どものために次の場面を予測させるようなちょっとワクワクする工夫も施されていて、読んでもらうとき子ども達が息を潜めて見守る箇所でもある。(残念ながらそれらの工夫や仕掛けは掲載した部分の枠外にある)

 この作品はいきなり大ヒットし、ドッドさんは大学を辞めて絵本の制作に専念することになった。といっても次から次へと描きまくる流行作家ではなく常に丹念な仕事を心がけ、発表は律儀に一年一作を守っている。そしてどの作品も永く英語圏の子ども達に読み継がれるロングセラー絵本となった。主人公はマクレリー、画面の右端にお尻だけ見える小さな黒い犬の名前である。(つづく)

 *邦題:もしゃもしゃマクレリーおさんぽにゆく(あづき、2004.4)

○芒・すすき--晩秋2009/11/22


 穂を出したススキが風になびく様を見て列島の先人達は秋の訪れを感じた。現代の人々は何に目にしたとき秋を感じるのだろうか。エコだ何だといいながら一年中エアコンを効かせ、年がら年中風邪を引き、四六時中マスクをして歩いている。これが不思議でなくて何が不思議かと思う。


 確かにススキがなびく様にも秋の風情はある。だがそれ以上に、ススキの穂や葉を照らす日射しにこそ秋の訪れの秘密があると思う。長いことカメラのファインダーを覗いてきて、そんな実感を持っている。なぜなら秋が近づくと真上からの日射しは無くなり、専ら斜めに差し込む陽光だけが撮影の頼りとなる。しかもその時間は短く、決して待ってはくれない。この光による効果こそが秋という季節感の演出者であろう。

  我が庵も芒がくれとなりにける 虚子

○芒・すすき(2)--晩秋2009/11/23

 薄田泣菫(詩人)、薄田研二(新劇俳優)など「薄」を用いる名字はあるし、札幌には薄野なる著名な繁華街もある。だがよく考えると、この文字は「薄い」という言葉にも使われている。ススキと薄い、妙な取り合わせと感じないだろうか。

 すでに秋の七草として尾花の項で触れたように芒(ぼう)も薄(はく)も草を表す文字には違いないが、これに「すすき」という訓を与えたのは列島の先人達である。それが生粋の倭人であったか帰化人達の3世4世であったかは分からない。いずれにせよ秋の原野に繁茂するこの植物を表すに相応しい文字と考えた上での訓であったろう。

 だが漢語の例を見ると薄氷、薄利、薄倖、薄情、薄謝など薄は専ら数量的に僅かな様を表す文字として使われている。不思議なことに、肝心のススキを連想させるものがさっぱり見あたらない。原義の大半が失われてしまったのかも知れない。


 一方、芒の場合は茫洋や茫然といった漢語も存在はするが、カヤを意味する芒茅(ぼうぼう)がある。カヤは晩秋の頃、よく伸びた丈の長いススキを刈って乾燥させ屋根を葺く際の材料とするときの呼称である。他にもイネ科の植物を表す芒種がある。ススキはイネの仲間だし、芒種は二十四節気の一つにも数えられる。これならススキという訓を充てられても不自然さはない。(了)

 ⇒ http://atsso.asablo.jp/blog/2009/09/21/ 尾花

◆ドッドさんの絵本(2)2009/11/24

 ドッドさんの絵本に登場する動物たちはジャケットを着ていないし、ズボンも靴も履いていない。言葉をしゃべらないし、人間のように二足歩行することもない。みな普通の動物と同じように四つ足で動き回っている。しかし動物たちには表情があり、意思の疎通があり、絵本にはストーリーがある。

 不思議だが、ちゃんと物語になっていて、次はどうなるだろうと読者をワクワクさせたり、ハラハラ・ドキドキさせてくれる。これが動物の絵本といえば擬人化が当たり前の日本の絵本とは一番に違う点である。擬人化しなくても、ドッドさんは擬人化した以上に人間くさい動物たちを登場させることに成功している。

 マクレリーは、そんな犬たちのお話の主人公である。もしゃもしゃした黒い毛で全身がおおわれた小型犬で、種類はテリアと説明されている。もちろん飼い犬だから首輪をしているし、首輪には赤い札も付いている。おちびさんだが、これがどうしてなかなかの人気者である。仲間内でも、町の人にも何かと気になる存在なのだろう。毎回あちこちで小さな騒動を巻き起こして読者を楽しませてくれる。(つづく)

○時鳥草--晩秋2009/11/24

 年々気候の様子がおかしくなっている。夏の花である石楠花が咲いていたり、咲き始めたばかりの時鳥草を晩秋の日溜まりに見つけたりする。もう躑躅の狂い咲きぐらいでは驚かなくなった。バブル経済以降、野菜や果物に旬の感覚が薄れ飽食の限りを尽くした日本人だが異常気象の到来で今度は何を失うのだろうか。くれぐれも他国の民を札束などで苦しめないよう願いたい。


 写真は5月の気候のよい時季に「テッペンカケタカ」と鳴く、あの時鳥(ほととぎす)と同じ名前を持つ植物である。大抵は9月中頃から10月にかけ、あちこちで目にする。だから仲秋の花とされるのだが、今年は遅くに思わぬところで出会した。それも一般に言われるような湿り気の多い場所ではなく、むしろ乾燥した水捌けのよい土地であった。そんな場所に咲き始めたばかりの時鳥草が今日の1枚である。
 いろんな顔があり、いろんな表情を見せる草花でもある。順次、撮影日を遡って掲載してみたい。(撮影日:2009年11月15日)


○時鳥草(2)--晩秋2009/11/25

 時鳥草を見ていると、その斑模様が実に様々であることに気づく。加えて花びらの形も一様ではないから楽しめる。もう十年かもっと前のことになるが、植えたわけでもないのに庭の隅に小さな時鳥草が飛んできて芽を出し居着くようになった。葉の形からすぐに時鳥草と知り、周りを囲って踏まれないようにした。万が一にも雑草と一緒に引き抜いたりする者がいれば、きつく叱責した。まだ珍しかった頃なので、とにかく大事に育てた。

 ところが、あるとき気づいたら庭中が時鳥草だらけになっていた。それからは流石に誤って引き抜く者がいても叱ることは止め、繁茂する時鳥草をじっくりと眺め、少しは間引くこともするようになった。そしてみな同じと思っていた花にも、実は多くの違いがあることを知るようになった。


 今日の一枚は時鳥草の名に相応しい斑模様といえるのではないだろうか。昨日の写真に見るような赤紫色ではなく、むしろ色味は青紫に近い。斑点のはっきりしている点も昨日のものとは異なっている。背景に写っているのは紫蘭の葉である。(撮影日:11月21日)

○時鳥草(3)--晩秋2009/11/26

 ちょうど秋の彼岸の頃だったと思う。延び延びになっていた彼岸花の撮影に出かけたら案の定、花は盛りを過ぎていて仕事にならなかった。ところが近所に思わぬものを見つけた。それが今日の一枚を撮影した場所である。おそらくすでに故人となった人が10年も20年も前にどこからか移植したものだろう。主がいなくなっても、土地さえ合っていれば消えることはないようだ。ちょっとした群生地ができあがっていた。


 見つけたときはまだ開花したものが少なかったので後日、出直して撮影した。種子が零れて徐々に拡がったのだろうが、占領する前は一体何が生えていたのだろうか。(撮影日:9月24日)