◎松の内 時代と言葉012010/01/04

 松の内とは門松が立ててある期間、松飾りや注連飾りが飾ってある期間という意味です。そのため地方によって元日からいつまでを指すかは一定しません。おおむね関東は六日の夕刻か七日まで、京辺りでは十五日までとするところが多いようです。


 しかしそうした風習と現代のサラリーマンの生活とは全くかけ離れたものになってしまいました。例えば今日四日は大抵のサラリーマンにとって新年最初の出勤日です。昔は新年の挨拶を交わし、職場に届いた年賀状を整理したり、年末にし残した片づけなどがあればそれらを片づけて早々に退散したものです。「明日からまた頑張ろうね」と鈍(なま)った頭の準備体操をする日でした。

 それがいつの頃からか、初日といえども通常通り終業時まで働くようになりました。率先したのが役所の公務員か大企業かは知りません。これを国際化とか外国並みと言うと聞こえは良いのですが、有り体に言えば気持に余裕がなくなってしまったのです。初日から残業までするサラリーマンのいることが何よりの証拠でしょう。

  はらからの訪ひつ訪はれつ松の内 星野立子

 核家族化が進み、訪れる人も訪れる先もめっきり減ってしまったことも確かです。それより単身で、二人で、家族で海外旅行をという向きも多いでしょう。身内同士でさえ、近年は疎遠になる親子や兄弟姉妹が少なくないとも聞きます。年に一度くらい、自然家族の三世代四世代が集まって暮らすのも悪くないだろうにと思われてなりません。

 写真は昔ながらに竹を切って門口に立て、左縒りの注連縄を張って白幣を垂らした農家の新春風景です。

○白梅日記022010/01/04

 今日は多くのサラリーマンにとって初出勤の日でした。暖房完備の人々と違い、私たち野に立つ白梅の生活はエコそのものです。かの菅原道真公が「東風吹かばにほひをこせよ…」と詠んだ1100年前の昔と何ら変ることのない生活を続けています。そのために開花時期も一定しないのです。

 人間は数十年しか生きられないと思うからでしょうか。懸命に毎日毎年を規則正しく同じリズムで過ごそうと、せっせと化石燃料を消費したりエコだ何だと資源の使い捨てに精を出しています。一日働けばその分だけ勤め先に利益をもたらさなければならないと焦ってクルマに乗ったり、電話をかけたりしています。


 朝から日射しの少ない寒い一日でした。雨もとんと降りません。もしかしたら昨日より蕾が小さく閉じて見えるかも知れません。違うのは空の色くらいなものです。人間に生まれていたら、こんな日は何と言い訳をするのでしょうか。

◎季節の言葉 水仙2010/01/05

 水仙は二月の花だと聞いたことがある。だが暖地では十一月の末から咲き始めている。株にもよるが独特の匂いがあり、時に微妙な匂いを醸すものもあって強すぎて嫌われるものもある。また純白の六弁花はよいとして、中央部にある花冠があまりに濃い朱色を呈すると、これも嫌われる原因になる。


 総じて人間は我が儘だから気に入らないことがあると、これを容赦なく球根ごと掘り出して川に捨てたり、畑の隅に放り出す。しかし実を結ぶ術を知らない水仙はそんな程度の仕打ちで絶やされたりはしない。球根が分離して、かえって数が増えることさえある。

 夏、道路際の地中に眠る球根の上に砂利が敷かれアスファルトが被せられて、すっかり舗装されてしまったことがある。それでも翌年初めには黒いアスファルトを割って、まるで雪割草の如くに芽を出したのである。生命力の強さ、しぶとく生きるとはまさにこのような様を言うのであろう。

  岩を割り春を忘れぬ水仙の如くに吾は生きたかりけり 木多詠人

○白梅日記032010/01/05

 今日は小寒、寒の入りです。大寒は今月20日、寒明け・立春は来月4日です。今朝の日の出は東京が6時51分、年末とほとんど変っていません。一年で一番夜明けの遅い時期でもあります。あと1週間はこんな状態が続いて、そのあと少しずつ日の出が早まってゆきます。そして名実共に春がやってくるのです。

 今朝は明け方、久しぶりに雨が降りました。ほんのお印ばかりの雨量でしたが、それでも私たちには恵みの雨でした。少しホッとしているところです。それに日中はぽかぽかと暖かく、とても寒の入りとは思えない陽気でした。


 メジロ君の話では近在の寺ではもう白梅が開いているそうです。私も南向きに植えてもらったつもりですが根元が塀に近いので、なかなか地熱が上がりません。それが寺の斜面にある仲間との差でしょう。まあ写真では分かりにくいかも知れませんが、これでも昨日よりは花芽が緩んで去年の春の浮かれ気分を思い出したところです。

○白梅日記042010/01/06

 寒に入って2日目、朝は冷え込んで気温も10度を下回ったのではないかと思います。しかし日中はきれいに晴れわたり、風もありません。昨日の浮き浮きした気分が続いています。どの兄姉たちも皆、お尻の辺りがむずむずすると陽気にお喋りしています。本当によい天気です。

  小豆賣小家の梅のつぼみがち 蕪村

 相変わらず眠ったように動かない弟妹もいますが、寝る子は育つと言います。私たちの咲き比べが始まればすぐに目を覚まし、追いかけて来ることでしょう。松の取れるのが先か私たちの一輪が先か、いよいよ楽しみになってきました。


◎レモンの季節2010/01/06

 先日「夏みかん」を夏の季題とすると、庭先に実る姿を詠むのは難しいだろうと書いた。これとは反対に、食べる時期より枝先に実る時節に合っているのがレモンである。歳時記ではレモンを秋に分類している。しかし9月や10月のレモンはまだ青く、食するには少々早すぎる。輸入物なら近年は年中売っているが、国産が出回るのは早くても11月以降だろう。12月に入ると急に増え、年が明けてもそのまま1月2月と出荷が続く。

 花の時期は、国内では他のミカン類と同じく5月が多い。だが木によっては年中、花が咲いているように感じるものもある。8月か9月頃に咲いた白い花がドングリのような実を付け年末、収穫期を迎えた黄色いレモンの隣でピンポン球にも届かない小さな青い実に育っているのを見ることもある。


 レモンを秋の風物に数えるのは日本人がレモンそのものよりも、それが生る風景を珍しく感じるからではないだろうか。写真は12月中旬の、まだ薄緑色をしたレモンの実を撮したものである。

○白梅日記052010/01/07

 今日は寒の入りから3日目です。今日もよく晴れて暖かな一日でした。浮き浮きするのは昨日と同じです。周りの兄妹たちにも白い花びらをちらり、ほらりと覗かせるものが増えてきました。それが写真でお分かりいただけるとよいのですが。


 今日は私たち兄妹姉妹の中で一番乗りをしそうだと噂されている後の枝の蕾くんもお目にかけます。いつもは私たちの写真の右後ろに写っているはずです。次の左側がその写真です。右側の写真は正月の年賀状に登場した八重の野梅さんの近況です。


 毎日、年賀状の配達に忙しい日本郵便のバイクのお兄さんの話では、お寺以外にも白梅が見頃を迎えつつある家があるそうです。あまりノンビリしていると最後になるかもしれないと今、みんなで話したところです。なお明日は、都合により日記はお休みです。

  二もとの梅に遅速を愛すかな 蕪村

◎季節の言葉 青木の実2010/01/08

 アオキは関東地方の山に入れば樹木の下など至る所に自生している。だから珍しくも何ともないとも言えるのだが、知人の青木君はこれをファミリーマークと称して広い屋敷の要所要所に植えていた。


 ところがある時、この見慣れたはずのアオキにも実は色々変種があると知って青木邸を訪れると案の定、山取りの樹木ばかりではないことが分かった。珍重され幕末には海外にも渡ったと物の本で読んだことのある繊細な斑入りのアオキが大きな庭木の陰に植わっていた。よく見れば、この仲間にもまた色々な斑の入り方があるようだ。

 見かけは普通のアオキと差がないのに、黄色の実を付けるアオキも木戸の近くにあった。古木というか、幹周りが人の腕より太い老木もあって驚かされた。他にも丹念に観察すればきっと多くの変種があったに違いない。凡俗には窺い知れない高等な趣味もあるものだと感じ入ったことを思い出す。

  青木の実学者の妻の墓小さし 安立恭彦

◎日本人とレモン2010/01/09

 鴎外が20世紀の初めに翻訳したアンデルセンの「即興詩人」には度々レモンが登場する。これを鴎外は「檸檬」と記し、全て律儀に「リモネ」とルビを振っている。明治35年(1902)に出版された春陽堂版を繙くと、例えば次の如くに記されるのである。現代なら定めし「その木にはまだ十分な日の光を浴びていない、緑色のままのレモンが生っていた。」とでも訳すところであろう。

 檸檬樹(リモネ)はまだ日の光に黄金色に染められざる、緑の實を垂れたり。(上巻p36)

 こうしたロマンチックな文章に触れた人々がレモンに対し、普段よく知るミカンとは全く異質の憧憬にも似た感情を抱いたであろうことは子ども時分の記憶からも明かである。それは地中海という異国の地に産するハイカラな黄色の実であり、エキゾチックな響きをもった夢のような果物らしいということであった。こうした印象を生む最初のきっかけが鴎外の訳文にあったことは疑いない。


 明治大正期の作家にとってもレモンはおそらく大きな憧れの一つであったろう。大正14年(1925)、梶井基次郎が「青空」に発表した短編小説「檸檬」は当時の知識人達のレモンに寄せる感情を如実に伝えている。「檸檬などごくありふれている」と言いながら一方で「いったい私はあの檸檬が好きだ」と書き、色も形も好きだと素直に認めざるを得なかった。

 写真はまだ日射しの強い9月初め頃のレモンである。

◆月は痩せ、米ナイ教授は案ずる2010/01/09

 目を覚まし、南側の窓を開けると、弦月がちょうど隣家の屋根の真上にあって、その姿が天窓に映っていた。月の出は深夜の1時20分、月の南中は6時37分だった。(いずれも東京)

 大晦日から元旦にかけて満月だった月が半分に減ってしまった。この間、十日足らず。正月気分も抜け、また仕事が始まり、政界では財務大臣が替わった。霞ヶ関では年末まで得意満面だった財務官僚達の顔がにわかに曇り、口が重くなった。

 マスコミは検察が動き出したとか動いて欲しいとか、そうだとか、ようだとか、関係者の話ではとか、注目が集まっているとか、いろんな語尾を並べ、元旦から政治部も社会部も若手記者を動員して与党大物政治家の動向を追っている。売れない新聞を買わせるためとは言え、ご苦労なことである。

 海の向こうでは、かつて駐日米国大使候補の筆頭だったハーバード大学のジョセフ・ナイ教授(Joseph S. Nye Jr・元国防次官補)が今月7日付けのニューヨークタイムズ(電子版)に寄せた論文"An Alliance Larger Than One Issue"(一つの問題より同盟関係の重視を)が注目される。

 寄稿の中でナイ教授は「米国政府は手段と目的を取り違えるな。普天間基地という二義的な手段の問題で日本の鳩山政権を追いつめると、米国の面子(めんつ)は保つことができても日本人がもつ親米的な感情を悪化させ、引いては東アジアの安定という最も重要な戦略目的が脅かされることになる。短気は避け、ここは辛抱強く交渉を続ける必要がある」と説いている。日本のマスコミにとっては、思わぬところからのカウンターパンチであろう。

  http://www.nytimes.com/2010/01/07/opinion/07nye.html ナイ教授の寄稿