◎練馬野にも空襲があった 32010/03/07



 突然の変化に驚きながら、何かあるなと感じた。

「出征兵士の見送りには行かれましたか?」
「行ったよ…」
「どこの駅で見送ったのですか?」
「大泉学園さ…」

 明治の末年に設立された武蔵野鉄道が池袋~飯能間で営業運転を始めたのは大正4年(1915)の4月である。初めは汽車を走らせた。所沢までの電化が完成したのは大正11年、保谷までの複線化は昭和4年(1929)に完了した。大泉村に駅ができたのは大正13年11月のことである。駅名は東大泉と云った。

 これが現在の大泉学園駅に改称されたのは昭和8年3月のことである。当時の大泉村は昭和7年10月に誕生した東京市板橋区に属していた。市内35区中最大の面積を誇る板橋区の中にあって最も西寄りに位置し、人家まばらな文字通りの片田舎だった。昭和5年の国勢調査によると、1平方キロメートル当たりの人口密度はわずか423人である。板橋町8,505人、練馬町1,733人、上練馬村588人、中新井村2,026人、石神井村703人などと比べても、その寒村ぶりが際だっていた。(つづく)

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