◆足利事件と飯塚事件の差(3)2010/03/27

 最近、政治の世界では説明責任と云うことが喧(やかま)しく叫ばれるようになった。鳩山総理も民主党の小沢幹事長も説明責任を果たしていない、そのことが内閣支持率や民主党支持率急落の最大の原因だとマスコミはしきりに報道している。では今回の冤罪について日本の裁判所や司法関係者は国民に納得のゆく説明をしているだろうか。

 宇都宮地裁の佐藤裁判長は判決で菅谷さんが無実であると言い切った。その根拠についても明らかにした。管家さんを犯人扱いし、精神的に追いつめ、自白を強要し、挙げ句の果てに17年半に及ぶ長い刑務所暮らしを強いることになった有罪の決めてであるDNA型の鑑定が誤りだったと断じた。


 菅谷さんについては、ここに至るまでに地裁、高裁、最高裁と3回もその道の専門家が血税を使った審理を行っている。だが誰一人として、菅谷さんの罪が濡れ衣であることを見抜けなかった。三審制は機能しなかった。再審請求審の棄却も含めれば4回も節穴裁判が行われていたことになる。これが裁判のあるべき姿でないことは誰の目にも明らかだろう。日本の裁判官も司法関係者も、これを不名誉なことと思わないのだろうか。不思議でならない。どう見ても日本の刑事裁判は「人を見る目」を排除した、それとは相容れない恐ろしく非人間的な基準や常識によって行われている。

 ⇒ http://atsso.asablo.jp/blog/2009/07/01/4404461 人を見る目

 日本の裁判所や裁判官に「人を見る目」やその持ち主となることを期待するのはどうも無理そうである。司法試験に合格するような人には、合格しても検察官や裁判官を志すような人にはそんな人間らしい目の持ち主は期待できないと云うことだろう。もしそんなことはない、それくらいの目は持っていると主張する人がいれば、裁判所がこれまで再審の訴えに対しどんな対応をしてきたか、なぜ「真実の声に耳を傾けられ」なかったのか、傾けようとしなかったのか、その原因は何だったのか、どこに耳を貸さない・傾けない本当の原因があったのかをつぶさに検証し、その結果を国民に向かって堂々と公表して欲しいものだ。

 しかし新聞などで法曹関係者のコメントを読むと、裁判所にこうした期待を抱くのは無理だと思わざるを得ない。となればここはマスコミに期待するしかない。そもそもマスコミにも冤罪を許した大きな責任がある。マスコミは今こそ自発的かつ積極的に足利事件を始めとする戦後の冤罪事件の報道を洗い直し、自分たちがそれぞれの事件にどう対応したか、事件や裁判とどう向き合ってきたか、犯人や被告とされた人たちと面会しその話に一度でも耳を傾けたことがあるかをまず検証してみる必要がある。そうした自己点検が果たして行われるかどうか、どのくらいの規模になるのかを見守りたい。

 もしこうした努力を怠ったまま、相変わらず「警察への取材で分かった」とか「関係者への取材で分かった」などと記者発表や意図的に流される情報ばかりに頼ってこれまでと同様の安直な報道姿勢を続けるとしたら日本のマスメディアは早晩、国民の信頼も支持も失い消滅することになるだろう。今こそ警察官にも検察官にも裁判官にも期待できないが、しかしジャーナリストには「人を見る目」があることを見せて欲しい。それを検証記事で証明して欲しい。(つづく)

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