月曜日の保育園(3)2009/04/22

 週の休みが1日だけの場合はもちろんのこと、2日連続して取れる場合でも子どもが幼いうちは、特に学齢に達するまでは休日の遠出は止めましょう。田舎へ帰るとか、お祖父ちゃんやお祖母ちゃんに会うとか、従姉妹・兄弟に会うなどの場合を除いては避けるのが賢明です。そうした場合でも往復に要する時間、先方での滞在時間をよく考え、帰宅した後にそうした時間と同じだけの余裕を確保することが大切です。それが無理なら余裕が取れる夏休みや年末年始まで遠出は控えましょう。
 普段の休日は近所の公園が最も適しています。歩いて10分以内で行ける公園を探し、そこで20~30分一緒に遊んであげましょう。公園での滞在時間は、子どもの遊ぶ様子を見ながら、成長に応じて少しずつ延ばしてゆけばよいでしょう。それが子どもの成長を見守るということです。
 ささやかな外出は、大人が住まいの周辺環境に関心をもつことにも役立ちます。平日は通勤に忙しく、こうした点まで観察する余裕はないはずです。知っているのは自宅と駅と保育園とコンビニの場所くらいなものでしょう。家族が住んでいる町の現状について多くの大人が実は何も知らずに暮らしているのです。町の現状を知ることが、市民としての視野を広げ、24時間その町で暮らす子どもたちの将来をも考えることにつながってゆくのです。

月曜日の保育園(2)2009/04/21

 とは言え、現状が幼い子どもたちに大きな負担を強いていることも確かです。ではどうしたら事態を改善できるでしょうか。大人が善かれと思って実行していることが裏目に出ているのです。そこさえ気づいて改めれば、問題はあっという間に消えてなくなります。ちょっと工夫するだけでよいのです。
 疲れているのは子どもだけではありません。大人も毎日の仕事で疲れています。長時間に及ぶ労働が続き、あるいは神経を使う仕事があって多くの大人が疲れを感じています。にもかかわらず子どものためだと思うと、大人はつい無理をしてしまいます。普段、子どもに済まないとか悪いと思っているので休日はどうしても欲張ってしまうのです。だからまず無理を止めることです。
 そもそも子どもが望んでいるのは、何時間もクルマに乗ったり電車に揺られたりして大きな遊園地に出かけることではありません。おもちゃ売場の雑踏の中で時間を過ごすことでも、きれいな景色を見ることでも、知らないレストランで食事をすることでもありません。大好きなお父さんやお母さんと一緒に過ごす、そのことを願っているのです。お父さんやお母さんと気持が通じ合う、肌を触れ合う、肉声を聞く・交わす、そういった時間を求めているのです。

月曜日の保育園(1)2009/04/20

 保育園に預けられる子どもたちにとって月曜日は特別な日です。お父さんやお母さんは子どもたちがどんな様子で一日を過ごしているか承知していますか。幼稚園に通う子どもたちにとっても状況は似たようなものですが、3歳未満の幼い子どもも預かる保育園の方がこの傾向を顕著に感じます。どの子どもを見ても月曜日は行動に精彩がありません。お昼を食べて一眠りしたあたりから、ようやく普段の姿を取り戻すのです。
 朝、親から背中を押されるようにして保育園に預けられた子どもが、親の後を追ったりぐずる間もなく眠たそうに欠伸をする姿をよく見かけます。一目で草臥(くたび)れたと分かる顔をしています。朝の9時前でも、抱いているうちに眠りこけてしまう子どもがいて驚かされます。他の曜日であれば朝から元気に遊び回る子どもが月曜になるとなぜか元気がなくなり、ぐったりした様子を見せるのです。明らかに前日の「休み疲れ」が残っている様子です。
 日曜日あるいは土曜・日曜は子どもを保育園に預けている親にとって、家族が存分に触れあうことのできる貴重な曜日です。週に一度の、待ちに待った親子触れ合いの機会となることは間違いありません。仕事の都合で平日にはどうしても子どもの寝顔しか見ることができないというお父さんも多いはずです。そんなお父さんにとって、休日は罪滅ぼしの絶好の機会と言えるでしょう。無理からぬことのようにも思われます。

補食の罪(3)2009/04/15

 この時、多くの親が発するのは「ごめんごめん」という決まり文句と、これまた決まり文句に近い遅れたことの言い訳です。詫びているのは単に迎えが遅れたというその一点だけです。子どもに、寂しさ以上の切なさ辛さやり切れなさがあったと気づく親も、それを伝えようとする職員も極めて稀と感じます。こんな時、しゃがんで子どもを強く抱きしめ一緒に泣くことができたら少しは子どもも救われるはずです。遅れた自分の不甲斐なさを率直に嘆き、子どもにこれだけの行動を取らせる大きな不安(それが何であるかは分からなくても)を子どもと分かち合うという姿勢が抜けているように感じます。
 しかし現実に保育は進行しています。多くの子どもが幼いうちに、こうした理不尽な経験をしながら育っています。これが心の傷にならないという保障がどこにあるでしょうか。補食に要する費用は1回あたり精々50~60円でしょう。どうすればこの問題を解消できるか、保育関係者も行政ももちろん親も大至急検討しなければなりません。制度や仕組みなど基本的な事柄の検討だけでなく、応急対策として即日実行に移さなければならない問題でもあるのです。
 なお補食は年長さんくらいの年齢になると一種の楽しみに変わる側面があることも事実です。親との間に必ず迎えに来てくれるという確信にも似た信頼関係が生まれ、親の仕事の事情もある程度は理解できる年齢になると「少しなら遅れてもいいよ。その分、おやつがもらえるからね」という発想が芽ばえてくるようです。親離れが始まったと見ることもできますが、保育園には0歳児から6歳児まで幅の広い年齢の乳幼児がいることを最後まで忘れずに議論を尽くして欲しいと願っています。(完)

補食の罪(2)2009/04/14

 そうしている間にも友だちはひとり、またひとりとお迎えが来て帰ってゆきます。そして、その子が幼ければ幼いほど「もしや捨てられたのでは」という漠然とした恐怖感に襲われるのです。最も避けなければならない困った事態です。さらに、そこに追い打ちを掛けるかのように、悪い事態が起こります。それが補食という仕組みです。
 親との契約の如何に関わらず親の迎えが6時を過ぎたら機械的に補食を摂らせ、その費用は親の負担とするという原則・方式で運営されている保育園はまだよいのですが、そうでない場合はとんでもないことが起こります。6時になると他の子どもたちは保育士に促されて別室に移動し、補食を与えられます。ところが6時までの子どもは保育室に取り残されたままです。もちろん保育士はついていますが、なぜか自分だけ呼んでもらえないのです。親の姿が見えない上に、友だちは別室でおやつまでもらっています。自分にはなぜ、おやつがないのだろう。やっぱり捨てられたんだろうか。
 年少さんや3歳にも満たない幼い子どもに対し、保育士はどうやったら親の事情を説明できるでしょうか。納得させられるでしょうか。これほど非人間的な、ひどい仕打ちがあるでしょうか。幼い子どもがこうした事態をどんなに辛く切なく堪えていたかは、ようやく姿を見せた親への対応でよく分かります。親の姿を目にした途端、子どもはわっと泣いて駆け寄り、親を叩いてさらに大きな声で泣き出すのです。

補食の罪(1)2009/04/13

 生物が他の生物をつかまえて食べる「捕食」の話ではありません。人間の話です。学校給食法施行規則第1条3項に規定する「補食給食」(完全給食以外の給食で、給食内容がミルク及びおかず等である給食をいう)の話でもありません。保育園児の話です。幼子に切ない辛い悲しい思いをさせている罪な大人の話です。
 延長保育や時間外保育を実施している保育園では一般に夕方6時を過ぎると園児に「おやつ」として軽食を出します。これが「補食」と呼ばれるものの大人側から見た説明です。帰宅後に予想される夕食の妨げにならないよう、子どもの空腹を一時的に充たすだけのごく軽い内容の食事です。ラスクと干しぶどう、ふかし芋とするめ、蒸しパンとおやつ昆布、クラッカーとプルーンなど毎日メニューが決まっていて、園児を別室に集めて食べさせます。
 問題はこの支給基準・方法にあります。仮に夕方6時までの保育で契約していても、その日の仕事の都合や交通事情により親の迎えが6時を過ぎてしまうことは容易に想像がつきます。親の側が予め余裕をもってこうした事態に対処できるよう十分に考えて行動しないと、子どもはしょっちゅう不安な気持でこの時刻を迎えることになります。誰ちゃんのママが見えた。誰くんのパパもお迎えに来た。今度はうちのママかな。あっ、違った。どうしたんだろう。子どもは玄関口ばかり気になって、いても立ってもいられません。

保育の禁じ手2009/04/03

 同じことを何度も行って、その行為・動作に慣れていることを日本語では「しつく」といいます。ですから「しつけ」は意識しなくても自然にその行為や動作ができるようにすることです。こうした言葉が生まれたのは「しつけ」をしないと、その行為も動作もできるようにならない、つまり「ぶしつけ」(お行儀の悪いこと)になると先人たちが考えたからでしょう。
 ところで行為とか動作と言いましたが、その中身を具体的にどんなものにするかはそれぞれの社会が決めることです。そのため地域や時代によって変化する部分も含まれています。武家と町家では共通する部分がたくさんある一方で、武家ではそれは言わないとか町家では許されるとかいう行為・動作がありました。しかし現代のような誰もが平等であるべき民主的な社会では「しつけ」は最大公約数的なものに変わり、その役目は他人に迷惑をかけないこと、他人に不快な思いをさせないことに力点が移っています。
 ところが保育園や幼稚園のような場所で、思わぬ「しつけ」の例を目にしたことがあります。夢中で遊んでいると中にはオシッコを漏らしてしまう園児がいます。すると、それを見つけた先生(保育士・教諭)がその子に向かって、ある決まった言葉を言わせようとするのです。先生はその言葉を子どもに言わせることで次のお漏らしを防ごうとしているのか、それともお漏らしの始末を引き受けさせることへの詫びを言わせようとしているのか、甲高い声で「さあどうするの、なんて言えばいいの」と叫ぶのです。
 相手に何かをしてもらうときのお願い、してもらった後のお礼は確かに人間として生きていく上で欠かせない行為・動作です。その意味で、その方法を教え礼儀作法として習慣づけることは「しつけ」のひとつと言えるのかも知れません。しかしお願いの仕方やお礼の仕方を一様一律にすることが良いかどうかは疑問です。大事なのは、相手に申し訳ないという気持や感謝の念が伝わることです。決して口先だけの問題ではないはずです。
 予防の点から見ても、ことさら先生が責め立てなくても子どもは「しまった」と気づいており、すでに衣服が濡れて不快な思いもし、周りの園児に対して恥ずかしいという顔もしています。せっかくの「しつけ」が、詫びの言葉を引き出そうとする先生の自己満足になっていないか是非みんなで点検して欲しいものです。

トイレが近い2009/03/23

 言葉の意味合いには絶対的なものと相対的なものとがある。「さもしい」や「いやしい」のように最初から否定的な意味合いで使われ常に前者の例に属するものもあるが、形容詞の多くはたいてい後者に属している。つまり一緒に使われる言葉によって意味合いが変わってくる。例えば「○○が近い」と言うときの「近い」はそれを聞いた人が○○をどう評価するかで変わってくる。駅のように多くの人に魅力的と映る施設であれば「近い」はプラスに働き、工場のように騒音や異臭の原因にもなりかねない施設の場合はマイナスに働く可能性が高くなる。この関係は「最近トイレが近い」の場合も同様である。歓迎すべからざる症状としてマイナス側に傾くことになる。
 とは言っても一緒に使われる言葉の影響も一様一律ではない。それぞれの言葉に対して聞き手がどのような印象をいだくかによって変わってくる。例えば「川が近い」や「海が近い」は、川で遊びたいと考える人や海に憧れをもっている人にとっては非常に魅力的な印象がある。しかし洪水や津波を恐れる人にとってはむしろ逆の印象を受け、できれば避けたい場所と感じるだろう。「トイレが近い」も実は個々の患者や家族が感じる近さであり悩みであって、医者の側から見れば患者が訴える症状説明のひとつに過ぎない。本当に近いのか・単に患者がそう感じているだけなのかは診察や検査をしてみなければ判断できない。
 相対的な言葉を使うときは単に「近い」と表現するだけでなく、その中身に応じて例えばトイレの回数や間隔、1回あたりの排出量、食事の量や中身、水分の摂取量などを具体的な数値で説明できるように日頃から心掛けておくと役に立つ。それが販売のための宣伝文句であれば、それに相応しい客観的な数字が明記されているか、客観的な数字の出所・責任の所在が明確にされているか、購入の前に確認してみる必要がある。健康でも買い物でも、こうした相対的な意味合いをもつ言葉に踊らされないことが無用な諍いを避けるコツと言えるだろう。