夏から秋へ--雲(1)2012/09/04




 お天道様はやはり暦を御存じなのであろう。あれほどに暑かった今年の関東も九月の声を聞いた途端激しい雨に見舞われ、すっかり秋めいてしまった。写真はそんな期待と予感を抱かせた一日朝の、北東の空を撮したものである。ちょうど日の出の時刻であった。大きな積雲がむくむくと湧き上がり、朝の光に輝き始めている。

  雲の峰 雷を封じて 聳えけり  漱石

 確かに夏の雲にはこうしたむくつけき姿形をしたものが多い。これが、京の堂上貴族ならずとも不気味に感じる一番の理由だろう。実際この日の午後には、この辺りにも予感と期待に合わせるかのように雨が降り始めた。そして今朝まで、時に雷鳴・時に土砂降りをまじえながら降っては止みを繰り返した。

 次は三日の夕刻に、同じ北東の空をやや遠くから撮したものである。日没にはまだ少し間があったが西の空には雲があり、夕陽を見ることはなかった。二枚の間には二日と半日の時間が流れている。断続的に降り続いた雨の量は百ミリを超えた。雲の様子も光の色も、空気も風も、季節が夏から秋へと確実に変わりつつあることを感じさせる。



◎季節の言葉 筍・竹の子(2)2010/04/18

 グラム○○○円と表示して量り売りする店もあれば、選り取り見取りの均一料金で大量に販売する店もある。どの店にも共通するのは商品名の表示が「筍」ではなく「竹の子」と3文字にしている点である。鶏卵が玉子と書いて販売されるのと似ている。近ごろは客の方でも筍と表示されたのでは読めない人が多いかも知れない。

  筍の秤したゝかに上りけり 田村木国

 筍は竹冠+旬(じゅん)と記すが、旬は他の多くの漢字に先駆けて朝鮮半島経由で日本に伝わった文字のひとつである。勹には「めぐる」の意があり、これと日を組合わせることで甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸の十干を一巡りする意となり、十日を単位とする数え方に用いられる。上旬、中旬、下旬だけでなく、旬報とか旬刊とか旬日などよく目にする漢字だろう。

 ところで筍という漢字の音(漢音)は「じゅん」ではなく「しゅん」である。しかし旬は日本では「じゅん」が先に音として定着したのでこれを「しゅん」と読む人は少なく、もっぱら慣用音の「じゅん」で通っている。


 興味深いのは、この字が十日の意ではなく野菜や果物や魚などの味が最もよくなる時節の意としても使われることと、その際には慣用音の「じゅん」ではなく本来の漢音である「しゅん」が用いられることである。実は「しゅん」という音には春(しゅん)に通じる響きがあり、春先に芽吹いた柔らかくアクの少ない新芽を好んで食した列島の先人たちの生きる知恵がこの文字に目を止めたのではないだろうか。そして地中からほんの少しだけ頭を出した竹の子こそ、この旬のイメージを象徴する食べ物ではないかと思うのだが考えすぎだろうか。(了)

◎季節の言葉 筍・竹の子2010/04/14

 この季節、八百屋の店先に大小様々な筍を見ることが多くなった。都会では九州の福岡県産とか四国の徳島県産など遠隔地で掘り採ったものが各地のJAや卸売市場を経由して並べられるから当然のことながら掘りたての筍ではないだろう。近ごろは魚類だけでなく野菜についても鮮度を売り物にする店が増えて、例えば群馬県の赤城山麓の畑で朝早く日の出前に収穫したレタスをその日の10時には店頭に並べるといった工夫もされている。実は筍もレタス以上に鮮度が要求される食べ物なのである。掘ってすぐなら、嘗めても囓ってもえぐみはほとんど感じない。柔らかい部分ならそのまますぐに食べることもできる。


 都会の喧噪とは無縁の田舎暮らしをしていると、この点だけは徳をしていると感じる。筍はお金を出しても手に入るが多くは貰い物である。竹藪の持ち主は次々に顔を出す筍を放っておくとどうなるかをよく知っているので、せっせと掘り取る。早いうちに始末すれば伸びてしまってから間引くような手間がかからない。問題は、こうして毎日のように収穫する筍をどう処分するかである。勢い親戚、友人、知人と伝(つて)を頼って引取先を見つけることになる。保存が全く効かないわけではないが茹でた筍の足は早い。

 そんなわけで、この季節は毎日のように筍が食卓に並ぶ。煮物、汁の身、天ぷら、筍飯など飽きることがない。飽きる頃には大抵、いただく筍の方が払底している。しかし世の中にはそんな幸運に恵まれた人ばかりではない。次の句はそうした人々に共感をもって迎えられた作品である。(つづく)

  筍を盗む心の起りけり 桂田死酒

◆桜の花の憂鬱2010/04/13

 桜の花は幸せ者である。満開に咲き誇れば「花の雲」と謳われ、風に散れば「花吹雪」と称えられ、「飛花」だ「落花」だと句にも詠まれる。今年の春は体力の衰えた人間にとっても夏野菜の苗にとっても突然にやってくる寒気にさんざん苦しめられる年になった。だが桜の花にとっては希に見る長寿の年であったろう。多くの人が花に浮かれ、永く花見を楽しむことができた。昨日は久しぶりに都内へ出かけ、新宿御苑の桜がまだ咲いているのにも驚かされた。


 かつて日本人は自分の手で道具をつくり自分の手で植物を育て、それを食料にする生活を送っていた。そうした暮らしから遠ざかるようになって半世紀、今や新しい世代だけでなく、そのことを選択した世代でさえ自分たちが口にする食べ物について、それが畑や田圃などの地面で栽培された物か、海産物か、それとも管理された工場内で機械的に生産された物かを一々気にすることなく消費している。気にしなくても金さえ出せば手に入る。マスコミも花見の華やかさは伝えても、マグロの漁獲禁止や規制は記事にしても、その陰で進行する気象の異変が何をもたらすかまでは考えない。人間もまた動物であり、地球生物の一部に過ぎないことを忘れかけている。

  吹きたまり落花のこころ鎮まれり 辻 蕗村

◎季節の言葉 遅日2010/04/11

 俳人はなぜか漢語の使用を躊躇うことがない。よく使う。句を作る人にはそれだけ教養があるということだろうか。今の季節の空を詠むときに使われる養花天などという言葉が理解できるのは、やはり一部の人に限られよう。

 ⇒ http://atsso.asablo.jp/blog/2009/04/01/4218658 春の空・養花天

 その点、遅日は文字こそ易しいが、さて意味となるとどうだろうか。夜の明けるのが日々早くなり、しかも日の暮れるのが日々遅くなって一日をとても長く感じるという意である。和語では遅き日と云い、ほかにも日永(ひなが)、永き日、暮れかぬる、暮れ遅しなどの云い方もされる。こちらの方がよほど分かりやすく、かつ親しみやすい表現だと思う。


◎四月馬鹿・万愚節(2)2010/04/02

 ユーモアに欠け、最近は民放並みのドンチャン騒ぎ番組局に衣替えした感のあるNHKのために参考になりそうな hoax をひとつ紹介しておこう。スウェーデンラジオ Sveriges Radio(略称SR)が1962年に放送したテレビニュースの話である。北欧の国スウェーデンの放送局事情はラジオ放送開始の時期や公共放送中心に始まったことなど日本の場合とよく似ており、英国BBC がモデルと言われる。テレビ放送は日本より僅かに遅れ、1956年に始まった。

 紹介する愉快なスウェーデン流 hoax の放送は、その6年後に行われたものである。当時のスウェーデンにはテレビ放送はまだ1チャンネルしかなく放送は全てモノクロだった。だがSR が流すテレビニュースへの期待は大きく、信頼も高かった。多くの国民が見守る中、April Fool's Day のニュースはテレビをカラーで見るための画期的な新技術が開発されたと真顔で伝えた。そして局の技術者であるステンソン氏を登場させ、視聴者が自分の手で画面の色をカラーに改造するための方法を実演して見せた。ナイロンストッキングを引っ張ってテレビ画面の上に被せるという実に単純なものだったが、何千もの人々が真に受けてこの方法を試すことになった。

 この話が興味深いのは、スウェーデンにおけるカラー放送の開始がそれから8年後の同じ4月1日だったことである。この hoax が4月1日用の単なる思いつきではなく、将来に対する一定の見通しの下に実行されたのではないかとさえ思われてくる。仮に1962年当時は思いつきであったとしても、SR はこの放送を忘れず、8年後にカラー化の責任を果たしたとも云えるだろう。


 昨日紹介した英国BBC の対応も振るっている。日本人には素っ気ないとも、さらに人を食ったとも映るかも知れない。だがその非難は妥当ではない。信じて疑わない相手への配慮と思いやりを忘れてはいないのである。それだけ hoax づくりの歴史が長いということであろう。自分でもスパゲッティの木を育ててみたいと熱心に問い合わせる視聴者に対し、BBC の担当者はそうした熱意に配慮するかのように「トマトソースの缶を開け、そこにスパゲッティの小枝を差しておくとよいでしょう」と伝えている。こうしたユーモアがさりげなく飛び交う大人の国になったら、さぞかし日本もギスギスしなくてすむだろうに。

 最後に漢語表現にも触れておこう。万愚節は中国における言わば漢訳語とも云うべきものである。だが日本語の四月馬鹿とは違って、April Fool's Day からつくられた言葉ではない。もうひとつの呼称である All Fool's Day の直訳とするのが至当である。見出しには掲げなかったが中国には愚人節という言葉もあって、これが四月馬鹿の訳語に相当する。

 なお節は祝日の意である。戦前生まれの日本人にはどこか懐かしく聞こえる天長節は天皇誕生日の旧称だが、かつての中国では天子の誕生日を万寿節と呼んだ。万人がすべからく寿ぐべき日の意である。これに倣って万愚節は万人が一日だけ愚かになる日とでも解したのであろう。裏返せば残り364日は賢く生きろと云うことでもある。四月馬鹿という訳語にはこうした深みの感じられないことが惜しまれる。(了)

  ホルモンの注射よく利く四月馬鹿 北村真生

◎四月馬鹿・万愚節--季節の言葉2010/04/01

 きょう4月1日は英語で April Fool's Day とも呼ばれている。だから四月馬鹿はこの April fool の部分を直訳したものと考えてよい。だが fool に馬鹿という語を宛てるのがよいかどうかは考え物である。英語では用心していても、つい巧みな hoax に乗せられてしまう人々のことを fool と呼んでいる。hoax とは人を担ぐことの意で、冗談交じりの悪戯や悪ふざけを云う。西欧とは文化的な伝統が異なるので微妙なずれがあって日本語に替えにくい言葉のひとつと云えるだろう。起源についても諸説いろいろあって、実際のところはかなり古くから行われていたようだとしか云いようがない。


 感心するのは西欧の人々がこの hoax なるものが大好きで、担がれることを楽しんだり、心待ちにしているように見えることである。本を出す人があるかと思えばデータベースをつくる人もあって、皆それぞれに楽しんでいる。その中の The Top 100 April Fool's Day Hoaxes of All Time(四月馬鹿歴代100位)というサイトから愉快な話を紹介しよう。話のきっかけは hoax だが、その hoax を創作し、これをニュースとして伝えたこと、それによって多くの人々が担がれたことは実話である。

 ⇒ http://www.museumofhoaxes.com/hoax/aprilfool/ 四月馬鹿歴代100位

 第1位は1957年の英国BBC放送のニュースショー番組「パノラマ」である。お堅いことで知られるBBCのニュース番組だが「スイスでは暖冬のお陰で心配されたゾウムシの発生もなく、農家は大豊作となったスパゲッティの収穫に大忙しです」と報じた。そして、枝から垂れ下がる見事なスパゲッティを前にした女性を映し出すことも忘れなかった。多くの視聴者がこの演出に乗せられ、あろうことかBBCへスパゲッティの栽培法について問い合わせる電話までかける騒ぎとなった。BBCがそれらの問い合わせにどう応えたかは上記のサイトでお確かめいただくか、または明日のつづき(第2回)をお読みいただくことにして、ここでは日本における四月馬鹿の hoax 報道を考えてみたい。

 BBCは日本で云えばさしずめNHKというところだろう。そのNHKが正午か夜のニュースで「民主党の小沢幹事長が先ほど緊急記者会見を開き、健康上の理由から政界を引退することにしたと発表しました」と流したら、日本全国どんな騒ぎになるだろうか。きっとこれでは余りに生臭すぎて NHK会長は辞めざるを得なくなろう。

 では、「アメリカ商務省は先ほど緊急記者会見を開き、トヨタのプリウスには何らの欠陥もないことが明らかになったと発表しました」はどうだろう。発表時刻はもちろん東京の株式市場が閉まった後である。しかしそれでもニューヨーク市場との関係があるからこれも物議を醸すだろうし、米国側もきっと面白く思わないだろう。みんなが笑ってすまされる hoax の創作というのは決して容易(たやす)いことではない。この点、次の句は内容こそ個人的なものだが親の複雑で微妙な気持が表現されていて思わず同情してしまう。愛娘から突然告白されて困惑する、明治生まれの作者の顔が浮かぶようだ。(つづく)
  みごもりしことはまことか四月馬鹿 安住敦

◎季節の言葉 春昼2010/03/31

 気温の上昇が右肩上がりとなって摂氏20度を超えるか超えない頃の陽気というのは、おそらく極楽のお釈迦様の住まいに近い温度設定ではないだろうか。このとき大切なのは気温が決して20度を大きく下回らないことである。もちろん暑くなってもいけない。

 長い間寒気を経験した身体にはこれくらいの温度が続くと一気に緊張がほぐれ、何となく気だるい感じもあって時に生死の境も不明なほどに眠り込んでしまう。穏やかで、のんびりとして、しかも適度に明るくて、まさにこれが極楽かと思うほどに心地よい。朝は春眠、昼は春昼、いくら日が伸びてもこれではビジネスはできまい。


 春の昼とはこうした気分にさせてくれる陽気、気候、雰囲気を指す言葉であろう。春昼(しゅんちゅう)はそれを音読みしたものだが、これを用いた句が比較的新しいことから昭和以降に使われ始めた言葉と推測される。

 次の句は、京都に生まれ東京に出て経済界でも活躍した俳人の作品である。パリが好きになれない人にも、パリがもつ独特の気だるさや多くの日本人を惹きつけた不思議な魅力は伝わってこよう。

  春昼やセーヌ河畔の古本屋 景山筍吉

◎季節の言葉 花冷え2010/03/30

 桜が開花する3月の下旬は彼岸を過ぎたとはいえ、陽気は決して温暖一辺倒ではない。急に冷え込んで夜桜見物などとても無理ということが珍しくない。花冷えはそんな時候を巧みに表現した言葉である。

 とはいえ、昨日来の冷え込みは尋常なものではない。箱根には40センチを超える大雪が降った。つい半月前に箱根峠へ行ったとき、道の端や斜面の岩陰に残る雪をみて名残雪だ風流だと喜んだことがまるで嘘のようだ。冬は終っていなかったのである。

 お陰で桜はこの1週間、全く成長を止めてしまったかと思われるほどじっとして動きがない。レンズ越しに覗くと強い雨や寒気に打たれて花びらの端が所々茶色に変じた気の毒なものもあるにはあるが大半はまだ初々しく、陽気の好転を辛抱強く待っている。


 寒冷前線の通過が暦を2ヵ月ほど前に押し戻してしまった。ついでに空気まで冬の清浄なものに入れ替えていった。そのせいで今日は、富士山の頂上近くに落ちる見事な夕日を心ゆくまで眺めることができた。だが指の先も手の甲も冷たい風に晒されて、すっかり悴(かじか)んでしまった。油断すると風邪を引きかねない。花冷えは風流でも年寄りには優しくない。心底報える。

  花冷の道を下水の音くぐる 石井ながし


◎季節の言葉 土筆(2)2010/03/30

 ツクシは古くは「つくづくし」と呼ばれたことが「源氏物語」の「早蕨」冒頭を読むと分かる。宇治にいる中君のもとに山の阿闍梨より、趣のある籠に入った「蕨、つくづくし」が手紙と一緒に届けられたと記されている。つまり平安の昔から春の訪れを告げる山菜として食されていたことが窺われるのである。

 明治23年に発表された幸田露伴の小説「一口剣」にも土筆が登場する。悶々と暮らす刀鍛冶の生活が記述される中に「嚊は昼休みに一寸摘んで置きし土筆煮て、我が手柄を疲れたる夫の膳に薦めんと」と記述されている。ツクシは芽が出て日にちの浅いものを摘み、お浸しや酢漬けにして楽しむ。大量に摘めば露伴の作品のように甘辛に煮付けてもよい。いずれにしても春のほろ苦さが身上であり、そのためには筆の先ともいうべき頭頂部が地中から顔を出したばかりの、まだ胞子をつくらない、うっすらと緑色の感じられるものが最上である。


 次の句は俳諧三神の一人として知られ、歌人としての名も高い江戸初期の俳人松永貞徳の作品である。京に住み、私塾を開いて、後に芭蕉の師となる北村季吟らを育てた。貞徳の俳句を批判的に見る人は駄洒落が過ぎると云う。確かにここに詠まれた「はかま」にも、地上に芽を出したツクシの子が幾重にもかぶった俗に「はかま」と呼ばれる黒い皮の意が含まれていよう。だが、これを挙げたのは批評が目的ではない。江戸時代の京には「土筆売り」がいたことを単に示さんがためである。(了)

  つくつくし売るやはかまの町くだり 松永貞徳