夢と希望と絶望 (2)2012/10/03

 夢は大きいほどいい。どんなに大きくたって構わない。いくら大きくたって誰も困らない。嫌がるのは絶望くらいだ。置き場所も要らないし、家賃もかからない。誰からも文句を言われない。うんと気張って、でっかい夢をもとう。

 すぐに結果が分かるのは夢とは言わない。小さいのは希望と呼ばれる。希望はおやつみたいなものだ。みんなが欲しがる。だからみんなで、仲良く分け合うしかない。小さな希望は欲しい人にあげて、なるべくでっかい夢をもとう。

 夢は宝物だ。君だけが知る宝物だ。値打ちを知るのも、どこにあるか知るのも君だけだ。いつもそっと暖めていよう。心の中で大事に暖めていよう。自分の夢を信じて暖めていよう。そうすれば夢は育つ。いつの間にか膨らんで大きくなる。

 膨らんだ夢は強い。君が信じれば信じるほど強くなる。自分の夢を信じよう。どこまでも信じて大事にしよう。大事にしていれば夢はいつも君を守ってくれる。君をどこまでも守り通してくれる。そばにいて君の強い味方をしてくれる。

 夢は忘れないことが一番だ。自分の夢を信じ、いつまでもどこまでも大事にしよう。大事にしていれば、きっといいことがある。どんなに辛くても覚えていよう。悲しいときでも思い出せるようにしよう。楽しいときも忘れないようにしよう。夢はきっと叶うものだ。(つづく)

                   どれも似てるけど、みんな違う…

夢と希望と絶望2012/10/02

 夢と希望は同じか。似てはいるが、どこか違う気がする。どちらもまだ実現していない。夢や希望が叶うのか、まだ先のことだから分からない。もうすぐ実現するかも知れないし、叶う気もするが今この瞬間は、そこまで分からない。これが夢と希望の共通点だ。

 違う点は何か。それは夢の方が実現に遙かに時間がかかることだ。希望の方は中身により他の人との調整が必要になる。夢なら他の人と取り合いをすることはないが、希望の場合は他の人に取られたり譲り合う場面が出てくる。希望の方がそれだけ日常に近いところにある。夢の方は何かとてつもなく大きなものに使われる。

 夢は誰がもっても構わない。小さな子でも中学生でも大学生でも構わない。思い立ったらいつでも気軽にもつことができる。どんなに大きな夢でも税金のかかることがない。申告も要らない。誰とも取り合いにならないし、誰にも迷惑をかけることがない。こんな都合のよい、うまい話が夢にはある。

 それなのに夢を知らない若者が増えている。今、夢をもたない若者が増えている。お金がなくても、仕事がなくても、学校が面白くなくても、テストの点が悪くても、友達がいなくても、そんなことには全く関係なく誰でも自由にもつことができるのに、夢の力を知らない若者が増えている。

 夢には希望の何十倍、何百倍、何千倍もの力がある。夢があれば明日も生きられる。今日と明日をつなぎ、明日と明後日をつないでくれる。夢があれば絶望は寄りつかない。絶望は夢を信じる人には近づかない。

 絶望にとって夢ほどイヤなものはない。夢ほど嫌いなものはない。だから夢をもつ人には決して寄りつかない。夢を信じる人には近づこうともしない。近ごろの絶望は特に忙しいようだ。あっちからもこっちからも、夢のない人から「来てくれ、来てくれ」とせがまれて駆けずり回っている。

 昔は物好きな絶望もいた。ひとつひとつ夢の中身を詮索して楽しんでいた。秋田のナマハゲみたいに「こいつの夢は好い加減だ」「自分の夢を信じていないな」なんて言いながら、壊して回る奴がいた。今は夢をもたない人が増えすぎて、そこを回るだけでも手が足りない。絶望は多忙に追われて皆あっぷあっぷしている。(つづく)

           今年は夏が暑かったせいか曼珠沙華の開花が遅れている…

◆足利事件と飯塚事件の差(3)2010/03/27

 最近、政治の世界では説明責任と云うことが喧(やかま)しく叫ばれるようになった。鳩山総理も民主党の小沢幹事長も説明責任を果たしていない、そのことが内閣支持率や民主党支持率急落の最大の原因だとマスコミはしきりに報道している。では今回の冤罪について日本の裁判所や司法関係者は国民に納得のゆく説明をしているだろうか。

 宇都宮地裁の佐藤裁判長は判決で菅谷さんが無実であると言い切った。その根拠についても明らかにした。管家さんを犯人扱いし、精神的に追いつめ、自白を強要し、挙げ句の果てに17年半に及ぶ長い刑務所暮らしを強いることになった有罪の決めてであるDNA型の鑑定が誤りだったと断じた。


 菅谷さんについては、ここに至るまでに地裁、高裁、最高裁と3回もその道の専門家が血税を使った審理を行っている。だが誰一人として、菅谷さんの罪が濡れ衣であることを見抜けなかった。三審制は機能しなかった。再審請求審の棄却も含めれば4回も節穴裁判が行われていたことになる。これが裁判のあるべき姿でないことは誰の目にも明らかだろう。日本の裁判官も司法関係者も、これを不名誉なことと思わないのだろうか。不思議でならない。どう見ても日本の刑事裁判は「人を見る目」を排除した、それとは相容れない恐ろしく非人間的な基準や常識によって行われている。

 ⇒ http://atsso.asablo.jp/blog/2009/07/01/4404461 人を見る目

 日本の裁判所や裁判官に「人を見る目」やその持ち主となることを期待するのはどうも無理そうである。司法試験に合格するような人には、合格しても検察官や裁判官を志すような人にはそんな人間らしい目の持ち主は期待できないと云うことだろう。もしそんなことはない、それくらいの目は持っていると主張する人がいれば、裁判所がこれまで再審の訴えに対しどんな対応をしてきたか、なぜ「真実の声に耳を傾けられ」なかったのか、傾けようとしなかったのか、その原因は何だったのか、どこに耳を貸さない・傾けない本当の原因があったのかをつぶさに検証し、その結果を国民に向かって堂々と公表して欲しいものだ。

 しかし新聞などで法曹関係者のコメントを読むと、裁判所にこうした期待を抱くのは無理だと思わざるを得ない。となればここはマスコミに期待するしかない。そもそもマスコミにも冤罪を許した大きな責任がある。マスコミは今こそ自発的かつ積極的に足利事件を始めとする戦後の冤罪事件の報道を洗い直し、自分たちがそれぞれの事件にどう対応したか、事件や裁判とどう向き合ってきたか、犯人や被告とされた人たちと面会しその話に一度でも耳を傾けたことがあるかをまず検証してみる必要がある。そうした自己点検が果たして行われるかどうか、どのくらいの規模になるのかを見守りたい。

 もしこうした努力を怠ったまま、相変わらず「警察への取材で分かった」とか「関係者への取材で分かった」などと記者発表や意図的に流される情報ばかりに頼ってこれまでと同様の安直な報道姿勢を続けるとしたら日本のマスメディアは早晩、国民の信頼も支持も失い消滅することになるだろう。今こそ警察官にも検察官にも裁判官にも期待できないが、しかしジャーナリストには「人を見る目」があることを見せて欲しい。それを検証記事で証明して欲しい。(つづく)

◆足利事件と飯塚事件の差(2)2010/03/26

 栃木県足利市で20年前の1990年に幼い女児が殺害された事件の犯人として逮捕され、2000年に無期懲役が確定した管家利和さんの再審(やり直し裁判)で26日、宇都宮地方裁判所の佐藤正信裁判長は菅谷さんに対し明確に無罪とする判決を言い渡した。公判の状況から無罪判決の出ることは十分予測されていたが、無罪の根拠として捜査段階におけるDNA鑑定の証拠能力、菅谷さんの自白の任意性や信用性、あるいは録音テープが証拠採用された起訴後の検察官の取り調べについてどこまで踏み込んだ判決が下されるかに注目が集まっていた。また無期懲役確定までの関係者として唯一謝罪のなかった裁判官が公判廷で菅谷さんに対し、どのような対応を見せるかも注目されていた。


 判決の中で佐藤裁判長は捜査段階におけるDNA鑑定に証拠能力がないこと、自白は虚偽で信用性のないことを挙げ、菅谷さんが「犯人でないことは誰の目にも明らかになった」と述べた。また起訴後に行われた検察官による別事件の取り調べについて黙秘権の告知をしていないこと、弁護士にも事前に連絡をしていないことを挙げ、取り調べに違法性の認められる点も指摘した。

 従来の再審無罪判決では速やかな無罪の言い渡しこそが被告の利益であり名誉回復につながるとする検察側の主張に配慮する形で、綿密な証拠調べによる有罪確定判決の問題点の洗い出しを避ける嫌いがあった。だが今回の判決では「無罪を言い渡すには誤った証拠を取り除く必要がある」とする弁護側の主張を容れ、DNA型の再鑑定に当たった鑑定人の証人尋問、取り調べの様子を録音したテープの再生、取り調べに当たった検事の証人尋問などを行っている。今後の再審裁判のあり方を考える上でも大きな前進と云えるだろう。

 加えて、判決の言い渡し後もうひとつ特筆すべき出来事があった。佐藤裁判長が二人の陪席裁判官とともに立ち上がり、「菅谷さんの真実の声に十分に耳を傾けられず、17年半の長きにわたり自由を奪うことになりました。誠に申し訳なく思います」と謝罪したのである。これこそ菅谷さんの深く傷つけられた心を開き、悪夢のような忌まわしい獄中生活を払拭して新たな再出発の後押しをするに相応しい再審裁判官としての対応と云えよう。

 本来なら最高裁長官が全裁判官を代表して詫びるべきところである。こんなところにも人間としての値打ちが現れている。嫌なことばかり続く世の中だが、少し救われた気がする。判決後の「嬉しい限りです。予想もしていなかった」と語る菅谷さんの笑顔が何より佐藤裁判長の判断の適切さを表している。このことを真に理解できる裁判官がこの国には何人いるだろうか。誰か知っていたら答えて欲しい。(つづく)

 ⇒ http://atsso.asablo.jp/blog/2010/01/23/4833688 足利事件と飯塚事件の差

◆リンゴの話2010/02/20

 先月、「季節外れ」の話をしたばかりである。今頃リンゴの話を持ちだすのは典型的な季節外れと言われそうな気もする。だが青森県りんご果樹課の資料を見ると、今や青森りんごの出荷は一年を通して行われている。しかも1~3月は出荷量の最も多くなる時期である。1月2月3月と尻上がりに増えている。(2006年産実績)

 ⇒http://atsso.asablo.jp/blog/2010/01/26/4839152 季節外れ
 ⇒http://atsso.asablo.jp/blog/2010/01/27/4839991 季節外れ 2
 ⇒http://atsso.asablo.jp/blog/2010/01/28/4841310 季節外れ 3
 ⇒http://atsso.asablo.jp/blog/2010/01/30/4843865 季節外れ 4

 たかがリンゴと思ってはいけない。先月も書いたが、ことリンゴに関する限り食卓における季節感はもはや過去のものとなりつつある。花はともかく季題としてのリンゴの果実は、よほどの工夫や精進がないと佳句には結びつかない。難しい時代を迎えている。


 されどリンゴはりんごであり、林檎である。第一に、その名称からして謎だらけではないか。現代中国では apple は林檎とは呼ばない。どうも苹果 (ping guo) と呼ばれるようだ。耳で聞けば似ている気もするが、漢字・林檎の出自はどうなっているのか気になる。第二に、リンゴが一年中口に入るようになったきっかけは保存技術の進化だろう。さすれば、そこから何か学ぶことがあるはずではないか。

 第三に、昨今の学校教育は経済や金融など money に関わることも積極的に子ども達に教えているとか。それならばリンゴの流通は格好の教育材料となるはずだ。収穫されたリンゴがどのような経路をたどって食卓まで届くのか、知ることも悪くない。何よりリンゴは日本人にとって大変馴染みの深い果物である。商売や経営の基本を学んだり、食の安全について考えたりする上で身近な素材となるだろう。ということで、明日からリンゴについて考えてみることにした。(つづく)

○満月の無い月2010/02/09

 満月の月は moon の意、無い月とはその満月をただの一度も見ることのない month のこと。今月がちょうどのその month にあたる。先月は元旦と30日が満月だった。今月は一年で最も日数が短い month である。28日しかない。次の満月は2月を通り越して3月の1日まで行ってしまう。お陰で3月はまた30日に、もう一度満月を拝める。などと、moon の満ち欠けを気にする生活も悪くないだろう。

 今朝の月の出は3時12分(東京地方)だった。写真は日の出(6時35分)の少し前に撮影したものである。正午の月齢は24.8、5日後の今月14日(日)に新月を迎える。


 昨年末から時折、月齢や太陰暦のことを書いているが、そのうち日本にも日本語に横文字を交えて今回の冒頭のような妙な説明をする時代がやって来るのだろうか。たまに国会の与野党論戦などをラジオで聴くと、耳慣れないカタカナ言葉が飛び交っている。新聞や放送でも、素人には意味の分からない各種のカタカナ言葉が頻繁に使われ出している。後期高齢者というと年寄りいじめの象徴のように受け取られるが、シルバーとかケアマネージャーとかジェイエーを年寄り泣かせの言葉だと非難する人はいない。それでいて日本語を大事にしろとか、漢字が読めないとか書けないとか活字離れが進んだとか、事あるごとに騒いでいる。不思議な国だ。

■初心忘るなかれ--新釈国語2010/01/31

 初心には二つの意味があります。一つは最初に抱いたこころざし、例えば人生や学問の目標の意です。初志とも呼ばれます。忘(わす)るはラ行四段活用の動詞です。現代風に言えば忘れるです。最初の目標を大切に胸の奥に留めて終生忘れることなく仕事に励みなさい、学問に勤(いそ)しみなさい、という意味です。


 もうひとつは芸の道に入った頃の謙虚で緊張した気持ちをいつまでも失うなの意です。これは室町時代前期の能役者で能作者としても知られる世阿弥が遺した「花鏡」に示されている「初心不可忘」の意に代表される言葉です。世阿弥は40歳を過ぎた頃から、それまでに悟り得た芸の知恵を伝えようと少しずつ、その極意とも言うべき心構えなどを書き継いでゆきました。

 ⇒http://www2.ntj.jac.go.jp/dglib/edc9/zeami/gyouseki/kakyou02_1.html 世阿弥の業績(日本芸術文化振興協会)


 世阿弥の言葉は読み下しにすれば「初心忘るべからず」です。人口に膾炙するのもこの「忘るべからず」の方でしょうが現行一般の意味としては逆で、むしろ目標の方を指していると感じます。文字に書けばどちらも同じ「初心」ですから差が分かりません。言葉を使う人に、これが何を意味するのか究めようとする気持がなければ表面的な理解だけに終ってしまうでしょう。

 学問や芸を学び始めた頃の目標と気持、初めて仕事に就いたときの気持や目標、そうしたものをいつまでも大事にできる人生を送りたかったと、晩年になって悔やむ老人は少なくありません。若い諸君にはせめて義務教育終了までに、初心には二つの意味があることを知って欲しいと願っています。


 2010年も今日で12分の1が終ることになります。月日の経つのは誠に早いものです。このブログが始まってちょうど丸1年経ちました。初心を忘れないためにも時々は初日の記事を振り返ってみる必要があります。

 ⇒http://atsso.asablo.jp/blog/2009/01/31/4093742 語義と研究者

 人生には過去もあれば未来もあります。今さら振り返っても仕方ないと思うのは過ぎ去った昔のことであって、初心をこれと同列に扱ってはなりません。初心を抱いたときは過去であっても、初心それ自体は現在とも未来とも切り離せない終生の目標です、熱い思い・謙虚な気持のはずです。初心を思い出すことは気持の若返りにも通じます。常に心の内にあって脈々と活動を続ける原動力にして欲しいものです。

○白梅日記142010/01/18

 今日は日中よく晴れて、午後には久しぶりに弱い南風も吹きました。明後日の大寒を前に寒の緩みを感じる一日でした。また私たちの枝にもお尻のむずむず、身体浮き浮きの気分が戻ってきました。写真にもその様子が映っているのではないかと思います。この日記が後2日で終るかと思うと残念です。


 それからメジロ君が来て「お寺の梅はやはり冬至梅というそうだよ」と教えてくれました。今年は例年よりだいぶ遅れているそうです。メジロ君には、お寺の白梅の様子を写真に収めて届けて欲しいと頼みました。明日にでもお目にかけられると思います。


 しばらく寒かったお陰で、近くの枝の例の姉花はまだピンピンしています。ご当人は至って若いつもりのようですから、うっかり年増なんて言葉が耳にでも入ったら一悶着起こすに決まっています。私たちにとってはこれからが一番大事なときです。口は謹んで咲くことだけに専念するつもりです。

  早梅や受験日ちかき子の寡黙 中田樵杖

◆ドッドさんの絵本(2)2009/11/24

 ドッドさんの絵本に登場する動物たちはジャケットを着ていないし、ズボンも靴も履いていない。言葉をしゃべらないし、人間のように二足歩行することもない。みな普通の動物と同じように四つ足で動き回っている。しかし動物たちには表情があり、意思の疎通があり、絵本にはストーリーがある。

 不思議だが、ちゃんと物語になっていて、次はどうなるだろうと読者をワクワクさせたり、ハラハラ・ドキドキさせてくれる。これが動物の絵本といえば擬人化が当たり前の日本の絵本とは一番に違う点である。擬人化しなくても、ドッドさんは擬人化した以上に人間くさい動物たちを登場させることに成功している。

 マクレリーは、そんな犬たちのお話の主人公である。もしゃもしゃした黒い毛で全身がおおわれた小型犬で、種類はテリアと説明されている。もちろん飼い犬だから首輪をしているし、首輪には赤い札も付いている。おちびさんだが、これがどうしてなかなかの人気者である。仲間内でも、町の人にも何かと気になる存在なのだろう。毎回あちこちで小さな騒動を巻き起こして読者を楽しませてくれる。(つづく)

◆ドッドさんの絵本2009/11/22

 もうすぐまた師走がやって来る。日本では厳しい冬の季節を迎えるが、南半球にあるニュージーランドはこれからが夏本番である。茶目っ気たっぷりの愉快な犬6匹が繰り広げる楽しい絵本の作者ドッドさんはここで生まれ、今も北島のタウランガに暮らしている。小さい頃から絵を描くのが大好きで美術学校に学び、クイーンマーガレット・カレッジで美術の先生をしていた。そんな彼女が絵本の制作を手がけるようになったのは、猫の絵本に入れる挿絵を頼まれたことがきっかけだった。

 掲載したのは1983年に発表した第1作目 Hairy Maclary from Donaldson's Dairy (1983) のお話の「転」にあたる箇所の挿絵(一部分)である。この場面は登場人物(?)となる6匹が勢揃いし意気揚々とお散歩を続けるうちに、とうとう町外れまで来てしまったという箇所にあたる。どの挿絵にもドッドさんらしい細やかな仕掛けがあって幼い子どもでも十分楽しめるようになっている。しかもこのページには少し大きな子どものために次の場面を予測させるようなちょっとワクワクする工夫も施されていて、読んでもらうとき子ども達が息を潜めて見守る箇所でもある。(残念ながらそれらの工夫や仕掛けは掲載した部分の枠外にある)

 この作品はいきなり大ヒットし、ドッドさんは大学を辞めて絵本の制作に専念することになった。といっても次から次へと描きまくる流行作家ではなく常に丹念な仕事を心がけ、発表は律儀に一年一作を守っている。そしてどの作品も永く英語圏の子ども達に読み継がれるロングセラー絵本となった。主人公はマクレリー、画面の右端にお尻だけ見える小さな黒い犬の名前である。(つづく)

 *邦題:もしゃもしゃマクレリーおさんぽにゆく(あづき、2004.4)