■ネガティブキャンペーン--新釈カタカナ語2009/09/07

 キャンペーンとは一般大衆に対しキャンペーンを仕掛ける側の都合・期待に添った行動を取るよう意図的かつ組織的に働きかけること。働きかける際の目的により、一般大衆は消費者、購読者、視聴者、有権者などと呼ばれることも多い。ネガティブは働きかけの姿勢や手法の傾向や性格などを表す言葉であり、後ろ向きで否定的な意味合いの強いことを示している。つまり相手が消費者であれば自社の商品の利点や長所を宣伝することより、競合する他社商品の欠点や短所を意図的計画的に吹聴して、結果として自社商品の販売を有利に導こうとするような性格をもった販売宣伝活動を指す。
 かつて自家用車の普及が本格化した時期に「となりのクルマが小さく見えまーす」というテレビコマーシャルや新聞広告を制作して販売合戦を展開した自動車会社があった。周囲より少しでも上級クラスに見えるクルマを所有したいと願う消費者の心理を衝くものとして話題を呼んだが、公正取引委員会から不正競争防止法に触れると注意され放送・掲載の中止に追い込まれた。選挙では対立候補にまつわる様々なスキャンダルを噂として巧妙に流したり、街頭演説で計画的に誹謗中傷や激しい批判を繰り返すことによって相手候補を貶(おとし)めようとする手法などが知られている。
 しかしこうした手法の裏側には消費者心理も有権者心理も常に自分たちの都合や目的に合わせて自由に操ることができると考える思い上がった気持があったり、真正面から勝負したのではとても勝ち目はないと考える敗者の意識が見え隠れするため、消費者や有権者にこうした気持を見透かされるとキャンペーンは失敗する。2009年夏の総選挙で与党側が展開した民主党に対する政策批判一辺倒の戦術や同党幹部に対する個人攻撃キャンペーンがその典型である。

○写真は昨日掲載のスイフヨウを裏側から撮影したもの(午前11時13分撮影)。

■解党的出直し--新釈国語2009/09/06

 選挙で大敗北を喫した政党が組織としての生き残りをかけて一からやりなおすつもりで再出発を図ること。厳密には党員が従来のしがらみを捨て去って、みずからの政治理念・政治的主張について披瀝しあい、引き続き同じ党に集うことの意義を確認するとともに、採るべき政策の是非や党運営のあり方などについて一から検討しなおし、選挙敗北の総括も遺漏なく行って、それらの内容を党外にも包み隠さず全て公表した上で党首を選ぶなど、組織としての陣容を整えなおして再び政党活動を始めることをいう。組織としての連続性が維持されるため「解党して出直す」とは呼ばないものの、見せかけだけの解党風出直しとは雲泥の差がある。こうした場面に遭遇したとき有権者はマスコミ報道などに踊らされることなく、みずからの目で慎重に政党出直しの実相を見極める必要がある。

■マニフェスト(追補)2009/08/10

 新釈カタカナ語の6月29日の記事「マニフェスト」について、新たな解説を付け加えた。補ったのは政党におけるマニフェストの内容に関する部分で、政権与党のマニフェストと野党のそれとの違いを明確にする狙いがある。詳細は下記を参照されたい。

 ⇒http://atsso.asablo.jp/blog/2009/06/29/ マニフェスト

■オウンゴール--新釈カタカナ語2009/08/08

 主にサッカー(フットボール)において、みずからの行為によって味方のゴールにボールを入れ結果として相手側に得点を許すこと。サッカーは相手側のゴールにボールを蹴り込むことで得点になる球技だが、これを相手側ではなく誤って味方のゴールに入れてしまうことをいう。英語の own goal が自殺点と訳されるのはこのためである。しかし故意に行われるプレーではなく、相手の攻撃を防ごうとして敵味方がもつれ合う際に偶発的に発生するのが常である。バスケットボールやアイスホッケーなどの球技でも同様のことが起こりうる。転じて近年、味方の敗北や自身の辞任・引退に繋がるような重大な失敗や失態をみずからの言動によってわざわざ引き起こすことにも用いられるようになった。
 今のところ球技以外での言葉の使い手は首相官邸とその周辺に限られるが、何かと目立ちたがりで新しもの好きな政界やマスメディアのことだから、いつ全体に伝染・普及しないとも限らない。その際によくよく注意しなければならないのは、サッカーなど球技の場合はゴール前の激しい攻防の結果として全く偶然に起こるものであるのに対し、政治や報道の世界では自覚さえあれば十分に防ぎうる行為だということだ。この本質的な部分での差を忘れて単に分かりやすさや話題性など目先の事柄だけに注目していると、いずれ痛い目に遭うのは有権者や視聴者である。

■量刑--新釈国語2009/08/06

 裁判所が、有罪と判断した被告人に対し、刑法に定められた個々の刑(法定刑)に、再犯か未遂かといった被告人の事情を考慮した加重・減免がある場合はそれを加えて重くしたり逆に減らしたり免じたりして、また犯罪の情状に酌量すべきものがあるときはその刑を減らしたり軽くして、法律上も裁判手続き上も妥当と見なせる範囲の刑(処断刑)を決め、さらに検察官の意見(求刑)・被害者参加人の意見・被告人の態度なども考慮して、最終的に判決として被告人に言い渡す刑(宣告刑)を決定すること。刑の量定とも呼ばれる。
 法定刑や処断刑には法律が定める明確な基準が存在するのに対し、宣告刑には多くの判例が存在しても実際には事件ごとに細部の事情までが一致するわけではないので、その最終的な判断は裁判官と裁判員の心証に委ねられることになる。但し裁判用語としての心証とは「心証を害する」といった表現に見られるような一般的な印象ではなく、裁判官や裁判員が法廷での審理を通じて弁論や証拠から得た事実の存否(有無)に関する確信や認識の度合いの意である。なお検察官も被告人も、量刑を不当な内容と判断したときは刑事訴訟法の規定によって、上級裁判所に新たな裁判を求めることができる。

■瀬踏み--新釈国語2009/08/05

 新しい事柄に着手する前に、ちょっとだけ試しに行って状況などを確かめ今後の戦略・戦術の参考にすること。瀬は川が浅く見えるところ、踏むは実際にそこへ行って何かをすることが原義である。元は川の浅く見える場所に実際に足を踏み入れて、そのまま川を渡っても問題が起きないか確かめることを指したが、人間が歩いて川を渡る機会が希となった現在では多く瀬を新しい事柄に見立てて、それへの対処法を探るために試行したり模索することを表す言葉となっている。
 瀬踏みの様子をつぶさに観察すれば、その人が新しい事柄をどう感じているか、どの程度に恐れているかなどを知ることも可能である。政権交代がささやかれる日本の政治状況に即していえば、例えば財界が今後の政治とどう向き合うかといった問題はまさに瀬踏みの最中にあると言えるだろう。

■殺意--新釈国語2009/08/04

 人を殺そうとする意思をいう。刑事裁判ではその有無および強弱が争われ、これがなかったと認められればたとえ相手が死亡していても殺人罪は適用されない。また殺意があったことを否定できなくても、その意思が極めて弱いことを立証できれば重い刑に処せられる可能性は低くなる。しかし、この定義の範囲を実際に決定するのは個々の裁判において裁判官や裁判員が得た心証であるため「死ぬかも知れないとは思っていたが、死んで欲しいと(そこまで積極的に)は思わなかった」という被告の場合、これを殺意の定義に含めるかどうかは、ここに記された文字面だけでは軽々に判断できないものがある。

■見切り発車--新釈国語2009/08/03

 ある施策についての議論や検討が未だ十分とは言えない段階・状態にある中で結論だけを急ぎ、実行に踏み切ること。元は終戦後の混乱期や高度成長期の通勤時によく見られた風景で、一部の乗客を駅のホームに残したまま満員の列車や電車を発車させることをいった。見切るの原義は全体をくまなく見ることだが転じて、全体をくまなく見たかどうかを問う前に見込みがないと諦めること、全体をよく見ることなく形勢の判断をすること、特に形勢不利の判断を下すことを指すようになった。まず結論ありきのお役所仕事や官庁の各種審議会などによく見られる現象・手法である。なおデフレ傾向が続く中で、小売り店が形勢不利の判断を早めてリスクの軽減に努めようとする販売手法は見切り販売と呼ばれ、見切り品はそうした際に価格引き下げの対象となる商品をいう。

 ⇒http://atsso.asablo.jp/blog/2009/07/19/ 見切り販売

■屁理屈--新釈国語2009/07/31

 合理性も道理も大義も何もないのに、無理に筋道を通そうとしてつくりあげた理屈。
屁(へ)は平安時代に成立した「和名抄」にも見える言葉だが、本来の人体排出ガス以外の意に用いられるときは価値のないもの、とるに足らぬものを象徴する役割を担うことがほとんどである。しかし例外もあって、ここでは接頭語の非(ひ)と同じ役割を与えられ、それに当たらない、それ以外などの意を表している。ヘとヒの音が近いことから喧嘩の口上や口上茶番の際の洒落言葉として始まったものではないかと推測される。
 現在では政治家がマスメディアによる報道を意識して他党などを攻撃する際の、有力な手法のひとつに数えることができる。また官僚が非力な政府や議会の足下を見透かして自分たちに不都合な法案の作成に抵抗したり、それらの法案を骨抜きにする際の常套手段としても広く使われている。

■泥縄式--新釈国語2009/07/29

 普段の準備を怠り、いざというときになって大慌てで準備を始めることを喩えていう。「泥棒を捕らえて縄を綯(な)う」の略といわれ、単に泥縄ともいう。泥棒を見つけて捕まえても、いつまでもその身体を押さえつけたり腕をねじ上げているわけにはいかない。縄で縛り上げて役人に引き渡すのが普通だ。ところが肝心の縄がない。泥棒が入るなどとは夢にも思わないから、そんな準備はしていない。そこで慌てて縄を綯い始めるのである。
 衆議院の解散は議員にとっては首切り宣告にも等しく即失職を意味する。普段、有権者に向き合うことなく永田町界隈で暮らし、料亭などに足を延ばすだけの議員は解散権をちらつかせる総理大臣が死ぬほど怖かった。昨今はそんな不安がなくなった代わりに、いくら縄を綯って準備をしていても泥棒の方で怖がって、さっぱり来てくれない。泥棒も予告をして、すったもんだした挙げ句でないとなかなか顔も出せない時代になった。だからこの喩えは第45回衆議院議員選挙には使えない。いま当てはまりそうなのは「アニメの殿堂」騒ぎで忙しい文化庁くらいだろう。