◎言葉の詮索 縁結び(3)2010/04/08

 縁結びは仏教の言葉である結縁(けちえん)を訓読みにした「縁を結ぶ」から生まれた言葉です。仏教では仏の道に縁をつけることを結縁と云います。仏の慈悲にすがらずとも生きてゆけると自信を持っていた人、自分のしたいように好き勝手に生きてきた人がある日ふと人生の無常を感じるようになります。生あるものは必ず滅ぶのだと知るようになります。

 すると急に来世のことが気になります。それまで全く無縁だった仏法を意識したり、仏道との繋がりを気にかけるようになります。いずれ生の尽きる日の来ることを知り、何人にもそれが避けられない運命であることを知って、成仏を願うようになります。苦しむことも生死の境目を知ることなく、静かにあの世へ旅立ちたいものだと考えるようになります。そして、あの世を支配する仏の知遇を得ておく必要に気づかされます。これが仏教における結縁、すなわち縁を結ぶの意味です。


 これに対し日本列島に暮らす先人たちが考えたのは今を生きる人々との強いきずなでした。あの世には地獄もあれば極楽もあるだろう。だが、そこに暮らすのはいずれも現世から移り住んだ人々のはずである。ならば、まず現世での縁こそ大事にすべきではないか。現世で互いの繋がりを大事にし、諍(いさか)いを避け、平穏無事に暮らすならば、必ずや来世でもまたそのように他の人々と暮らせるであろう。素朴に、そう考えたのです。これが先人たちの考えた広い意味での縁ということの中身です。

 江戸時代の初期17世紀半ばに松江重頼が編纂した「毛吹草(けふきぐさ)」は貞門俳諧の作法書として広く流布しました。その中に「縁に連(つら)るれば唐の物を食ふ」という表現があります。人間は縁さえあれば全く食べたことのない異国の物でも口に入れるものだと解釈される言葉です。当時の人々が縁というものをいかに重んじていたかの例と云えるでしょう。

 注意したいのはこの場合の縁が決して特別な関係を指す言葉ではないということです。異国である唐から来た人を見たことがある、その人がどんな姿をしているか知っているといった程度のことでしょう。隣国といえども海を越えての自由な往来は叶わなかった時代の話です。そんな程度のことでも人々はこれを天から与えられた縁として大事に考えたのです。袖振り合うも多生の縁とはまさに人々のこうした気持を代表する言葉と云えます。(つづく)


◎言葉の詮索 縁結び(2)2010/04/07

 漢字の縁は漢音では「えん」と読みますが、訓読みでは「ふち」とか「へり」とするのが一般的です。どちらも昨日説明した端っこの意です。日本語ではこのように同一またはよく似た内容の事柄に対して幾つもの言い方や表現のあることが少なくありません。その場合、それぞれの意味に対応する漢字のあるときは使い分けも可能ですが、ないときは同じ漢字を宛てて読み分けることになります。

 縁にはほかにも「えにし」「ゆかり」「よすが」といった訓も使われています。このうち「えにし」は漢語の縁に副助詞の「し」が付いたものだと云われています。これは「いつしか」「おりしも」などというときの「し」と同じ働きをする助詞で、副詞に似た機能をもっています。「えんし」では言いにくいので「えにし」に変わったのでしょう。意味は縁結びの縁と同様に男女間の繋がりを表しています。

 これに対し「ゆかり」は生地、学校、勤務先など何らかの繋がりや関係があることを示す言葉です。親戚関係についても用いられます。また「よすが」は古くは「よすか」と濁らない言い方が一般的でした。文字にするときは「寄す処」と記します。拠り所や頼りの意ですが、漢字の縁を宛てるのはそれが人の場合です。特に夫、妻、子など互いの関係が深く、従って頼りにもなる人を指しています。単なる拠り所の意味で使うときは縁は使いません。


 縁を結ぶということは決して一時的な男女の関係を築くことではありません。人類にとっては社会の永続性を確実にするために、その源をつくることを意味する言葉です。また一人ひとりの人間として見た場合は、生涯をともに手を取り合って一緒に生きてゆくための相手を決めることであり、さらに末の頼みをつくるための伴侶を選ぶことでもあるのです。(つづく)

◎言葉の詮索 縁結び(1)2010/04/06

 縁という漢字は正字では糸偏に彖(たん)と書きます。糸偏は織物を表し、彖には端(はし)の意があります。つまり布の端っこが原義です。この端をもって他の布の端と結んだり端と端を縫い合わせれば、より長い布・大きな布とすることができます。一枚の布だけでは端っこに過ぎなくても他の布と繋ぎ合わせるときには、この端っこが重要な役目をするわけです。

 ところで人間(ヒト)は群れて暮らす動物です。年齢も身体の大きさも力の強さも好みも違う老若男女が社会という群れをつくって生活しています。群れの中で生まれ、寿命が尽きると死に、残った者がその亡骸を弔います。子どもが生まれるためには成熟した若い男女が他の哺乳類と同様に交わり、女性は母となって新しい命を誕生させることが必要です。


 一方、男性もニホンザルのような単なるオスとしての役割だけを負っていてはヒトの社会は成立ちません。伴侶となった女性を助け、住まいや食料を確保し、子どもを安全かつ確実に成人させる重要な役目を負っています。次の世代の担い手が育つまで常に見守り続ける必要があるのです。

 これが父性と呼ばれるものです。従来のサル社会には見られなかった父性の誕生・獲得がサルの群れに継続的な夫婦という結合を生み出し、結合の結果でもある子どもを含めた家族がヒト社会とサル社会とを分ける最も重要な差となったのです。若い皆さんには、この点をしっかりと自覚して伴侶探しに望んで欲しいと思います。(つづく)

◎季節の言葉 土筆(1)2010/03/29

 スギナ(杉菜)は地中に張り巡らしたネットワークのような根茎を持っていて冬の間はどこにあるのか全く分からないが、春から秋にかけては緑色の栄養茎をあちこちで地上に伸ばして光合成を行い、せっせと地下茎に養分を溜め込む。この緑色をした栄養茎には杉を思わせる小さな枝が輪になって付き、これが杉菜と呼ばれる因になっている。


 スギナは地下茎でも殖えるが、この方法だけでは繁殖の範囲が限られる。そこでドクダミ同様に繁茂するための方法として、花を付けないスギナは胞子を飛ばす方法を採用した。ツクシは、そのためにスギナの根茎から地上に送られた兵士のようなもので胞子茎と呼ばれる。これがスギナに先立って顔を出し、胞子をつくる役目をする。おかげでスギナは日当たりのよい野にも山にも種を殖やし、火事があっても絶えることなく、赤土だろうが黒土だろうが砂地だろうが至る所で繁茂している。だから庭に入り込まれると退治に苦労する。

 興味深いのは列島の先人たちがスギナとツクシを区別したことである。例えば英語圏ではどちらも horsetail(馬の尻尾) が一般的である。学名も Equisetum(エクィシータム)一本で特段の区別はないはずだ。漢方では杉菜は問荊と呼んで利尿剤の成分に用いられる。だがツクシの利用については聞いたことがない。これを食料の確保に苦しんだ先人たちの生きるための知恵と考えるか、季節の訪れを楽しむ風流人のなせる業と考えるか。デパートの食品売り場で山菜を買い求めたり、割烹や料亭が創る季節の味しか知らない人々には少々無理な質問かも知れぬ。(つづく)

 土筆めし山妻をして炊かしむる 富安風生

◆青鷺(1)2010/03/23

 先日、佐渡トキ保護センターの野生復帰ステーションにある順化ケージと呼ばれる訓練施設内に移されたばかりのトキが夜間、正体不明の小動物に襲われ大半が死ぬという悲しい事件が起こりました。襲った側の動物から見れば、わざわざ自分のために出入り自由の檻を設けてくれ、そこに2月4日に5羽、2月19日に6羽と計11羽も餌を入れてくれたようなものです。目の前にこんな魅力的なものを用意され、襲った側はきっといても立ってもいられなくなったのでしょう。それが野生動物の本能であり、弱肉強食世界の現実なのです。もしトキの世界にマスメディアがあれば「人間をトキの過失致死罪や過失傷害罪で訴えろ」と息巻くことでしょう。

 環境省とかトキ保護センターとか自然保護官などと云っても、それらの言葉になにがしかの価値や有難味を感じるのは人間界だけの話です。自然界には学歴も学力も資格も肩書きも通用することはありません。そんなもので野生生物の命を守れるなどと考えるのは誤りです。人間がいかに思い上がった動物であるか、いかに愚かな生き物であるかを証明するだけです。このことを深く自覚し十分肝に銘じて自戒に努めなければ、こうした犠牲を防ぐことは今後も難しいでしょう。まず専門家を学歴や学力で一律に判断することの愚を改める必要があります。


 前置きが長くなりました。今日紹介するサギは、このトキと同じくコウノトリの仲間です。そのため姿や形に似通った点がいくつもあります。しかし幸か不幸か、今のところ特別天然記念物や国際保護鳥に指定されるほどの希少性はないようです。保護センターに捕獲されたり窮屈な檻に閉じこめられたりする憂き目にも遭わず、勝手気ままに暮らしています。(つづく)

◎季節の言葉 野蒜2010/03/18

 春になって嬉しいのは野の物がいろいろ手に入ることである。蕗薹(ふきのとう)や蓬(よもぎ)なら名前くらいは多くの人の知るところだろうが、これを食するとなると現代人にはもう手が出せまい。特に高度成長期以降に育った人にとって野の物を口にするなどと聞くと、朝鮮半島の北側に暮らす人々でも見るかのような半ば蔑んだ目つきに変わることさえある。経済的には豊かになったつもりでも、その中身たるや米国渡来のハンバーガーとゲップの出そうなコーラ程度ではないかと逆に哀れにさえ思われてくる。これに紛いの牛丼など並べられると、余りの気の毒さに思わず涙が浮かんでしまう。誠に安っぽい脳天気な時代になったものである。


 野蒜はその名の通り野性の蒜(ひる)である。蒜の音は「さん」だが、これを「ひる」とするのは朝鮮語の蒜の音「ふぃる」に由来しているからだとする説がある。もしそうだとすると、この植物は彼の半島からの渡来物と見なすのが自然の道理であろう。だが全国津々浦々の土手や道端に顔を出している野蒜たちの繁茂ぶりを見るにつけ、本当に太古の列島には存在しなかったのだろうかと怪しまれてならない。それとも名無し草だったものに渡来人が故国の懐かしい野草の名を付けたのだろうか。

 蒜は万葉集にも登場し、水草の水葱(なぎ)などとともに古来より食用や調味用に供された植物である。だがその正体となると、鱗茎をもち強い臭いのあるアサツキ、ノビル、ニンニクなどの総称だろうと推測するしかないのが実情だ。なお「ひりひり辛い」などと云う場合の「ひり」を「ひる」に由来する表現と考える人もいるようだが、この説は鶏と卵の関係に似て、どちらが先であっても成立つところに難点がある。

  萌え出でて野蒜は長しやはらかに 池内たけし

 写真のノビルは腐葉土が積もってふかふかになった土手で摘んだ。根元を握って引っ張り鱗茎ごとそっくり抜き取ったものが多い。茎の先は刻んで味噌汁の具に加え、その他は茹でて酢味噌和えにして春の香りを楽しんだ。

○こぶし咲く2010/03/04

 このブログもあっという間に1年以上が過ぎてしまいました。前に書いたという確かな記憶はあっても、それがいつだったかを思い出すことが段々難しくなってきました。そろそろどこかで整理をしておかないと、頭の中もブログの中も屑籠同然・反故同然の状態になりそうです。

 今日は午後になって漸く日射しを拝むことができました。また暖かさが戻ったせいか、あちこちから「こぶしの花が咲いたよ」という知らせが入りました。思い起こせば、この欄で最初に「こぶし・拳・辛夷」を書いたのは昨年の3月のことでした。ちょうど、お彼岸の頃ではなかったかと記憶しています。記憶が間違っていなければ、その次くらいに「春さらば」が掲載されたはずです。

 ブログに参加したのは国語辞典のあり方に強い疑問を抱いたことと関係があります。前々から、日本語の権威と持て囃される「広辞苑」の内容が気になっていました。改訂の方針が妙ではないかと呆れていました。世間が崇めることとの懸隔がありすぎると感じていました。都合4回にわたって掲載した「こぶし」の記事は、そうした疑問の一例に過ぎません。

 ⇒ http://atsso.asablo.jp/blog/2009/03/24/4201451 こぶし・拳・辛夷(1)
 ⇒ http://atsso.asablo.jp/blog/2009/03/25/4202634 こぶし・拳・辛夷(2)
 ⇒ http://atsso.asablo.jp/blog/2009/03/26/4204426 こぶし・拳・辛夷(3)
 ⇒ http://atsso.asablo.jp/blog/2009/10/12/4629074 こぶし・拳・辛夷(4)


 初めの頃はどんなテーマも全て文字のみで綴っていました。春に書いた3回分にも写真は載せていません。そこで今日は撮影して来たばかりの咲きたての「こぶしの花」を追加で掲載します。撮影は3個所で行いました。それぞれ別の樹木の写真です。蕾が大きく開いていたのはそのうちの若木2本でした。大木の開花にはあと一日か二日、暖かい日射しが必要なようです。

  黄昏の風吹くばかり花辛夷 松沢 昭

◆豊後梅 22010/03/03

 ところで既に記したように豊後が大分県中部および南部を指す旧称であることは疑いない。だが、それだけで豊後梅の「豊後」を豊後の国の「豊後」と見なすのは危険である。その程度の論拠で納得していると、いずれ浄瑠璃の豊後節までが大分県の民謡と思われてしまうだろう。県のホームページで「豊後梅は、その名の示すように豊後(大分県)に発祥し、古くから豊後の名産として知られていました」と記すからには、名称以外の何か有力な根拠が必要である。

 しかし同県の県花・県木の紹介ページには、この点に関する明確な説明がない。「豊後梅の歴史」と題して江戸時代も17世紀後半の延宝9年(1681)に刊行された水野元勝の「花壇綱目」を紹介しているが、この刊本は今で云うところの園芸手引きであって豊後梅の由来を記すものではない。土質や施肥などの養生法は記しても、豊後国との関係には触れていない。この書の記載から推定できるのは、この品種が当時すでに園芸種として好事家などの間に一定の知名度をもっていたと想像されることくらいである。

 ホームページにはもうひとつ、杵築(きつき)藩主の松平公から「毎年将軍家に大梅の砂糖漬が献上され」たとの記述も見える。だが、この大梅を豊後梅と断定するためにはやはりそれなりの証拠や傍証が必要である。そうしたものが全て揃って献上の起源が明らかになり、それが江戸の初期17世紀初めにまで遡ることができて、しかも将軍家がこれを杵築の梅ではなく豊後の梅と呼んでいたことが文献や史料から説明できれば、当時まだ無名に近かったこの品種が江戸を中心に豊後梅(ぶんごのうめ)と呼ばれるようになったというようなことに、あるいはなるのかも知れない。

 そうなって初めて、上記の「花壇綱目」も大分県の県花・県木を支える史料のひとつに仲間入りすることができる。税金を使った仕事に史実に基づかない希望的記述や曖昧さは許されない。ただでさえ不確かなインターネット情報に新たなノイズを撒き散らすのは止めるべきだ。不明確な部分は「不確かではあるが」と率直に記す勇気が必要である。県の公式ページが今のような虚仮威(こけおど)しに近い文献史料の利用を行っていては県民の文化水準までが疑われかねない。(了)


☆熟語を読む 熾烈2010/02/27

【かな】 しれつ
【語義】 勢いが盛んで激しいさま。
【解説】 「熾」も「烈」も火の勢いが強く盛んなこと。ふたつを重ねることで、火の勢いが極めて激しく盛んに燃えるさまを表す。転じて気性や感情また競争や闘いなどの激しさを表すときに用いられる語となった。
【用例】 こうした日蔭者の気楽さに馴れてしまうと、今更何をしようという野心もなく、それかと言って自分の愚かさを自嘲するほどの感情の熾烈さもなく、女子供を相手にして一日一日と生命を刻んでいるのであった。(徳田秋声「縮図」)


◆豊後梅2010/02/26

 庭の豊後梅が開花した。近所ではとっくに咲いているが、この木に限っては雨の当たらない条件の悪い場所にあるため例年1週間ほど遅れて咲く。それでも昨年の開花が2月27日だったことを思えば2日早い。今日はこの豊後梅について調べてみた。


 豊後とは言うまでもなく現在の大分県中部および南部の地に相当する旧称である。因みに大分県北部地方は福岡県東部地域と合して豊前(ぶぜん)と呼ばれた。豊後梅は昨日も紹介したように雑種性が強く、梅の仲間ではあるが幹肌といい実の形や色といい種の形といい、杏(あんず)に近い特徴を有している。開花の時期も野梅系や紅梅系より遅く、杏よりは早い。


 面白いのは杏の八重が実を付けないと云われるのに対し、豊後梅の多くが八重の花を咲かせることである。逆に一重の品種であるウスイロチリメンの場合は花の付きが余りよくなく、万事が杏とは反対になっている。

 豊後梅は基本的に花は薄紅色が多い。だがハクボタンと呼ばれる品種だけはその名の通り白色に近い色を呈する。しかしこれも蕾の時は薄紅色をしていて開花後は、透けて見えそうな薄い花びらを光が通るために紅色が遠退いて見えるまでのことである。決して真っ白というわけではない。むしろ紅色が強いヒノハカマと呼ばれるものの方が、豊後梅としては例外に近いだろう。専門家はこれを杏性に分類し、豊後性とは分けている。(つづく)

 ⇒ http://atsso.asablo.jp/blog/2010/02/24/4903419 紅梅と白梅 2