夢と希望と絶望 (3)2012/10/04

 漢字の「夢」は草冠ではありません。部首は「夕」です。なぜ夢が草冠なんだろうと思っていた人は、夕部と聞いてすっかり納得した気になっていませんか。実は「夢」という字ももともとは寐の字の「未」の部分に収っていた部品にあたる文字でした。ですから寝るという字の親戚にあたる文字ということができます。

 「寝」も今は略字で記されますが、もとは同じように「爿」を書いていました。しかしその都度、冠の「宀」を書いたり「爿」を付けたりするのは面倒だと思う人が多かったのでしょうか。家の中に置かれた寝床を示すこれらの部分を略して、もっぱら部品の「夢」だけを記すようになりました。

 この夢という文字は夜の暗さを表していて、蔑と夕とを組合わせた形になっています。蔑は蔑視の例からも分かるように余りよい意味の文字ではありません。元々の字義は目に光がない、目がよく見えないの意ですから、これと夕を組合わせることで夕闇の暗さを表そうとしたのです。

 ですから元の音は「ベツ」と「ボウ」でしたが、「ベツ」の方が「ム」に変わったと考えられています。この字の音は何かと聞かれたら十人が十人「ム」と答えそうですが、「ム」は慣用で使われる音で、漢音は「ボウ」です。

 ついでに言えば、人偏に夢と書いて日本では「はかない」と読ませていますが、この儚という字も同様に暗いことを示しています。但しこちらは人偏ですから、暗い原因は光ではなくて人の心です。迷いがあって明るくならないさまを指します。例えば儚々(ボウボウ)と言えば文字通り心に迷いがあることです。(つづく)

                       メロンのお尻です…

夢と希望と絶望 (2)2012/10/03

 夢は大きいほどいい。どんなに大きくたって構わない。いくら大きくたって誰も困らない。嫌がるのは絶望くらいだ。置き場所も要らないし、家賃もかからない。誰からも文句を言われない。うんと気張って、でっかい夢をもとう。

 すぐに結果が分かるのは夢とは言わない。小さいのは希望と呼ばれる。希望はおやつみたいなものだ。みんなが欲しがる。だからみんなで、仲良く分け合うしかない。小さな希望は欲しい人にあげて、なるべくでっかい夢をもとう。

 夢は宝物だ。君だけが知る宝物だ。値打ちを知るのも、どこにあるか知るのも君だけだ。いつもそっと暖めていよう。心の中で大事に暖めていよう。自分の夢を信じて暖めていよう。そうすれば夢は育つ。いつの間にか膨らんで大きくなる。

 膨らんだ夢は強い。君が信じれば信じるほど強くなる。自分の夢を信じよう。どこまでも信じて大事にしよう。大事にしていれば夢はいつも君を守ってくれる。君をどこまでも守り通してくれる。そばにいて君の強い味方をしてくれる。

 夢は忘れないことが一番だ。自分の夢を信じ、いつまでもどこまでも大事にしよう。大事にしていれば、きっといいことがある。どんなに辛くても覚えていよう。悲しいときでも思い出せるようにしよう。楽しいときも忘れないようにしよう。夢はきっと叶うものだ。(つづく)

                   どれも似てるけど、みんな違う…

夢と希望と絶望2012/10/02

 夢と希望は同じか。似てはいるが、どこか違う気がする。どちらもまだ実現していない。夢や希望が叶うのか、まだ先のことだから分からない。もうすぐ実現するかも知れないし、叶う気もするが今この瞬間は、そこまで分からない。これが夢と希望の共通点だ。

 違う点は何か。それは夢の方が実現に遙かに時間がかかることだ。希望の方は中身により他の人との調整が必要になる。夢なら他の人と取り合いをすることはないが、希望の場合は他の人に取られたり譲り合う場面が出てくる。希望の方がそれだけ日常に近いところにある。夢の方は何かとてつもなく大きなものに使われる。

 夢は誰がもっても構わない。小さな子でも中学生でも大学生でも構わない。思い立ったらいつでも気軽にもつことができる。どんなに大きな夢でも税金のかかることがない。申告も要らない。誰とも取り合いにならないし、誰にも迷惑をかけることがない。こんな都合のよい、うまい話が夢にはある。

 それなのに夢を知らない若者が増えている。今、夢をもたない若者が増えている。お金がなくても、仕事がなくても、学校が面白くなくても、テストの点が悪くても、友達がいなくても、そんなことには全く関係なく誰でも自由にもつことができるのに、夢の力を知らない若者が増えている。

 夢には希望の何十倍、何百倍、何千倍もの力がある。夢があれば明日も生きられる。今日と明日をつなぎ、明日と明後日をつないでくれる。夢があれば絶望は寄りつかない。絶望は夢を信じる人には近づかない。

 絶望にとって夢ほどイヤなものはない。夢ほど嫌いなものはない。だから夢をもつ人には決して寄りつかない。夢を信じる人には近づこうともしない。近ごろの絶望は特に忙しいようだ。あっちからもこっちからも、夢のない人から「来てくれ、来てくれ」とせがまれて駆けずり回っている。

 昔は物好きな絶望もいた。ひとつひとつ夢の中身を詮索して楽しんでいた。秋田のナマハゲみたいに「こいつの夢は好い加減だ」「自分の夢を信じていないな」なんて言いながら、壊して回る奴がいた。今は夢をもたない人が増えすぎて、そこを回るだけでも手が足りない。絶望は多忙に追われて皆あっぷあっぷしている。(つづく)

           今年は夏が暑かったせいか曼珠沙華の開花が遅れている…

夏から秋へ--蕎麦っ喰い(3)2012/09/28

 少し間が空いてしまった。今日は蕎麦そのものの話題ではなく、蕎麦っ喰いの「喰い」の部分について考えてみることにする。都内の蕎麦屋の広告に「のど越し、歯ざわり、香り… 蕎麦っ食いを うならせる 蕎麦」というのがあった。「のど越し、歯ざわり、香り…」の三つに惹かれ、感心しながら眺めていると同じ文句が他の場所にもあることに気づいた。但しこちらは「蕎麦っ喰いを」であった。「食い」を「喰い」と口偏を追加するだけで随分と印象が変わるものである。

 口偏があろうがなかろうが、この「そばっくい」という表現には使う人の自嘲が二三分・自尊が七八分くらいは込められているだろう。そんな感じのする言葉である。同じ「くい」でも面食いとなると、選り好み・器量好みの人を指し、男女を問わず顔立ちの美しい人だけを選りに選って好むことの意となる。その点、「そばっくい」の選り好みはどうであろうか。蕎麦にも人間でいうところの器量のようなものがあるのだろうか。

 ところで喰なる文字は漢字ではない。つまり食に口偏を付けたのは他ならぬ我が列島の先人の仕事である。食は器に盛られた「たべもの」の形から始まったとする説があり、食べるという動作を示すのは後のこととされる。先人は、そこに何か一抹の物足りなさを覚えたのかも知れない。こうした日本製文字の仲間には噺、峠、裃、凩、榊、鰯、麿、働などいろいろあるが、いずれの字形も一定の視覚的な特徴を備え何より分かりやすいことが特色である。これらは一般に国字と呼ばれ、大陸製の生っ粋の漢字とは区別している。

 日本製は字形の案出だけに止まらない。例えば口偏に出ると書く咄も国字ではないかと思いたくなるが、文字としては歴とした大陸製の漢字である。ところがこの文字には「はなし」とか「はなす」といった意味は含まれない。原義は叱るとか、驚きの声を発するの意であって、日本で字形だけを流用して使ったのである。このような原義を離れた訓は国訓と呼ばれ、著名な例に鮎がある。日本では「あゆ」専用だが、中国では「なまず」を指す文字として使われている。

 なお日本製の国字には訓はあっても音は最初から存在しない。もし音読みされるものがあれば、必ずそれなりの事情が隠されている。最近のいい加減な字書や字引の中にはそうした事情を調べることなく、勝手に音を付けてしまったものが混じっている。安易な字書づくりが文字の歴史まで歪めていることに注意したい。(つづく)


敬老の日・祝日法--大根日記(5)2012/09/18

 さて私的な話題はこれくらいにして、話を本題に戻そう。敬老の日というのは「国民の祝日に関する法律」によって定められたものである。この法律は昭和23年(1948)7月に制定され、一般には祝日法とか国民祝日法と呼ばれている。制定当時の祝日は元日、成人の日、春分の日、天皇誕生日、憲法記念日、秋分の日、文化の日、勤労感謝の日の計8日である。残りの7日はその後の改正によって追加された。

 この法律は全3条から成る簡単なものだが、第3条だけは当初の「「国民の祝日」は、休日とする。」という至って簡潔な条文に、何遍読んでも理解できない2と3の二つの追加がなされ難解な内容に変わってしまった。これらは次のページで容易に確認できるから是非ご覧いただきたい。

 ⇒ http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S23/S23HO178.html 昭和23年7月20日法律第178号

 第1条ではまず法律制定の目的に触れ、「自由と平和を求めてやまない日本国民」が「美しい風習を育てつつ、よりよき社会、より豊かな生活を築きあげるため」と述べている。制定当時の時代的な雰囲気を感じさせる文言である。また、そもそも「国民の祝日」とはなんぞやという点については「国民こぞつて祝い、感謝し、又は記念する日」であると説明している。

 次に第2条では具体的な祝日をおおむね月日順に列挙し、その内容を簡単に述べている。それらの全てを今ここで取り上げる余裕はないが、全てが上記の3種類に収るような内容・説明であるかは疑わしい。例えば体育の日、あるいは文化の日はそれぞれの説明を読んでも祝う・感謝する・記念するのいずれに該当するものか判然としない。また春分の日と秋分の日の説明の差も庶民の感覚とは明らかに異なっている。とても第1条にいう「美しい風習を育てつつ」を考慮した説明には思えない。

 いろいろ言い出すときりがないのでこの辺で止め、本日のテーマである「敬老の日」に絞ると、この日は「多年にわたり社会につくしてきた老人を敬愛し、長寿を祝う。」と記されている。但しこの日は後の改正によって追加されたもので、昭和23年の法律制定当初から存在した祝日ではない。制定に先立つ同年2月3日の衆議院文化委員会で行なわれた祝祭日に関する最初の審議経過を振り返っても、敬老を伺わせるような表現や9月中旬の候補日は見あたらない。

 この日が追加されたのは祝日法最初の改正となった昭和41年(1966)6月のことである。何かと物議を醸(かも)した建国記念の日、10月10日と定められた体育の日と同時期の追加であった。因みに前年昭和40年の日本の人口構成を見ると、65歳以上が占める割合は6.3%でしかない。生産年齢と呼ばれる15~64歳が68.0%、14歳以下の年少人口も25.7%を占めていた。そういう活力溢れる時代の「敬老の日」であった。

 以来50年近く、日本の人々は右肩上がりの経済成長を信じ、自分はまだ十分に若い・働けると信じ、加齢には医療技術や製薬技術や美顔術などで抗(あらが)いながら、ひたすら消費に邁進した。そして、次の世代を生み育てる努力を怠ってしまった。これが、当初9月15日としていた敬老の日を平成13年(2003)6月の改正で9月の「第三月曜日」に切り替え、同様に1月15日の「成人の日」を1月の「第二月曜日」に切り替えた便宜主義的行動と通底することは容易に想像がつく。

 もはや「その日」に対するこだわりだけでなく、「国民こぞつて」感謝する・祝うといった意識までもが薄れてしまったのではないか。単に休日を増やすための方便に、これらの日が体よく利用されたに過ぎない。海の日や体育の日にしたところで似たようなものであろう。東日本大震災後、急速に広まった原発に対する不安も、もしかしたら「きずな」という言葉もこれと似たようなものかも知れない。これが日本文化の有り様だとしたらあまりにも寂しい。

大根日記2012/09/09

 何だか役者の懐中手帖みたいだが、さにあらず。遅い夏休みの自由研究である。二十日ほど前、山間地の畑に大根を蒔いた。何しろ遠隔地にある畑だから、その後の様子が分からない。袋には確か85%以上の発芽率と記されていた。蒔いた前後には夕立があったし、JAの種でもあるし、さっぱり芽が出ないどこぞの役者の卵とは違うと思いつつも、旱天に泣かされた昔のことを思うと今ひとつ確信が持てない。

 畑に蒔くときは、間隔も測って二粒ずつきちんと蒔き、軽く土も載せた。土を厚くしすぎると発芽が遅れるし、あまり薄いと夕立で飛ばされたり、鳥に食べられてしまう。昔の遠い記憶も頼りにしながら丁寧な作業を心がけた。それでも幾久しく途絶えていた農作業である。本当に芽が出るものか、どのくらい出るだろうか、と気になった。

 ほんの少しだが種が余った。余った種はそのまま持ち帰ることにした。すでに袋の封は切ってあるから、あまり長く放置するのはよくない。

 九月の声を聞くと急に、種のことが気になった。そこで発砲スチロールの魚箱に堆肥と元肥の化学肥料を入れ、三日前の六日の朝に種蒔きをした。次の写真はその翌朝七日に撮した。破線の○で示した中に大根の紅い種皮や発芽の始まった様子が写っている。水やりのせいで土が流れ、顔を覗かせた種だろう。


 次の二枚は、二日目の八日の朝そして今朝の様子である。身近にあって水やりができると、こんなにも簡単に芽を出してくれるかと驚くほど短時間のうちに発芽が始まった。もっとも今度はいい加減にバラバラと蒔いたから発芽率の精確な計算はできない。それでも十分な発芽力をもつ種であったことは確認できる。(つづく)




オクラ(夏野菜)--ヒロ田中さんからの手紙 22012/09/03

 ヒロ田中さんから頂戴した手紙の続きを公開します。これでオクラが米国に渡来した背景や時期、そしてgumboとの関係も明らかになりました。ご教示に深く感謝いたします。 


(2)米国版「オークラ」の起源

 より深く料理のバックグラウンドや歴史的背景を知りたくなり、さまざまな料理サイトを読んでいたある日ある料理研究家による文章を読み始めた瞬間、思わず声を上げてしまいました。料理名のガンボ、またはガムボはスワヒリ語でオークラを指すと説明されていたのです。たしかにアフリカ語の響きを持つコトバですが、思わずシタリとヒザを打ったのは、元の発音はグンボ、またはグムボであったという件(くだり)を読んだ時でした。この方がもっとスワヒリ発音に近いと、そしてもっとも説得力があると思えたからです。

 歴史考証:アフリカから入荷し、競売にかけられた奴隷たちは主に南部諸州のプランテーションで使役される。奴隷小屋の夕餉の定番がグムボ。なんでもかんでも刻んで屋外で煮立たせる粗末なスープ。ご主人さまの邸宅の厨房で料理に従事する奴隷たちが、白人たちが見向きもしない臓物や脂肪や骨を小屋に持って帰り、スープに使う。ある時はご主人の厨房で同じような献立を作ったことも考えられる。「これは何だ?」と訊ねられた奴隷がオークラのことを訊かれているのだと思い「グムボ」と答える。白人たちはgumboと書き、米語式にUをAと発音し、いつの間にかこの誤解が料理名になった。

 この考証が、自分にはピッタリ来る一番の説明でした。少なくともガンボのメッカ、ルイジアナではそう信じられています。日本にオークラがいつ、どのように伝来したか、諸説紛々で眉ツバな説明もあるようです。しかし、グムボ=オークラという考証が自分なりに納得できた気がするので、日本バージョンの考証はそのままお蔵入りでもいいと思っています。誤字脱字および冗漫な文章をご容赦ください。

 ヒロ田中 拝  (2010年3月24日)


 最後に、石山さんのオクラ畑の様子もお目にかけましょう。上が夕方の6時過ぎ、下が翌朝8時過ぎの撮影です。
 



◎季節の言葉 遅日2010/04/11

 俳人はなぜか漢語の使用を躊躇うことがない。よく使う。句を作る人にはそれだけ教養があるということだろうか。今の季節の空を詠むときに使われる養花天などという言葉が理解できるのは、やはり一部の人に限られよう。

 ⇒ http://atsso.asablo.jp/blog/2009/04/01/4218658 春の空・養花天

 その点、遅日は文字こそ易しいが、さて意味となるとどうだろうか。夜の明けるのが日々早くなり、しかも日の暮れるのが日々遅くなって一日をとても長く感じるという意である。和語では遅き日と云い、ほかにも日永(ひなが)、永き日、暮れかぬる、暮れ遅しなどの云い方もされる。こちらの方がよほど分かりやすく、かつ親しみやすい表現だと思う。


◆野性味 酸葉の味2010/04/10

 野という漢字は「里+予」と書く。だが古い字形は「林+土」である。この字は野の異体字として今でも名字には使われている。但し埜(や)の字について、これを林があって土が見える(舗装されていない)から郊外や田舎や野原のようなところを指すのだと解するのは適切ではない。それは現代人が考えることであって、古代においては地球上の至るところ海か川か、そうでなければ地面か岩であった。地面には必ず木や草が生えていた。木も草も生えないような場所は水の涸れた砂漠であり、人間は住むことができなかった。

 この字を土の上に木々が生い茂るさまと解するのも妥当ではない。木も草も地面に生えるのは当たり前のことであり、それらの生育に土が必要と考えるのはマンション住まいに慣らされた現代人の悲しい発想でしかない。林の字が示すのは木々が生い茂る未開の土地、土が示すものは木々を切り倒して耕した土地と考えるのが妥当だ。これら二つを合わせもつところを「や」と呼び、埜と書き表したのである。音の「や」は土(しゃ)から出ている。

 つまり野といえども人の気配が必要であり、人跡未踏の地や無人の場所は野の範囲には入らない。野の字に、人家が集まる小さな集落としての里の字を用いたことが何よりの証拠と云える。さらに、音符を兼ねる旁の予が人家を表す舎(しゃ)から来ていることにも注意したい。総じて野とは人は住んでいるが開化の進んでいないところ、人が住んでいても自然の状態がそのまま残っているところを指していて、田舎や粗野や民間などの意はこれから転じたものである。

 例えば野趣という言葉には人の手の加わらない自然のままの状態を彷彿とさせるさまを云う場合と、田舎を想像させるような鄙びたさまを云う場合の二通りの意がある。後者は前者から転じたものであろう。野性も日本では人間というより動物に近い、教育を受けることのない粗野な性質を示す言葉として使われているが、漢詩には静かな田園での暮らしを楽しむ心を指す表現として用いたものもある。日常よく目にする言葉や文字であっても時には辞書を開いて、その意味や用法に触れておくことが肝要であろう。


 写真はタデ科の多年草酸葉(すいば)を撮したものである。一般にスカンポと呼び慣わされている野草で、今頃のものは食用にもされる。茎や葉を噛んだときの野性味あふれる酸っぱさを思い出す人もいることだろう。

◎言葉の詮索 縁結び(4)2010/04/09

 ましてこれが親類縁者となれば、夫や妻となれば、子となれば、兄弟姉妹となれば、それらの人が口にするものを自分も口にすることに何の造作や躊躇(ためら)いが要るでしょうか。日本列島には昔から、人間同士の繋がりや知り合うことの大切さを思う温かい気持が人々の心の中に息づいているのです。


 そんな島国に新たな言葉として定着した縁結びには単なる知り合いの関係を超えた、より深くより密接な関係へと進むことの願いが込められています。年齢の異なる他人同士があたかも親子であるが如くに契(ちぎ)る養子縁組み、血縁はなくても兄弟の約束を交わす義兄弟の契り、赤の他人同士だった男女が結びつく夫婦の縁組みなど様々な組合せによる結びつきが考え出されました。中でも若い男女の結びつきは生物としての本能に基づくものでもあるため和合による次の世代の誕生が期待されると同時に、他の結びつきとは異なる人間社会ならではの難しい問題も残されています。

 織田信長などの武将が活躍した時代、盛んに来日してキリスト教の布教に努めた宣教師たちは日本の人々に神の教えを説くため俗語を交えた平易な教義書をつくりました。その一冊「どちりなきりしたん」には「一度縁を結びて後は、男女ともに離別し、又、余の人と交はる事かつて叶はざるものなり」と、記されています。新しく誕生した徳川幕府の禁教政策によって宣教師たちは迫害されたり国外に追い払われたりしたため、この書の影響は極めて限定的なもので終ってしまいました。江戸の町ではかなり自由な男女の関係も行われていたようです。

 明治に入っても男女の悩みには深刻なものがありました。作家として知られる夏目漱石もまた夫婦の関係については最後まで悩み続けたひとりでした。長編小説「明暗」には「こればかりは妙なものでね。全く見ず知らずのものが、いっしょになったところで、きっと不縁になるとも限らないしね、またいくらこの人ならばと思い込んでできた夫婦でも、末始終和合するとは限らないんだから」と記しています。この作品は新聞に連載されていましたが、作者の病死によって結末を見ることなく終ってしまいました。作者がどのような結末を考えていたかは想像するしかありません。

 末始終(すえしじゅう)和合するとは夫婦仲の極めてよいこと、男女の関係が末永く続くことを指しています。ヒトがサルから進化した動物であることは最初に書きました。若い皆さんには「良縁を得たい」「この人となら結ばれたい」「縁を結びたい」と願う気持が大変強いことでしょう。しかしそうした気持が一時のものに止まっては固い縁結びにはなりません。「縁結び」とは二人が夫婦「である」という運命のような関係に落ち着くことではなく、夫婦でありつづけるために懸命に努力を「する」関係になるのだと肝に銘じることなのです。だから二人で一緒に、これを神仏の前で誓うことが終生解(ほど)けることのない固い固い理想の縁結びの第一歩になるのです。(了)