夢と希望と絶望 (4)2012/11/18



 いまの日本で夢といえば何だろうか。財務省が今月9日に発表した「国債及び借入金現在高」(平成24年9月末現在)の983兆円が一夜にして消えることだろうか。日本の人口は昨年より26万3,727人も減って1億2,665万9,683人になったというのに、使う方の借金だけは相変わらず増え続けている。国民一人あたりで計算すると776万円を超える金額となる。

 人口は人の命を数えることだから、ただの一人も省くことなく全てを書き出した。しかし借金の方は庶民の金銭感覚とは無縁な桁違いに大きい数字だから兆の単位で切っている。だからこれが正夢となって本当に983兆円が一夜にして帳消しとなっても、まだ日本国には2,950億円の借金が残ることになる。これを「その程度の少額に」とか「何と細かなことを」などと官僚や政治家のように笑い飛ばしてはいけない。これが逆の貯金だったら、国民一人あたり2,329円の払戻しが受けられるのである。

 庶民の暮らしと縁の深い郵便貯金(ゆうちょ銀行通常貯蓄貯金)で考えてみよう。いまこれだけの金額を利息として手に入れるには一体どれほどの貯金をすればよいだろうか。郵便貯金の適用金利は0.035%(10万円以上・2012年11月12日現在)である。仮に100万円預けても1年に350円しか利息は付かない。税金まで考えれば800万円預けても、それでもまだ届かない金額を生み出すものが、貯金ではなく借金の端数として残っているのである。借金本体983兆円の利息がいくらになるかと聞かれても多くの国民は想像すらつかないのではないだろうか。(つづき)

 ⇒ http://www.mof.go.jp/jgbs/reference/gbb/2409.html(平成24年11月9日 財務省報道発表)
 ⇒ http://www.soumu.go.jp/menu_news/s-news/01gyosei02_02000042.html(平成24年8月7日 総務省報道資料)
 ⇒ http://www.soumu.go.jp/main_content/000170582.pdf(住民基本台帳に基づく人口、人口動態及び世帯数)
 ⇒ http://www.jp-bank.japanpost.jp/cgi-bin/kinri.cgi(ゆうちょ銀行 金利一覧)

夏から秋へ--蕎麦っ喰い(4)2012/09/29

 シリーズ最終回は蕎麦というものの由来がテーマである。蕎麦というものと書いたが、この語には植物名としてのソバ、食料としての「そば」(干そば・生そば)、蕎麦屋や自宅で食べる料理としての蕎麦、の三つの意味がある。英語で言えば buckwheat(植物)、soba noodles(食料)、soba dishes(料理)の三つを指す。

 植物としてのソバの原産地は中国南部の四川省から雲南省にかけての山岳地帯、あるいはさらに西方の中央アジア辺りと考えてよいだろう。いずれもイネの栽培に適さない、冷涼な気候の高原や山岳地帯である。現在もこれらの場所ではソバの栽培が盛んに行なわれている。

 日本列島への伝来がこれらの場所から漢字圏を経由して行なわれたことは呼称としての蕎麦から容易に想像がつく。漢名の蕎麦(ケウバク)に対し、列島の先人達が与えた呼称は「ソバムギ」といわれる。平安時代の承平年間(931~938)に成立した「倭名類聚鈔」を繙くと、漢名の見出しに続けて「出崔禹」と出典が明記されている。インターネット上にごまんと並ぶ怪しげな解説とは大違いだ。


 出典の「崔禹」は「崔禹錫食経」の略称である。この書は7~9世紀頃、中国の崔禹錫という人物によって成立したものらしいが現存しない。しかし引用先の書物に記された出典を便りにその内容を再構成してゆくと、どうやら食用となるさまざまな穀物や果物や菜根類や虫魚や獣禽の食べ方などを記していたことが推測できる。

 ところで「倭名類聚鈔」は皇女の命を請けた源順(みなもとのしたごう)によって編纂され朝廷に献上された辞書である。呼称には「ワミョウルイジュショウ」「ワミョウルイジュウショウ」の両様あるが、単に「和名抄」とも呼ばれる。この辞書の出典の次に見える万葉仮名の「和名曽波牟岐」が日本名、すなわち当時の呼び名にあたるソバムギを示している。中国ではソバを麦の仲間と見て、これに薬草の一種である蕎を冠し蕎麦と呼んだ。日本列島の先人達も、これをそのまま麦の仲間と考えていた。源順が遺した辞書はそんなことを教えてくれる。

 では「そば」とは何だろうか。数ある「そば」の中で最もソバに関係がありそうなものは、平安末期に成立し編者不詳の漢字字書「類聚名義抄」が伝える「稜」の字義である。物のかど、つまり尖ったところの意であるという。ソバの実(種子)に由来する命名ではないかと想像できる。過去の記事でも述べたが、中国と日本では全く同一の物を指す場合でも命名の視点の異なることが多い。

 ⇒http://atsso.asablo.jp/blog/2009/03/24/ こぶし・拳・辛夷 (1)
 ⇒http://atsso.asablo.jp/blog/2009/03/25/ こぶし・拳・辛夷 (2)
 ⇒http://atsso.asablo.jp/blog/2009/03/26/ こぶし・拳・辛夷 (3)
 ⇒ http://atsso.asablo.jp/blog/2009/10/12/ こぶし・拳・辛夷 (4)

 彼の地ではソバを薬草に似た麦と見、列島の先人達は食料になる実の部分に着目した。そして時代が下るといつの間にか「ムギ」は略され消えてしまった。これこそが植物としてのソバが食料として一般に普及し、さらには料理名へと変化してゆく過程であろう。ついでに言えば英名は「くろんぼ麦」とでもなろうか。日本人と同じく種子に注目した命名だが、形ではなく色の方である。(完)

敬老の日・祝日法--大根日記(5)2012/09/18

 さて私的な話題はこれくらいにして、話を本題に戻そう。敬老の日というのは「国民の祝日に関する法律」によって定められたものである。この法律は昭和23年(1948)7月に制定され、一般には祝日法とか国民祝日法と呼ばれている。制定当時の祝日は元日、成人の日、春分の日、天皇誕生日、憲法記念日、秋分の日、文化の日、勤労感謝の日の計8日である。残りの7日はその後の改正によって追加された。

 この法律は全3条から成る簡単なものだが、第3条だけは当初の「「国民の祝日」は、休日とする。」という至って簡潔な条文に、何遍読んでも理解できない2と3の二つの追加がなされ難解な内容に変わってしまった。これらは次のページで容易に確認できるから是非ご覧いただきたい。

 ⇒ http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S23/S23HO178.html 昭和23年7月20日法律第178号

 第1条ではまず法律制定の目的に触れ、「自由と平和を求めてやまない日本国民」が「美しい風習を育てつつ、よりよき社会、より豊かな生活を築きあげるため」と述べている。制定当時の時代的な雰囲気を感じさせる文言である。また、そもそも「国民の祝日」とはなんぞやという点については「国民こぞつて祝い、感謝し、又は記念する日」であると説明している。

 次に第2条では具体的な祝日をおおむね月日順に列挙し、その内容を簡単に述べている。それらの全てを今ここで取り上げる余裕はないが、全てが上記の3種類に収るような内容・説明であるかは疑わしい。例えば体育の日、あるいは文化の日はそれぞれの説明を読んでも祝う・感謝する・記念するのいずれに該当するものか判然としない。また春分の日と秋分の日の説明の差も庶民の感覚とは明らかに異なっている。とても第1条にいう「美しい風習を育てつつ」を考慮した説明には思えない。

 いろいろ言い出すときりがないのでこの辺で止め、本日のテーマである「敬老の日」に絞ると、この日は「多年にわたり社会につくしてきた老人を敬愛し、長寿を祝う。」と記されている。但しこの日は後の改正によって追加されたもので、昭和23年の法律制定当初から存在した祝日ではない。制定に先立つ同年2月3日の衆議院文化委員会で行なわれた祝祭日に関する最初の審議経過を振り返っても、敬老を伺わせるような表現や9月中旬の候補日は見あたらない。

 この日が追加されたのは祝日法最初の改正となった昭和41年(1966)6月のことである。何かと物議を醸(かも)した建国記念の日、10月10日と定められた体育の日と同時期の追加であった。因みに前年昭和40年の日本の人口構成を見ると、65歳以上が占める割合は6.3%でしかない。生産年齢と呼ばれる15~64歳が68.0%、14歳以下の年少人口も25.7%を占めていた。そういう活力溢れる時代の「敬老の日」であった。

 以来50年近く、日本の人々は右肩上がりの経済成長を信じ、自分はまだ十分に若い・働けると信じ、加齢には医療技術や製薬技術や美顔術などで抗(あらが)いながら、ひたすら消費に邁進した。そして、次の世代を生み育てる努力を怠ってしまった。これが、当初9月15日としていた敬老の日を平成13年(2003)6月の改正で9月の「第三月曜日」に切り替え、同様に1月15日の「成人の日」を1月の「第二月曜日」に切り替えた便宜主義的行動と通底することは容易に想像がつく。

 もはや「その日」に対するこだわりだけでなく、「国民こぞつて」感謝する・祝うといった意識までもが薄れてしまったのではないか。単に休日を増やすための方便に、これらの日が体よく利用されたに過ぎない。海の日や体育の日にしたところで似たようなものであろう。東日本大震災後、急速に広まった原発に対する不安も、もしかしたら「きずな」という言葉もこれと似たようなものかも知れない。これが日本文化の有り様だとしたらあまりにも寂しい。

◎言葉の詮索 縁結び(4)2010/04/09

 ましてこれが親類縁者となれば、夫や妻となれば、子となれば、兄弟姉妹となれば、それらの人が口にするものを自分も口にすることに何の造作や躊躇(ためら)いが要るでしょうか。日本列島には昔から、人間同士の繋がりや知り合うことの大切さを思う温かい気持が人々の心の中に息づいているのです。


 そんな島国に新たな言葉として定着した縁結びには単なる知り合いの関係を超えた、より深くより密接な関係へと進むことの願いが込められています。年齢の異なる他人同士があたかも親子であるが如くに契(ちぎ)る養子縁組み、血縁はなくても兄弟の約束を交わす義兄弟の契り、赤の他人同士だった男女が結びつく夫婦の縁組みなど様々な組合せによる結びつきが考え出されました。中でも若い男女の結びつきは生物としての本能に基づくものでもあるため和合による次の世代の誕生が期待されると同時に、他の結びつきとは異なる人間社会ならではの難しい問題も残されています。

 織田信長などの武将が活躍した時代、盛んに来日してキリスト教の布教に努めた宣教師たちは日本の人々に神の教えを説くため俗語を交えた平易な教義書をつくりました。その一冊「どちりなきりしたん」には「一度縁を結びて後は、男女ともに離別し、又、余の人と交はる事かつて叶はざるものなり」と、記されています。新しく誕生した徳川幕府の禁教政策によって宣教師たちは迫害されたり国外に追い払われたりしたため、この書の影響は極めて限定的なもので終ってしまいました。江戸の町ではかなり自由な男女の関係も行われていたようです。

 明治に入っても男女の悩みには深刻なものがありました。作家として知られる夏目漱石もまた夫婦の関係については最後まで悩み続けたひとりでした。長編小説「明暗」には「こればかりは妙なものでね。全く見ず知らずのものが、いっしょになったところで、きっと不縁になるとも限らないしね、またいくらこの人ならばと思い込んでできた夫婦でも、末始終和合するとは限らないんだから」と記しています。この作品は新聞に連載されていましたが、作者の病死によって結末を見ることなく終ってしまいました。作者がどのような結末を考えていたかは想像するしかありません。

 末始終(すえしじゅう)和合するとは夫婦仲の極めてよいこと、男女の関係が末永く続くことを指しています。ヒトがサルから進化した動物であることは最初に書きました。若い皆さんには「良縁を得たい」「この人となら結ばれたい」「縁を結びたい」と願う気持が大変強いことでしょう。しかしそうした気持が一時のものに止まっては固い縁結びにはなりません。「縁結び」とは二人が夫婦「である」という運命のような関係に落ち着くことではなく、夫婦でありつづけるために懸命に努力を「する」関係になるのだと肝に銘じることなのです。だから二人で一緒に、これを神仏の前で誓うことが終生解(ほど)けることのない固い固い理想の縁結びの第一歩になるのです。(了)

◎言葉の詮索 縁結び(3)2010/04/08

 縁結びは仏教の言葉である結縁(けちえん)を訓読みにした「縁を結ぶ」から生まれた言葉です。仏教では仏の道に縁をつけることを結縁と云います。仏の慈悲にすがらずとも生きてゆけると自信を持っていた人、自分のしたいように好き勝手に生きてきた人がある日ふと人生の無常を感じるようになります。生あるものは必ず滅ぶのだと知るようになります。

 すると急に来世のことが気になります。それまで全く無縁だった仏法を意識したり、仏道との繋がりを気にかけるようになります。いずれ生の尽きる日の来ることを知り、何人にもそれが避けられない運命であることを知って、成仏を願うようになります。苦しむことも生死の境目を知ることなく、静かにあの世へ旅立ちたいものだと考えるようになります。そして、あの世を支配する仏の知遇を得ておく必要に気づかされます。これが仏教における結縁、すなわち縁を結ぶの意味です。


 これに対し日本列島に暮らす先人たちが考えたのは今を生きる人々との強いきずなでした。あの世には地獄もあれば極楽もあるだろう。だが、そこに暮らすのはいずれも現世から移り住んだ人々のはずである。ならば、まず現世での縁こそ大事にすべきではないか。現世で互いの繋がりを大事にし、諍(いさか)いを避け、平穏無事に暮らすならば、必ずや来世でもまたそのように他の人々と暮らせるであろう。素朴に、そう考えたのです。これが先人たちの考えた広い意味での縁ということの中身です。

 江戸時代の初期17世紀半ばに松江重頼が編纂した「毛吹草(けふきぐさ)」は貞門俳諧の作法書として広く流布しました。その中に「縁に連(つら)るれば唐の物を食ふ」という表現があります。人間は縁さえあれば全く食べたことのない異国の物でも口に入れるものだと解釈される言葉です。当時の人々が縁というものをいかに重んじていたかの例と云えるでしょう。

 注意したいのはこの場合の縁が決して特別な関係を指す言葉ではないということです。異国である唐から来た人を見たことがある、その人がどんな姿をしているか知っているといった程度のことでしょう。隣国といえども海を越えての自由な往来は叶わなかった時代の話です。そんな程度のことでも人々はこれを天から与えられた縁として大事に考えたのです。袖振り合うも多生の縁とはまさに人々のこうした気持を代表する言葉と云えます。(つづく)


◎言葉の詮索 縁結び(2)2010/04/07

 漢字の縁は漢音では「えん」と読みますが、訓読みでは「ふち」とか「へり」とするのが一般的です。どちらも昨日説明した端っこの意です。日本語ではこのように同一またはよく似た内容の事柄に対して幾つもの言い方や表現のあることが少なくありません。その場合、それぞれの意味に対応する漢字のあるときは使い分けも可能ですが、ないときは同じ漢字を宛てて読み分けることになります。

 縁にはほかにも「えにし」「ゆかり」「よすが」といった訓も使われています。このうち「えにし」は漢語の縁に副助詞の「し」が付いたものだと云われています。これは「いつしか」「おりしも」などというときの「し」と同じ働きをする助詞で、副詞に似た機能をもっています。「えんし」では言いにくいので「えにし」に変わったのでしょう。意味は縁結びの縁と同様に男女間の繋がりを表しています。

 これに対し「ゆかり」は生地、学校、勤務先など何らかの繋がりや関係があることを示す言葉です。親戚関係についても用いられます。また「よすが」は古くは「よすか」と濁らない言い方が一般的でした。文字にするときは「寄す処」と記します。拠り所や頼りの意ですが、漢字の縁を宛てるのはそれが人の場合です。特に夫、妻、子など互いの関係が深く、従って頼りにもなる人を指しています。単なる拠り所の意味で使うときは縁は使いません。


 縁を結ぶということは決して一時的な男女の関係を築くことではありません。人類にとっては社会の永続性を確実にするために、その源をつくることを意味する言葉です。また一人ひとりの人間として見た場合は、生涯をともに手を取り合って一緒に生きてゆくための相手を決めることであり、さらに末の頼みをつくるための伴侶を選ぶことでもあるのです。(つづく)

◎季節の言葉 春昼2010/03/31

 気温の上昇が右肩上がりとなって摂氏20度を超えるか超えない頃の陽気というのは、おそらく極楽のお釈迦様の住まいに近い温度設定ではないだろうか。このとき大切なのは気温が決して20度を大きく下回らないことである。もちろん暑くなってもいけない。

 長い間寒気を経験した身体にはこれくらいの温度が続くと一気に緊張がほぐれ、何となく気だるい感じもあって時に生死の境も不明なほどに眠り込んでしまう。穏やかで、のんびりとして、しかも適度に明るくて、まさにこれが極楽かと思うほどに心地よい。朝は春眠、昼は春昼、いくら日が伸びてもこれではビジネスはできまい。


 春の昼とはこうした気分にさせてくれる陽気、気候、雰囲気を指す言葉であろう。春昼(しゅんちゅう)はそれを音読みしたものだが、これを用いた句が比較的新しいことから昭和以降に使われ始めた言葉と推測される。

 次の句は、京都に生まれ東京に出て経済界でも活躍した俳人の作品である。パリが好きになれない人にも、パリがもつ独特の気だるさや多くの日本人を惹きつけた不思議な魅力は伝わってこよう。

  春昼やセーヌ河畔の古本屋 景山筍吉

◎季節の言葉 土筆(2)2010/03/30

 ツクシは古くは「つくづくし」と呼ばれたことが「源氏物語」の「早蕨」冒頭を読むと分かる。宇治にいる中君のもとに山の阿闍梨より、趣のある籠に入った「蕨、つくづくし」が手紙と一緒に届けられたと記されている。つまり平安の昔から春の訪れを告げる山菜として食されていたことが窺われるのである。

 明治23年に発表された幸田露伴の小説「一口剣」にも土筆が登場する。悶々と暮らす刀鍛冶の生活が記述される中に「嚊は昼休みに一寸摘んで置きし土筆煮て、我が手柄を疲れたる夫の膳に薦めんと」と記述されている。ツクシは芽が出て日にちの浅いものを摘み、お浸しや酢漬けにして楽しむ。大量に摘めば露伴の作品のように甘辛に煮付けてもよい。いずれにしても春のほろ苦さが身上であり、そのためには筆の先ともいうべき頭頂部が地中から顔を出したばかりの、まだ胞子をつくらない、うっすらと緑色の感じられるものが最上である。


 次の句は俳諧三神の一人として知られ、歌人としての名も高い江戸初期の俳人松永貞徳の作品である。京に住み、私塾を開いて、後に芭蕉の師となる北村季吟らを育てた。貞徳の俳句を批判的に見る人は駄洒落が過ぎると云う。確かにここに詠まれた「はかま」にも、地上に芽を出したツクシの子が幾重にもかぶった俗に「はかま」と呼ばれる黒い皮の意が含まれていよう。だが、これを挙げたのは批評が目的ではない。江戸時代の京には「土筆売り」がいたことを単に示さんがためである。(了)

  つくつくし売るやはかまの町くだり 松永貞徳

◎季節の言葉 土筆(1)2010/03/29

 スギナ(杉菜)は地中に張り巡らしたネットワークのような根茎を持っていて冬の間はどこにあるのか全く分からないが、春から秋にかけては緑色の栄養茎をあちこちで地上に伸ばして光合成を行い、せっせと地下茎に養分を溜め込む。この緑色をした栄養茎には杉を思わせる小さな枝が輪になって付き、これが杉菜と呼ばれる因になっている。


 スギナは地下茎でも殖えるが、この方法だけでは繁殖の範囲が限られる。そこでドクダミ同様に繁茂するための方法として、花を付けないスギナは胞子を飛ばす方法を採用した。ツクシは、そのためにスギナの根茎から地上に送られた兵士のようなもので胞子茎と呼ばれる。これがスギナに先立って顔を出し、胞子をつくる役目をする。おかげでスギナは日当たりのよい野にも山にも種を殖やし、火事があっても絶えることなく、赤土だろうが黒土だろうが砂地だろうが至る所で繁茂している。だから庭に入り込まれると退治に苦労する。

 興味深いのは列島の先人たちがスギナとツクシを区別したことである。例えば英語圏ではどちらも horsetail(馬の尻尾) が一般的である。学名も Equisetum(エクィシータム)一本で特段の区別はないはずだ。漢方では杉菜は問荊と呼んで利尿剤の成分に用いられる。だがツクシの利用については聞いたことがない。これを食料の確保に苦しんだ先人たちの生きるための知恵と考えるか、季節の訪れを楽しむ風流人のなせる業と考えるか。デパートの食品売り場で山菜を買い求めたり、割烹や料亭が創る季節の味しか知らない人々には少々無理な質問かも知れぬ。(つづく)

 土筆めし山妻をして炊かしむる 富安風生

◆足利事件と飯塚事件の差(3)2010/03/27

 最近、政治の世界では説明責任と云うことが喧(やかま)しく叫ばれるようになった。鳩山総理も民主党の小沢幹事長も説明責任を果たしていない、そのことが内閣支持率や民主党支持率急落の最大の原因だとマスコミはしきりに報道している。では今回の冤罪について日本の裁判所や司法関係者は国民に納得のゆく説明をしているだろうか。

 宇都宮地裁の佐藤裁判長は判決で菅谷さんが無実であると言い切った。その根拠についても明らかにした。管家さんを犯人扱いし、精神的に追いつめ、自白を強要し、挙げ句の果てに17年半に及ぶ長い刑務所暮らしを強いることになった有罪の決めてであるDNA型の鑑定が誤りだったと断じた。


 菅谷さんについては、ここに至るまでに地裁、高裁、最高裁と3回もその道の専門家が血税を使った審理を行っている。だが誰一人として、菅谷さんの罪が濡れ衣であることを見抜けなかった。三審制は機能しなかった。再審請求審の棄却も含めれば4回も節穴裁判が行われていたことになる。これが裁判のあるべき姿でないことは誰の目にも明らかだろう。日本の裁判官も司法関係者も、これを不名誉なことと思わないのだろうか。不思議でならない。どう見ても日本の刑事裁判は「人を見る目」を排除した、それとは相容れない恐ろしく非人間的な基準や常識によって行われている。

 ⇒ http://atsso.asablo.jp/blog/2009/07/01/4404461 人を見る目

 日本の裁判所や裁判官に「人を見る目」やその持ち主となることを期待するのはどうも無理そうである。司法試験に合格するような人には、合格しても検察官や裁判官を志すような人にはそんな人間らしい目の持ち主は期待できないと云うことだろう。もしそんなことはない、それくらいの目は持っていると主張する人がいれば、裁判所がこれまで再審の訴えに対しどんな対応をしてきたか、なぜ「真実の声に耳を傾けられ」なかったのか、傾けようとしなかったのか、その原因は何だったのか、どこに耳を貸さない・傾けない本当の原因があったのかをつぶさに検証し、その結果を国民に向かって堂々と公表して欲しいものだ。

 しかし新聞などで法曹関係者のコメントを読むと、裁判所にこうした期待を抱くのは無理だと思わざるを得ない。となればここはマスコミに期待するしかない。そもそもマスコミにも冤罪を許した大きな責任がある。マスコミは今こそ自発的かつ積極的に足利事件を始めとする戦後の冤罪事件の報道を洗い直し、自分たちがそれぞれの事件にどう対応したか、事件や裁判とどう向き合ってきたか、犯人や被告とされた人たちと面会しその話に一度でも耳を傾けたことがあるかをまず検証してみる必要がある。そうした自己点検が果たして行われるかどうか、どのくらいの規模になるのかを見守りたい。

 もしこうした努力を怠ったまま、相変わらず「警察への取材で分かった」とか「関係者への取材で分かった」などと記者発表や意図的に流される情報ばかりに頼ってこれまでと同様の安直な報道姿勢を続けるとしたら日本のマスメディアは早晩、国民の信頼も支持も失い消滅することになるだろう。今こそ警察官にも検察官にも裁判官にも期待できないが、しかしジャーナリストには「人を見る目」があることを見せて欲しい。それを検証記事で証明して欲しい。(つづく)