リヴ・タイラーと絵本--人気女優の子育て事情2012/09/26

 今週初め、見慣れない雑誌が一冊転送されてきた。雑誌のタイトルは"GOSSIPS"、一目見て若い女性向けと分かる体裁のファッション誌であった。が、それにしてはタイトルが刺激的である。表紙をめくると、米国発行の"US WEEKLY"と独占提携している旨の説明が目に止まった。同誌は米国のセレブ(celebrity)と称される人々の最新動向をファッションを中心に紹介する週刊誌である。届けられたのは、言わばその日本語版ダイジェストといったところだろう。但しこちらは月刊で、その2012.11号だった。

 ページを繰ると、セレブ達のさまざまなデニム姿が紹介されている中に、この手の雑誌には珍しい「セレブがオススメ! 秋の読書週間」と銘打った見開きページが出てきた。「読書好きのセレブたちがオススメする愛読書を大公開!」とも書いてある。そしてエマ・ワトソンは「星の王子さま」、ドリュー・バリモアは「夜と霧」、ナタリー・ポートマンは「アンネの日記」、ラナ・デル・レイは「思考は現実化する」、ウィル・スミスは「アルケミスト 夢を旅した少年」といった紹介に混じって、「もしゃもしゃマクレリー おさんぽにゆく」を勧めるリヴ・タイラーの写真があった。これが我が家に転送されてきた理由だった。

 リヴ・タイラーは「アルマゲドン」や「ロード・オブ・ザ・リング」シリーズに出演し日本の洋画ファンにも人気の高いハリウッド女優だが、彼女がユニセフ(UNICEF・国連児童基金)による子どものための活動(日本では黒柳徹子さんの活動が著名)や女性のための乳ガン撲滅運動(この活動には彼女の母や祖母も参加)に熱心に取り組んでいることは日本ではあまり知られていない。

 彼女がこうした活動に熱心なのは自分でも出産を経験し、実際に子育てをしていることの影響が大きい。2003年春にミュージシャンのロイストン・ランドン氏と結婚し、翌04年暮れ一子マイロ(Milo William)君に恵まれた。ランドン氏との生活には破局も伝えられたが、彼女自身の生い立ちから来る複雑な思いを子どもにだけはさせたくないという気持が強く、精一杯の子育てに努めている様子が"US WEEKLY"に掲載された親子のスナップ写真からもうかがえる。

 彼女はマイロ君との時間を大切にしていて、パーティにおける彼女のゴージャスな服装の解説を読むと、「今週、リヴは煌びやかなパーティーに出席して赤いじゅうたんの上でポーズをとるよりも、ジーンズ姿で息子のマイロ君とマンハッタンを散歩することに多くの時間を費やしました」といった調子のコメントを時々見かける。そんな彼女がマイロ君のために読んであげる絵本、親子で一緒に楽しむ絵本が"Hairy Maclary"(邦題:もしゃもしゃマクレリー)なのである。


 この絵本は今から29年前の1983年にニュージーランドで初めて出版され、主人公のマクレリー(テリア犬)はたちまち英語圏の子どもたちの人気者となった。(彼女自身も犬を飼っているからマンハッタン近郊のウェストビレッジに行けば散歩中の彼女に遭えるかも知れない)が、ただの可愛い犬の絵本ではない。それは手に取って実際にめくってみると分かる。日本人のもつ絵本に対する先入観や常識が根底から覆されてしまう。(詳細は2009年11月24日の記事で紹介)

 ⇒ http://atsso.asablo.jp/blog/2009/11/24/ ドッドさんの絵本(2)

 しかしそんな優れた絵本でも、キングスイングリッシュ圏内での普及に比べると、アメリカンイングリッシュ圏内での知名度はさほど高くない。絵本のセンスもどちらかと言えば英国的である。愛息子のために、この絵本に目を止めた彼女の知性や母性に感心するほかない。ハリウッドの人気女優だけでは終わらないことを、彼女を追いかけるカメラマンの目が確信している。何より、そうした母子の成長を見守るレンズの目が温かい。これが、多くのハリウッド女優や日本の雑誌メディアと異なる点だろう。

 この絵本の日本紹介は2004年である。通訳もされる翻訳家佐藤綾子さんのご尽力により出版にこぎつけた。翻訳には小生も参加でき、いまこうして絵本が縁となってリヴ・タイラーさん母子と繋がったことに感謝している。

 ⇒ http://www.usmagazine.com/hot-pics/matching-uggs-2011211 (お揃いのブーツで)

◆ドッドさんの絵本(2)2009/11/24

 ドッドさんの絵本に登場する動物たちはジャケットを着ていないし、ズボンも靴も履いていない。言葉をしゃべらないし、人間のように二足歩行することもない。みな普通の動物と同じように四つ足で動き回っている。しかし動物たちには表情があり、意思の疎通があり、絵本にはストーリーがある。

 不思議だが、ちゃんと物語になっていて、次はどうなるだろうと読者をワクワクさせたり、ハラハラ・ドキドキさせてくれる。これが動物の絵本といえば擬人化が当たり前の日本の絵本とは一番に違う点である。擬人化しなくても、ドッドさんは擬人化した以上に人間くさい動物たちを登場させることに成功している。

 マクレリーは、そんな犬たちのお話の主人公である。もしゃもしゃした黒い毛で全身がおおわれた小型犬で、種類はテリアと説明されている。もちろん飼い犬だから首輪をしているし、首輪には赤い札も付いている。おちびさんだが、これがどうしてなかなかの人気者である。仲間内でも、町の人にも何かと気になる存在なのだろう。毎回あちこちで小さな騒動を巻き起こして読者を楽しませてくれる。(つづく)

◆ドッドさんの絵本2009/11/22

 もうすぐまた師走がやって来る。日本では厳しい冬の季節を迎えるが、南半球にあるニュージーランドはこれからが夏本番である。茶目っ気たっぷりの愉快な犬6匹が繰り広げる楽しい絵本の作者ドッドさんはここで生まれ、今も北島のタウランガに暮らしている。小さい頃から絵を描くのが大好きで美術学校に学び、クイーンマーガレット・カレッジで美術の先生をしていた。そんな彼女が絵本の制作を手がけるようになったのは、猫の絵本に入れる挿絵を頼まれたことがきっかけだった。

 掲載したのは1983年に発表した第1作目 Hairy Maclary from Donaldson's Dairy (1983) のお話の「転」にあたる箇所の挿絵(一部分)である。この場面は登場人物(?)となる6匹が勢揃いし意気揚々とお散歩を続けるうちに、とうとう町外れまで来てしまったという箇所にあたる。どの挿絵にもドッドさんらしい細やかな仕掛けがあって幼い子どもでも十分楽しめるようになっている。しかもこのページには少し大きな子どものために次の場面を予測させるようなちょっとワクワクする工夫も施されていて、読んでもらうとき子ども達が息を潜めて見守る箇所でもある。(残念ながらそれらの工夫や仕掛けは掲載した部分の枠外にある)

 この作品はいきなり大ヒットし、ドッドさんは大学を辞めて絵本の制作に専念することになった。といっても次から次へと描きまくる流行作家ではなく常に丹念な仕事を心がけ、発表は律儀に一年一作を守っている。そしてどの作品も永く英語圏の子ども達に読み継がれるロングセラー絵本となった。主人公はマクレリー、画面の右端にお尻だけ見える小さな黒い犬の名前である。(つづく)

 *邦題:もしゃもしゃマクレリーおさんぽにゆく(あづき、2004.4)

◆くりのきむらのゆうびんやさん2009/09/19

 この季節になると決まって思い出す絵本があります。と言っても自分の作品ですから、ちょっと格好のつけすぎですね。実はどうしても腑に落ちないことがあるのです。

 この絵本を出版したのは2004年9月です。今年の夏に政界を引退した小泉純一郎氏がまだ総理大臣をしていた頃の出来事です。その頃の小泉内閣は郵政民営化を目標に大奮闘中でしたが、自民党内では民営化反対の抵抗勢力と呼ばれる人たちが多くて苦戦を強いられていました。ちょうどその頃に完成した絵本です。もちろん郵政民営化とは何の関係もありません。

 ストーリーは動物たちが助け合って暮らす「くりのきむら」という小さな村で郵便局を開き郵便配達もしている、うさぎさん夫婦の機転を利かせた働きぶりを扱ったものです。大雨による災害と、栗の実のご馳走がいっぱい登場します。孫に会いたくて仕方ない狸のお婆さんとか、長生きをしすぎた亀のおじいさんも登場します。絵本というよりも、本格的なストーリーも楽しめる幼年童話に近い内容といったところでしょう。

 ところが、どういうわけか図書館も小学校もさっぱり買ってくれません。買ってくださるのはもっぱら個人の方が中心でした。郵便配達を定年でお辞めになるという方がストーリーに感激して、まとめて買って近隣の児童館や保育所に寄付してくださるというようなことがいくつもありました。

 しかし、どういうわけか今に至るまで、全国に4000近くもあるという図書館ではその数分の一も購入してくれません。ある時、疑問に思った知人が東京郊外の町の図書館で尋ねました。

「『くりのきむらのゆうびんやさん』という絵本を読みたいのですが…」すると返ってきた答は何と、「出版社はどこですか?」だったそうです。
知人は即答できなかったので、帰宅して調べ、電話で伝えたところ
「ああ、そういうあまり聞かない出版社の本はウチでは買いませんね。」と、自信たっぷりの返事だったそうです。
「えっ……?! ……?!」
「大切な市民の税金を使っているわけですから…。」

 図書館にはマンガや推理小説や文庫本なんかもたくさん入っているけど、みんな出版社が有名だから構わないのか。そんなものなのか図書館って、と知人はそのとき初めて、市役所や町の図書館で働く人たちの仕事の秘密というか秘訣を知ったそうです。

 でも何だか変ですよね。

◆駄々を捏ねる政治家達2009/09/07

 幼い子供が自分の思い通りにならないとき、親や周囲の近しい大人に我が儘放題を言ってぐずぐずしてみせることを「駄々を捏ねる」という。「捏ねる」のそもそもの意は粉や土に水などを加えて練ることだが、転じて無理・難題などをあれこれ言い続ける意となった。「駄々」の後に子供が好きな遊びである捏ねるを使うことで、これが知恵がつき始めた幼少期の子供に特有の現象であることを表している。拗(す)ねる、ともいう。この場合、駄駄あるいは駄々の文字に特別な意味はなく、単に「だだ」という表現・言い回しを視覚化するための当て字に過ぎないと考えるのが一般的である。
 言葉の起源は江戸時代初めまで遡ることができる。用例を見ると当時は、どうやら激しく地面を踏みつけて怒りなどを表す意に用いられた語と推測される。しかし江戸時代も中頃になると現在と同じく、子供が甘えて我が儘を言う意に変化したことが分かる。以来300年間ずっと子供の我が儘を表す代表的な言葉として使われてきた。
 ところが2009年に入り、再び大人にも同様の現象が見られるようになった。今のところ確認された事例は次の3件である。まず7月の東京都議会議員選挙で大敗した自民・公明両党による特別委員会設置反対を口実にしての臨時都議会の招集反対と流会騒ぎ、次いで8月30日の横浜市長選挙で敗れた自民党横浜市議団が見せた林文子新市長に対する挨拶受け入れ拒否、さらに国政レベルにおいても特別国会を前に議員控室の割り振り・総入れ替えをめぐって抵抗を続ける自民党国会対策委員会といった具合で、いずれも男性中心の保守党政治家による駄々っ子ぶりが目に付く。そのため拗ねるといった、大人の女性に見られるような色っぽさは感じられない。地方ではなく東京横浜で起きていることも特徴だろう。
 間もなく、先月30日の総選挙で選ばれた議員による特別国会が始まる。衆議院では正副議長の選出や委員長人事などが予定されている。歳費という高額の国税を消費し税金の配分に絶大な権力を振るってきた旧政権与党の政治家達がこれらをめぐっても同様の騒ぎを引き起こすか、未練がましい駄々っ子ぶり・幼児化現象をいつまで続けるか、その諦めぶりが注目される。

○欅の幹の蝉の羽化--盛夏2009/07/20

 近所の子ども達が「蝉の羽化が始まったよ」と教えてくれました。つい先ほど夕方5時過ぎのことです。樹齢200年を超える欅の大木の地上1メートルほどの高さまで這い登った蝉が、ここを産所と殻を脱ぎ捨て始めていました。子ども達は遊んでいる途中で地面から這い出す蝉に気づき、ずっと観察を続けていたのです。嬉しそうに、はしゃぎ回っていました。

  日は西に欅の幹の蝉の羽化 まさと

◎一歳児(7)2009/07/18

 子ども達の性格がいつどこでできるものか、そのことに保育園や保育士がどのくらい関わるものか、いつも不安を抱えながら仕事をしている。子ども同士を眺めて比べることは、その目的を誤ると大きな問題を引き起こす。親が自分の子どもと他人の子どもを比較するのはあまり意味がない。あるとしたら、それは自分の顔を鏡で見て点検するくらいの意味だろう。優劣のための比較は、子どもにも自分にも不幸をもたらしかねない。
 しかしだからと言って全く無関心なのも困る。最低限、自分の子どもを見守ることと思いやることくらいはして欲しい。こういう話は時に若い母親に対する非難とか批判と受け取られかねない。今どれくらい若い母親が大変な状況におかれているか、厳しい状況にあるか知らない者の言うことだと叱られそうだ。それでも、仕事を優先して子どもはその次というのは普通ではない。おかしいと思う。
 朝、オムツを汚したままで保育園に子どもを預ける母親がいる。そのことに気づかないとしたらこれも問題だ。気づいていて、それを黙っているのも人間としては問題だ。アトピー性皮膚炎で見るも可哀想なほど顔から首から腕からそこら中が腫れたり、ただれている子どもを時々見かける。その子どもを朝、「ハイ、これ薬です」と、それだけ言って預けてゆく母親もいる。こういう話は挙げ出したらきりがないほど目に付くし、報告される。保育園としてどこまで踏み込んで対応すべきなのか迷い続けている。
 もっと気になることがある。大勢の子どもを見ていると否応なしに発達遅滞や異常行動の問題にぶつかる。長年の経験で、歩き始める時期や言葉を話し始める時期にかなりの差があることは知っている。だからさほど心配しない。それは子どもの表情や周囲への反応を見ているとだいたい見当がつく。この点だけは恐らく母親よりも保育士の方が気づくのが早いだろう。毎日接していると勘のようなものも働く。
 問題は気づいた後である。親とのよほどの信頼関係がないと迂闊なことは口に出せない。連絡帳に何かそれらしいコメントがあるとか、親の方から何かありませんかと聞かれれば、遠回しに家での様子を聞いてみるといったことも可能になる。しかし朝は忙しいから親の側にその準備がないと無理だし、夕方も時間が遅くなると担当者の都合もあってなかなかすぐには機会をつくれない。
 そんなときは毎日毎日、昨日の感想は何かの間違いではないか、思い過ごしではないか、きっと取り越し苦労だろうと考えたり、表情や反応が昨日よりもよくならないかと精一杯だっこしてあげたり、おんぶしてあげたり、遊んであげたりして見守るしかない。そして、もう少し自分の子どもと向き合って一緒に過ごして欲しいと願うしかない。(終)

◎一歳児(6)2009/07/15

 日本人の寿命が驚異的に延びた一方で、見かけは普通でも排泄の感覚が麻痺してしまうお年寄りが増えた。自分では小便や大便の始末ができないため、どうしても周りに苦労を掛けることになる。そのお陰なのか、あるいはその逆なのかは知らないが、近頃のオムツは至極快適にできている。付けて快適なだけではない。オムツをしていることが分からないくらいに薄い。初回の記事には書かなかったが、竹ちゃんの子どもの年齢が分からなかった理由のひとつはこのオムツの薄さにある。顔立ちが幼児を思わせ、お尻もすっきりしているとなると、どうしても3歳ぐらいの子どもを想像してしまう。
 子どものオムツの進化はこれだけに止まらない。最近は乳児でもプールに入れて遊ばせる。昔だったら何も付けずにすっぽんぽんだったと思うが、今は専用の水着オムツがある。思わずお漏らしをする子も多いはずだが、プールを汚すことはない。商売熱心なスイミングスクールが乳児の時から水に慣れさせましょう、水に親しみましょうと顧客増やしに努め、それに合わせて開発した商品らしい。
 しかし決してよいことばかりではない。知人の幼稚園長は入園の条件にオムツの非着用を挙げている。年少組に入る3歳までに排泄のしつけを完了させてくださいと親に要求している。ところが、この快適オムツが災いになって、しつけがうまく進まない事例が出ているという。幼児本人がオムツをいやがったり、オムツに大小便をしたら気持ち悪がることが排泄のしつけの要点である。子どもがそう感じ始めれば程なくしつけは完了する。睡眠中もお漏らししまいとするから眠る前にトイレへ行く。
 ところが普通のパンツと変わらない履き心地があって、お漏らししても不快感がない、そんな便利なオムツを使い出したらいつまでたっても卒業する必要もないし、卒業しようとも思わなくなってしまう。お年寄りもオムツを付けるまでは嫌がり激しく抵抗もするが、一度その使い心地を知ってしまうとあとは坂を下るように羞恥心も失せ、排泄の感覚も一層麻痺し、益々老いてゆくという話もある。
 子犬を持ち出すのはどうかと思うが、あんな小さな幼い犬でさえしつければ家の中では必死になってオシッコを我慢する。同じことが人間の子にできないはずがない。あまり便利な新製品に頼るのは結局、しつけの手を抜くのと同じことになる。個人差はあるにしても、オムツが取れる取れないの差は何よりも、幼児本人が自分が出した汚物をどう感じるかだといことをもっと知る必要があるだろう。(つづく)

○スグリ熟して--盛夏2009/07/15

 先月、スグリの写真を掲載したことがある。まだ青々とした文字通りの酸っぱい実が生っているものだった。それから一月近く経って、また同じ場所を訪れる機会があった。もうないだろうと思って覗いたら熟したスグリの実がそのまま枝に付いていた。昔は、こんなに熟するまで放っておかれることはなかった。どんなに人目に付きにくい場所と思っても必ず誰かが見つけて食べてしまった。
 どうやら最近の子ども達はスグリの実などに興味がないらしい。その原因が学校や家庭による道草の禁止にあるのか、それとも塾通いや稽古事に忙しくて道草をする暇がないのか、気になった。翌日その話を知人にしたら、「それは違うよ。子どもがいないだけだよ」と笑われた。そう言えば前回も今回も、子どもの姿はただの一度も見なかった。

 ⇒http://atsso.asablo.jp/blog/2009/06/22/ スグリ酸っぱし

◎一歳児(5)2009/07/14

 夕方6時を過ぎると、保育園では補食を摂らせる。ちょっとした、おやつのようなものである。乳児の場合は粉ミルクを溶いて飲ませるが満12ヵ月を過ぎると、こちらもおやつに切り替える。心配性の保育士の中には一週間分のメニューをお昼と補食に分けて保護者に示し、食べ慣れないものが混じっていないか、過去に問題を起こした食品がないか、よく点検して欲しいと頼んでいる。
 しかし食材に注文が付いたという話は滅多に聞かない。多くの親はそれどころではない、というのが実情のようだ。乳児ではないが、朝からカレーの臭いを漂わせて保育園へ来る二三歳児もいる。顔見知りの子はたいてい「○○せんせー」と駆け寄って来て頬ずりなどをしてもらう。だから朝、家で何を食べさせてもらったかがすぐ分かる。私立の中には園長が信念をもって親の指導に努めるところもあると聞く。だが、公立の場合は何事も大過なくが基本である。家でどう過ごすかは役所の責任範囲ではない。何も食べてこないよりはましだろう、と近頃は半ば諦めている。
 さて例の固太りの子が目出度く1歳の誕生日を迎えた日のことである。その日から補食も固形物に替わった。その日の補食は小さなお煎餅が2枚だった。1枚を口に入れ舐め回していると、溶けていつの間にかなくなってしまった。すぐに、もう1枚を口に入れた。その間、1分もかからなかった。その子は3枚目をねだった。「もうないの」と言っても承知しなかった。納得させるために、そこら中の引き出しを開けたり、箱をひっくり返したりして見せた。しかし承知しなかった。
 物足りないのだ。胃袋に消化液があふれ、口に唾液が溢れ出て身体が納得できない様子だった。大きな身体の子どもに味だけは一人前の、しかし量としては中途半端なものを食べさせるのは罪である。こちらも迂闊だったが、事前に気づいたとしてもどうすることもできない。決められたとおりの時間に、予め準備されたものを決められた通りの手順で食べさせるしかない。大人でも海老煎餅などは一枚食べると、止めどなくいつまでも食べたくなって困る。最後は「ゴメンね、もうないの」と何度も謝り、抱きあげ抱きしめて補食の部屋を出た。(つづく)