◎四月馬鹿・万愚節(2)2010/04/02

 ユーモアに欠け、最近は民放並みのドンチャン騒ぎ番組局に衣替えした感のあるNHKのために参考になりそうな hoax をひとつ紹介しておこう。スウェーデンラジオ Sveriges Radio(略称SR)が1962年に放送したテレビニュースの話である。北欧の国スウェーデンの放送局事情はラジオ放送開始の時期や公共放送中心に始まったことなど日本の場合とよく似ており、英国BBC がモデルと言われる。テレビ放送は日本より僅かに遅れ、1956年に始まった。

 紹介する愉快なスウェーデン流 hoax の放送は、その6年後に行われたものである。当時のスウェーデンにはテレビ放送はまだ1チャンネルしかなく放送は全てモノクロだった。だがSR が流すテレビニュースへの期待は大きく、信頼も高かった。多くの国民が見守る中、April Fool's Day のニュースはテレビをカラーで見るための画期的な新技術が開発されたと真顔で伝えた。そして局の技術者であるステンソン氏を登場させ、視聴者が自分の手で画面の色をカラーに改造するための方法を実演して見せた。ナイロンストッキングを引っ張ってテレビ画面の上に被せるという実に単純なものだったが、何千もの人々が真に受けてこの方法を試すことになった。

 この話が興味深いのは、スウェーデンにおけるカラー放送の開始がそれから8年後の同じ4月1日だったことである。この hoax が4月1日用の単なる思いつきではなく、将来に対する一定の見通しの下に実行されたのではないかとさえ思われてくる。仮に1962年当時は思いつきであったとしても、SR はこの放送を忘れず、8年後にカラー化の責任を果たしたとも云えるだろう。


 昨日紹介した英国BBC の対応も振るっている。日本人には素っ気ないとも、さらに人を食ったとも映るかも知れない。だがその非難は妥当ではない。信じて疑わない相手への配慮と思いやりを忘れてはいないのである。それだけ hoax づくりの歴史が長いということであろう。自分でもスパゲッティの木を育ててみたいと熱心に問い合わせる視聴者に対し、BBC の担当者はそうした熱意に配慮するかのように「トマトソースの缶を開け、そこにスパゲッティの小枝を差しておくとよいでしょう」と伝えている。こうしたユーモアがさりげなく飛び交う大人の国になったら、さぞかし日本もギスギスしなくてすむだろうに。

 最後に漢語表現にも触れておこう。万愚節は中国における言わば漢訳語とも云うべきものである。だが日本語の四月馬鹿とは違って、April Fool's Day からつくられた言葉ではない。もうひとつの呼称である All Fool's Day の直訳とするのが至当である。見出しには掲げなかったが中国には愚人節という言葉もあって、これが四月馬鹿の訳語に相当する。

 なお節は祝日の意である。戦前生まれの日本人にはどこか懐かしく聞こえる天長節は天皇誕生日の旧称だが、かつての中国では天子の誕生日を万寿節と呼んだ。万人がすべからく寿ぐべき日の意である。これに倣って万愚節は万人が一日だけ愚かになる日とでも解したのであろう。裏返せば残り364日は賢く生きろと云うことでもある。四月馬鹿という訳語にはこうした深みの感じられないことが惜しまれる。(了)

  ホルモンの注射よく利く四月馬鹿 北村真生

○寒桜・寒緋桜・緋寒桜・緋桜・冬桜2010/03/19

 今年の1月末、このブログで河津桜の紹介をした。その際、これを「緋寒桜と早咲き大島桜が自然交配して誕生した品種」と記した。花びらの薄紅色がソメイヨシノなどに比べてかなり濃いこと、開花の時期が大変早く寒中には咲き出すことで知られ近年、人気も普及も急上昇の桜である。

 こうしたことの影響もあるのか、このところこの「緋寒桜」によく似た言葉で「寒緋桜」という表現を目にしたり耳にする機会が増えている。文字の言葉に敏感な人なら、これらふたつの言葉の差が気になって仕方ないだろう。ふたつとも百年近く前につくられた辞書を開いてみても載っていない。どうやら、どちらも20世紀も後半になって使われ始めた言葉ではないかと思われる。しかし「緋桜」ならそうした古い辞書にも紹介されている。


 緋桜の特徴は第一に花びらの色が一般に知られるソメイヨシノより特に濃い緋色をしていることにある。呼称に緋という文字が使われるのはそのためだろう。元々は台湾や中国南部に自生している桜である。花びらの色の濃さだけでなく、その形も咲くときの姿も花の散り方も他の桜とはかなり異なったイメージをもつ。これが沖縄に伝わって琉球寒緋桜を生み出し、さらに鹿児島に伝わって薩摩緋桜を生み出したのだろう。

 ところで俳句では寒中に咲く桜を一般に冬桜と呼んでいる。句を詠む際に品種としての寒桜と冬桜とを区別したり、その差を意識する人は希だろう。だが、植物名としてのフユザクラは花びらの色が白に近いこと、花びらの小さいこと、開花が11~12月と春の年2回あることなど他の桜には見られない特徴を有している。これらの特徴は山桜に豆桜が混じって生まれた雑種特有のものだろう。

 これに対し寒桜は文字通り寒中に咲く早咲きの桜の意である。既に紹介したように花びらの色を緋桜から受け継いでいるため、形は通常の桜と同じ五弁でありながらその色が他の桜より格段に濃く、きれいな薄紅色を呈する。つまり寒緋桜も緋寒桜も、誰の目にも分かりやすいこの花びらの色を強調し、かつ世間に知らしめるために使われ始めた呼称と云うことができる。


 記憶では緋寒桜の方が先に用いられたようにも思う。だが確たる証拠があるわけではない。但し初めてこの言葉を耳にしたとき「ヒカンザクラ?  あれ、ヒガンザクラの聞き間違いかな…」と思ったことは確かである。

  玉垣をぬかづきめぐる冬桜 酒井黙禪

 この句の冬桜は寒緋桜ではないだろうか。「ぬかづきめぐる」とした表現の額突くが釣鐘型に下がるこの桜の花の特徴を巧みに表している。近ごろ、寺社の垣根に沿って植えられた小木の寒緋桜はよく見かける光景でもある。

◎季節の言葉 桃の花2010/03/17

 江戸の端唄に「梅は咲いたか桜はまだかいな…」と歌われるように、日本人のこの季節における花の関心は早春の梅に始まり梅が一段落すると次は一気に桜へと移ってしまう。ふたつの花の中間期に咲く桃の花にとっては定めし不本意なことであろう。但し桃には極上の甘さを誇る大粒の実という強い武器があって梅の庶民性やサクランボの希少性を寄せ付けない果物としての堂々たる顔をもっている。

 そのせいか、花桃と呼ばれるもっぱら観賞用で紅色が濃い八重咲きの桃の花や紅白咲き分けの源平桃なども知られている。この辺が果物となる一重咲きの桃とそうでない観賞樹との差だろうか。いずれの場合も花びらの色は桃色と呼ばれる薄紅色が主流であり、桜とは逆に白い花びらのものは少ない。それに単に白いだけの桃の花では有難味も薄いだろう。


 桃の産地としても知られる山梨県甲府盆地の東南側斜面が桃色の絨毯にびっしりと敷き詰められた光景を目にしたことがある。高校生の頃、小太りの漢文教師が涎を垂らしそうな顔で話してくれた桃源郷とはこのような景色を云うものかとそのとき思った。桃は仙果であり、仙界に暮らす仙人の不老不死の秘密のひとつがこの桃にあるのかも知れないとそう考えた。

 夏、収穫期を迎えた桃の実が枝からたわわに下がる様子を見ると古代中国の詩人たちがこの果物に清らかだけではない底知れぬ不思議な魅力を感じたであろうことがよく分かる。桃夭(とうよう)なる漢語にはそうした桃の実にも喩えられる年頃の娘の若く瑞々しいさまと、桃を見た人を強く惹きつけて放さない力のようなものまでが含まれている。だが現代は、そもそもこの語の存在さえ知らぬ人が普通だろう。

  桃つぼむ幼稚園までつき添ひし 室生犀星

 蛇足だが、犀星の句に使われた「つぼむ」は「つぼまる」とか「すぼむ」など壺に由来する動詞の「窄む」ではない。蕾に由来する方の動詞「蕾む」である。耳で聞けば音は同じ「つぼむ」であっても意味するところはむしろ逆に近い。前者では咲いている花が閉じるの意に変わってしまう。ここはもちろん後者の、蕾ができるとか蕾が膨らんでくるの意である。


○玉縄桜(覚書)2010/03/13

 昨日、写真を載せた玉縄桜についての話です。発見から40年も経つのにさっぱり広まらないと嘆く声を耳にします。それでもインターネットのお陰でしょうか、今年はあちこちのブログに顔を出すようになりました。但しブログには狭い範囲の見聞や、根拠不明の伝聞を書き散らしただけに過ぎないものも見かけます。この品種の育ての親でもある神奈川県立フラワーセンター大船植物園は、こうした点についてもっと積極的に情報の発信に努めるべきです。インターネットがその武器になることは言うまでもありません。


 玉縄桜は1969年(昭和44)に上記の大船植物園で発見されました。ソメイヨシノの自然交雑による実生の株から選抜・育成されたものです。花の色や開花時期から見てソメイヨシノと大寒桜(おおかんざくら)などカンザクラ系の交配したものだろうと推定されます。しかし例えば大寒桜も交配種ですが、それが寒緋桜(かんひざくら)と山桜の交配なのか、寒緋桜と大島桜(おおしまざくら)の交配なのかは今ひとつはっきりしません。玉縄桜がこうした早咲き系の桜のいずれから最も強く特徴を受け継いでいるか、今後の研究が待たれるところです。


 ところで玉縄桜という呼称が品種登録されたのは1990年(平成2)4月6日です。観賞樹としての登録番号は2263、品種登録の有効期限は18年でした。育成権は1995年4月7日に消滅しています。興味深いのは品種登録出願時の名称が「柏尾桜」だったことです。しかしこれは「品種登録できない品種名称」とされる3つの名称のうちの「出願品種に関し誤認を生じ、又は識別について混同を生じる恐れのある品種名称であるとき」に該当する可能性が高いとして再考を求められ急遽、現在の名称に変更されました。

 最初の案の「柏尾」は大船植物園のすぐ隣を流れる柏尾川のことです。藤沢市内に入って境川と合流する二級河川で、境川は江ノ島のある相模湾に流れ込んでいます。これが、電卓・時計・カメラなどのメーカーとして知られるカシオ計算機株式会社の CASIO と誤認・混同されるのではないかと懸念されたようです。後者のカシオは創業者一族の名字である「樫尾」に基づくものですから、漢字で書けば十分に区別が可能なはずの名称です。この辺が品種登録の難しい点でしょう。


 もうひとつ興味を覚えるのは品種登録時における玉縄桜の開花が育成地である鎌倉市の場合で3月中旬とされていたことです。現在はこれより遙かに早くなっています。今年、大船植物園では2月下旬に見頃を迎えました。なぜ2週間以上も早まっているのか、この点も他の桜の例や地球温暖化の問題も含めて大変気になるところです。(了)

○こぶし咲く2010/03/04

 このブログもあっという間に1年以上が過ぎてしまいました。前に書いたという確かな記憶はあっても、それがいつだったかを思い出すことが段々難しくなってきました。そろそろどこかで整理をしておかないと、頭の中もブログの中も屑籠同然・反故同然の状態になりそうです。

 今日は午後になって漸く日射しを拝むことができました。また暖かさが戻ったせいか、あちこちから「こぶしの花が咲いたよ」という知らせが入りました。思い起こせば、この欄で最初に「こぶし・拳・辛夷」を書いたのは昨年の3月のことでした。ちょうど、お彼岸の頃ではなかったかと記憶しています。記憶が間違っていなければ、その次くらいに「春さらば」が掲載されたはずです。

 ブログに参加したのは国語辞典のあり方に強い疑問を抱いたことと関係があります。前々から、日本語の権威と持て囃される「広辞苑」の内容が気になっていました。改訂の方針が妙ではないかと呆れていました。世間が崇めることとの懸隔がありすぎると感じていました。都合4回にわたって掲載した「こぶし」の記事は、そうした疑問の一例に過ぎません。

 ⇒ http://atsso.asablo.jp/blog/2009/03/24/4201451 こぶし・拳・辛夷(1)
 ⇒ http://atsso.asablo.jp/blog/2009/03/25/4202634 こぶし・拳・辛夷(2)
 ⇒ http://atsso.asablo.jp/blog/2009/03/26/4204426 こぶし・拳・辛夷(3)
 ⇒ http://atsso.asablo.jp/blog/2009/10/12/4629074 こぶし・拳・辛夷(4)


 初めの頃はどんなテーマも全て文字のみで綴っていました。春に書いた3回分にも写真は載せていません。そこで今日は撮影して来たばかりの咲きたての「こぶしの花」を追加で掲載します。撮影は3個所で行いました。それぞれ別の樹木の写真です。蕾が大きく開いていたのはそのうちの若木2本でした。大木の開花にはあと一日か二日、暖かい日射しが必要なようです。

  黄昏の風吹くばかり花辛夷 松沢 昭

☆熟語を読む 熾烈2010/02/27

【かな】 しれつ
【語義】 勢いが盛んで激しいさま。
【解説】 「熾」も「烈」も火の勢いが強く盛んなこと。ふたつを重ねることで、火の勢いが極めて激しく盛んに燃えるさまを表す。転じて気性や感情また競争や闘いなどの激しさを表すときに用いられる語となった。
【用例】 こうした日蔭者の気楽さに馴れてしまうと、今更何をしようという野心もなく、それかと言って自分の愚かさを自嘲するほどの感情の熾烈さもなく、女子供を相手にして一日一日と生命を刻んでいるのであった。(徳田秋声「縮図」)


◆りんごの蜜は甘くない2010/02/21

 いつの頃からか「蜜入り」を謳ったりんごが登場するようになった。子どもの頃に食べた国光やインドりんごには、そうしたものはなかったように記憶する。秋に訪れたドイツの町中でときおり若い娘さんがりんごを丸かじりする姿を目にした。試しに買い求めてみたが、日本風に言えば青りんごに近く、微かな甘みと渋みの交錯した比較的あっさりとした味わいだった。ホテルの朝食にもらったりんごも同じようなもので、どこか遠くで渋みを感じるようなところがあった。


 日本では「蜜入り」りんごの登場以来、りんごの値打ちはこの蜜の有無や多寡で決まるような印象がある。嗜好は民族や風土によっても異なるだろうから一概には云えないが、戦後間もなくの砂糖が貴重品だった時代が偲ばれる。砂糖も蜂蜜も手に入らず、甘味料はもっぱらサッカリンで間に合わせた時代が長く続いた。そんな時代に育つと、どうやら「蜜入り」と聞いただけで甘いと感じてしまうものらしい。その上、輪切りにされた芯の周りには蜜色の模様まで見えるのだから、もうどこにも疑う余地などなかった。

 ある時、四つ割りにしたりんごの芯を取り除き、さらにその周辺部にある蜜色の部分だけをえぐり取って食べたことがある。さぞかし蜜の味がすると思いきや、これがさっぱり味がしないのである。甘くも何ともなかった。騙された気がした。以来、例えばわざと収穫を遅らせて大々的に「蜜入り」を謳った無袋りんごを10キロ箱などで大量に送ってもらうことの愚にも気づくようになった。まさに過ぎたるはなお及ばざるが如しの格言どおりだった。

 その理由を解説したページを見つけたので紹介しよう。説明には「蜜自体はさほど甘くはない」とあるが、要は収穫が遅れている間に急に寒くなり、光合成によって生じた甘みの源であるソルビトール(一種の糖アルコール)の果糖などへの変換が止まってしまうために起こる現象と解される。蜜のように見えるものの正体は何あろう、糖類への変換が止まり細胞と細胞の隙間に溜まったソルビトールがせっせと集めた多量の水分だったのである。収穫期と糖度の関係だけで言うなら、気温の下がる直前を見計らって収穫したものが最上と思われる。だが現実は俗に云う「欲をかけば何とやら」も混じっているのだろう。(つづく)

☆読めますか この漢字052010/02/21

☆札
1.有名な神社でもらった御札をお守りにしている。
2.財布には新しく発行された御札が何枚か入っていた。
3.いくら謝っても許してもらえず一札入れろと要求された。
【解説】
1.おふだ:古来、災難や疫病から身を守ってくれると信じられている紙片。神社や寺院が信者向けに発行する。神仏の像や各種の呪文などが記され、袋に入れて身につけたり、柱や壁に貼ったりして用いる。護符、御守り、護摩札とも呼ばれる。
2.おさつ:紙幣のこと。政府など絶大な権力を持った機関が発行する。紙片を用いる点はおふだと変わらないが、金額が明記されていること、発行機関による金券としての保証があること、偽造が禁じられていることなどが大きく異なる。
3.いっさつ:証文のこと。個人の責任で約束したり保証したりした事柄について、後日のためにその内容を書き記したもの。札はやはり紙片を意味するが、作成者が個人である点が他のふたつとは大きく異なっている。

  明治元年(1868)に時の政府が発行した日本最初の政府紙幣・太政官札(だじょうかんさつ)

◆リンゴの話2010/02/20

 先月、「季節外れ」の話をしたばかりである。今頃リンゴの話を持ちだすのは典型的な季節外れと言われそうな気もする。だが青森県りんご果樹課の資料を見ると、今や青森りんごの出荷は一年を通して行われている。しかも1~3月は出荷量の最も多くなる時期である。1月2月3月と尻上がりに増えている。(2006年産実績)

 ⇒http://atsso.asablo.jp/blog/2010/01/26/4839152 季節外れ
 ⇒http://atsso.asablo.jp/blog/2010/01/27/4839991 季節外れ 2
 ⇒http://atsso.asablo.jp/blog/2010/01/28/4841310 季節外れ 3
 ⇒http://atsso.asablo.jp/blog/2010/01/30/4843865 季節外れ 4

 たかがリンゴと思ってはいけない。先月も書いたが、ことリンゴに関する限り食卓における季節感はもはや過去のものとなりつつある。花はともかく季題としてのリンゴの果実は、よほどの工夫や精進がないと佳句には結びつかない。難しい時代を迎えている。


 されどリンゴはりんごであり、林檎である。第一に、その名称からして謎だらけではないか。現代中国では apple は林檎とは呼ばない。どうも苹果 (ping guo) と呼ばれるようだ。耳で聞けば似ている気もするが、漢字・林檎の出自はどうなっているのか気になる。第二に、リンゴが一年中口に入るようになったきっかけは保存技術の進化だろう。さすれば、そこから何か学ぶことがあるはずではないか。

 第三に、昨今の学校教育は経済や金融など money に関わることも積極的に子ども達に教えているとか。それならばリンゴの流通は格好の教育材料となるはずだ。収穫されたリンゴがどのような経路をたどって食卓まで届くのか、知ることも悪くない。何よりリンゴは日本人にとって大変馴染みの深い果物である。商売や経営の基本を学んだり、食の安全について考えたりする上で身近な素材となるだろう。ということで、明日からリンゴについて考えてみることにした。(つづく)

☆熟語を読む 未曾有2010/02/20

【かな】 みぞう
【語義】 過去にその例がないこと。非常に珍しいこと。
【解説】 漢文表現であり、訓読みすれば「未(いま)だ曾(かつ)て有(あ)らず」となる。中国・戦国時代の墨家の思想を説く「墨子」に「緩賢忘士、而能以其國存者、未曾有也」がある。意訳すれば「政策にぴりっとしたものがなく防衛も余り重視されない、そういう国が長く続いた試しがない」と云ったところであろう。曾ては過去のある時、昔の意である。現代では後に否定表現を添えた「かつてない」の言い方が一般的であり、「かつてないほどの大勝利」「いまだかつて負けたことがない」のように用いられる。なお未曾有は漢音ではなく呉音の言葉であり、文字に忠実に付せば「み・ぞう・う」となる。が、それでは発音しにくいため「ぞう」が「ぞ」と短縮され、この音が慣用されている。
【用例】 おそらくこれは盛典としても未曾有、京都から江戸への御通行としても未曾有のことであろうと言わるる。(島崎藤村「夜明け前」)