インフルエンザA型2013/01/19

備忘録より

 1月11日(金) 朝、いつも通り電車で出かける。17時半帰宅。今週は休み明けのせいか喉に負担を感じる。夕食後、「劔岳 点の記」を観る。

 1月12日(土) 午前中、クルマで外出。郊外店で赤玉土を求める。店内は客が少なく静か。昼過ぎから近隣の新年会。出席が定刻をだいぶ過ぎてしまい、食べ物の量がだいぶ少なくなっている。オードブルや菓子類は豊富。ビールを飲みながら親しい友人・知人と談笑。夕方までに250ml缶3本を空ける。18時過ぎ帰宅。机に向かっていると、背中の辺りが妙にぞくぞくする。夕食は軽めにし、暖かくしてすぐに床に就く。咳が少し出始める。

 1月13日(日) 咳が段々ひどくなり、発作が始まると苦しいほど。背中のぞくぞくも止まらないが、ほかにこれといった変化もない。喉も痛くないし、鼻が詰まるわけでもない。終日、机に向かう。夕食後、入浴。

 1月14日(祝) 夜明け前から雨の音がする。目を覚ますと汗をぐっしょりかいている。咳の発作は収まり、時々出るくらいの症状に和らぐ。10時過ぎ雨が霙に変わる。雨戸を閉める。昼過ぎ、外の雪景色に気づく。風の中を雪が時に激しく時に優雅に舞っている。そのまま降り続き、夕暮時には数センチかもっと積もったようにも見えたが再び雨に変わって、枝に降り積もった雪はあらかた姿を消してしまう。終日、机に向かう。時々悪寒。

 1月15日(火) 今朝も布団の中で汗をぐっしょりかいていた。朝のうがいをすると、やや黄色の痰が少し出る。消え残った雪が凍り大渋滞が続く悪路の中を棟梁御大がわざわざお出まし。屋根周りの修繕について打ち合わせる。昼食後休息したが悪寒が続くので体温を測ってみると37.4度もある(14時50分)。どうやら感冒に罹ったらしい。昨年10月には診療所でインフルエンザの予防注射をしている。今度は何の雑菌だろうか。
 急ぎ近所のクリニックを訪ね診察を受ける。診察後、若先生からインフルエンザの検査を受けるよう勧められる。10分ほどで結果が分かるとのこと。先週あたりから急にインフルエンザ流行の兆しが見られるらしい。喉にも少し発赤があるとのこと。検査キットが用意される。袋を破き、先に脱脂綿のようなものが付いた細長い金属棒を取り出すと、これを鼻の奥まで突っ込んでコチョコチョとしばらく掻き回す由。ティッシュも渡され、くしゃみはこれで押さえるようにと指示を受ける。痛いほどでもないが苦しくて何度もくしゃみが出そうになった。
 再び呼ばれ、検査結果の説明を受ける。「やっぱりA型ですね」との宣告あり。Cマークも見えたが、これは検査が成功したサインだとか。タミフルを朝晩2回5日間(計10錠)服用すること、また今晩あたり高熱が出る可能性があるのでそのときのために解熱剤2回分、以上の処方箋を渡される。タミフルは症状が治まっても止めずに最後まで飲みきるよう注意を受ける。途中で止めると家族などにうつす危険性が高まるらしい。特に幼児や高齢者がいる家庭では注意が必要。
 また「すでにご家族にうつしてしまった可能性も否定できないので同様の症状が見られたらすぐに受診してください」とも言われる。初診料を含め1,900円。薬局でタミフルと解熱剤(後発医薬品)を受取る。再び、必ず5日分飲みきるようにとの注意あり。また解熱剤服用の目安を38.5度以上と教えてもらう。薬代など1,320円。
 夕方37.6度(18時50分)に上がる。夕食後、タミフル1錠を服用して床に就く。なかなか眠りに入れない。

 1月16日(水) 昨夜は果たして眠ったのだろうか。いつまでも手足が冷たかった。小用にも起きた。寝汗はなし。洗顔のとき、黄色の痰の小さな固まりがいくつか出る。朝食後、2錠目を服用。検温36.2度(9時10分)、ほぼ平熱に戻る。これが劇的に効くと言われるタミフルの力によるものであることは明らか。だから油断して(あるいは恐くなって)途中で服用を止める人も少なくないのだろう。咳は急に暖かな部屋に移動したり、蒸気を吸い込んだりしたときに出るのみ。ただし関節などに発熱の後遺症の残る感じがして歩行がぎこちない。

 1月17日(木) 朝の排便がいつもより柔らかな気がする。ほかは特段の変化なし。検温36.3度(19時10分)。夕食後の服用でようやく半分の5錠を飲み終えたことになる。まだ金土と日曜の朝が残っている。久しぶりに入浴して眠る。

 1月18日(金) 今朝も排便が少し柔らかだった。咳は温度変化に接したとき出るのみ。歩行は膝の関節にまだ影響が残るようだ。が、それも夕方には消える。

 1月19日(土) 排便の固さが平常に戻る。時に咳の出ることもあるが音や苦しさが従前とはまるで異なる。検温36.5度(16時)。


夢と希望と絶望 (4)2012/11/18



 いまの日本で夢といえば何だろうか。財務省が今月9日に発表した「国債及び借入金現在高」(平成24年9月末現在)の983兆円が一夜にして消えることだろうか。日本の人口は昨年より26万3,727人も減って1億2,665万9,683人になったというのに、使う方の借金だけは相変わらず増え続けている。国民一人あたりで計算すると776万円を超える金額となる。

 人口は人の命を数えることだから、ただの一人も省くことなく全てを書き出した。しかし借金の方は庶民の金銭感覚とは無縁な桁違いに大きい数字だから兆の単位で切っている。だからこれが正夢となって本当に983兆円が一夜にして帳消しとなっても、まだ日本国には2,950億円の借金が残ることになる。これを「その程度の少額に」とか「何と細かなことを」などと官僚や政治家のように笑い飛ばしてはいけない。これが逆の貯金だったら、国民一人あたり2,329円の払戻しが受けられるのである。

 庶民の暮らしと縁の深い郵便貯金(ゆうちょ銀行通常貯蓄貯金)で考えてみよう。いまこれだけの金額を利息として手に入れるには一体どれほどの貯金をすればよいだろうか。郵便貯金の適用金利は0.035%(10万円以上・2012年11月12日現在)である。仮に100万円預けても1年に350円しか利息は付かない。税金まで考えれば800万円預けても、それでもまだ届かない金額を生み出すものが、貯金ではなく借金の端数として残っているのである。借金本体983兆円の利息がいくらになるかと聞かれても多くの国民は想像すらつかないのではないだろうか。(つづき)

 ⇒ http://www.mof.go.jp/jgbs/reference/gbb/2409.html(平成24年11月9日 財務省報道発表)
 ⇒ http://www.soumu.go.jp/menu_news/s-news/01gyosei02_02000042.html(平成24年8月7日 総務省報道資料)
 ⇒ http://www.soumu.go.jp/main_content/000170582.pdf(住民基本台帳に基づく人口、人口動態及び世帯数)
 ⇒ http://www.jp-bank.japanpost.jp/cgi-bin/kinri.cgi(ゆうちょ銀行 金利一覧)

夢と希望と絶望 (2)2012/10/03

 夢は大きいほどいい。どんなに大きくたって構わない。いくら大きくたって誰も困らない。嫌がるのは絶望くらいだ。置き場所も要らないし、家賃もかからない。誰からも文句を言われない。うんと気張って、でっかい夢をもとう。

 すぐに結果が分かるのは夢とは言わない。小さいのは希望と呼ばれる。希望はおやつみたいなものだ。みんなが欲しがる。だからみんなで、仲良く分け合うしかない。小さな希望は欲しい人にあげて、なるべくでっかい夢をもとう。

 夢は宝物だ。君だけが知る宝物だ。値打ちを知るのも、どこにあるか知るのも君だけだ。いつもそっと暖めていよう。心の中で大事に暖めていよう。自分の夢を信じて暖めていよう。そうすれば夢は育つ。いつの間にか膨らんで大きくなる。

 膨らんだ夢は強い。君が信じれば信じるほど強くなる。自分の夢を信じよう。どこまでも信じて大事にしよう。大事にしていれば夢はいつも君を守ってくれる。君をどこまでも守り通してくれる。そばにいて君の強い味方をしてくれる。

 夢は忘れないことが一番だ。自分の夢を信じ、いつまでもどこまでも大事にしよう。大事にしていれば、きっといいことがある。どんなに辛くても覚えていよう。悲しいときでも思い出せるようにしよう。楽しいときも忘れないようにしよう。夢はきっと叶うものだ。(つづく)

                   どれも似てるけど、みんな違う…

夢と希望と絶望2012/10/02

 夢と希望は同じか。似てはいるが、どこか違う気がする。どちらもまだ実現していない。夢や希望が叶うのか、まだ先のことだから分からない。もうすぐ実現するかも知れないし、叶う気もするが今この瞬間は、そこまで分からない。これが夢と希望の共通点だ。

 違う点は何か。それは夢の方が実現に遙かに時間がかかることだ。希望の方は中身により他の人との調整が必要になる。夢なら他の人と取り合いをすることはないが、希望の場合は他の人に取られたり譲り合う場面が出てくる。希望の方がそれだけ日常に近いところにある。夢の方は何かとてつもなく大きなものに使われる。

 夢は誰がもっても構わない。小さな子でも中学生でも大学生でも構わない。思い立ったらいつでも気軽にもつことができる。どんなに大きな夢でも税金のかかることがない。申告も要らない。誰とも取り合いにならないし、誰にも迷惑をかけることがない。こんな都合のよい、うまい話が夢にはある。

 それなのに夢を知らない若者が増えている。今、夢をもたない若者が増えている。お金がなくても、仕事がなくても、学校が面白くなくても、テストの点が悪くても、友達がいなくても、そんなことには全く関係なく誰でも自由にもつことができるのに、夢の力を知らない若者が増えている。

 夢には希望の何十倍、何百倍、何千倍もの力がある。夢があれば明日も生きられる。今日と明日をつなぎ、明日と明後日をつないでくれる。夢があれば絶望は寄りつかない。絶望は夢を信じる人には近づかない。

 絶望にとって夢ほどイヤなものはない。夢ほど嫌いなものはない。だから夢をもつ人には決して寄りつかない。夢を信じる人には近づこうともしない。近ごろの絶望は特に忙しいようだ。あっちからもこっちからも、夢のない人から「来てくれ、来てくれ」とせがまれて駆けずり回っている。

 昔は物好きな絶望もいた。ひとつひとつ夢の中身を詮索して楽しんでいた。秋田のナマハゲみたいに「こいつの夢は好い加減だ」「自分の夢を信じていないな」なんて言いながら、壊して回る奴がいた。今は夢をもたない人が増えすぎて、そこを回るだけでも手が足りない。絶望は多忙に追われて皆あっぷあっぷしている。(つづく)

           今年は夏が暑かったせいか曼珠沙華の開花が遅れている…

夏から秋へ--酢橘(すだち)2012/09/25

 今年も徳島県佐那河内村から特産の嬉しい酢橘が届いた。しかもその量たるや半端ではない。地域の八百屋全てに卸してもまだ余りそうなくらい大量だ。とても我が家一軒では消費できない。かつてはどうしたものかと悩んだこともあったが、今は到着を待ち望む大勢の友人・知人がいてあっという間に消えてしまう。栽培の労を執られる方・鋭い棘も厭わず収穫し送ってくださる方の御厚意に深く感謝したい。

 ⇒ http://www.vill.sanagochi.lg.jp/ 佐那河内村


 我が家では届けられるとすぐに仕分けにかかる。特に大事なのが色づき加減と熟し具合だ。青黒いものは、たいてい皮も厚めで保存が利く。黄色みを帯び、つるっとした感じのものは皮が薄く、そのままがぶりと噛んで食べてしまう。これがなかなか美味い。徳島の秋が先ず上顎を撃ち、それから喉へと染み渡ってゆく。十月の末まで毎日、二三個はこうした食べ方を楽しんでいる。熟し始めているのか酸味もさほど強くなく、通の食べ方ではないかと自賛している。

 友人・知人へのお裾分けにもこうした少し黄色みのあるものが適している。どの家でも脂ののった秋刀魚の塩焼きに絞ってかけたり、焼酎の水割りに垂らしたりして三四日のうちには使ってしまうようだ。

 酢橘を切るときは実を横に寝かせて輪切りにする。こうすると袋が二つに切断され、汁が搾りやすくなる。縦に切ってしまうと汁を絞り出すのが難しい。梅酒ならぬ酢橘酒をつくるときも、二つに輪切りした酢橘に氷砂糖を加え三十五度の焼酎に浸しておく。焼酎が綺麗な黄緑色に変わったら実は取り出す。すぐに飲むか、そのまま少し寝かせるか迷うほどの量はつくっていないが、甘ったるさがないので料理の味を損ねることがない。


 酢橘は文字通り「酢」が身上の柑橘類だ。誰が命名したものかは知らぬが、まさに体を表している。ビタミンやカリウムなど豊富な栄養価もレモンの比ではない。近ごろは仮名書き流行りの世の中だから店先に並ぶときも「すだち」や「スダチ」と書かれるが、これでは酢橘の真骨頂は伝わらない。一人でも多くの皆さんに酢橘の味やこの栄養価が知れ渡り、漢字名が使われるよう祈りたい。

  がぶり噛み 喉に染み入る 酢橘の香  まさと

夏から秋へ--稲莚(いなむしろ)2012/09/22

 温暖化や亜熱帯化の影響もあるのだろう年々、稲刈りの時期が早まっているように感じる。その刈り取りの一週間か十日前の稲作地帯の景色はそれはそれは見事なものである。黄金色に輝く稲の穂が田んぼごとに絨毯でも敷き詰めた如くに見える。古代の人々はこの景色を稲莚と称した。

  小山田に風の吹きしく稲莚 夜鳴く鹿の臥し所なりけり  如願法師

 その稲莚がどこまでもどこまでも続いているのである。昨日もそうした光景を目にしたが、あいにくカメラをもっていなかった。そういえば昨年も一昨年もなぜか、稲穂が黄金に波打つこの季節にはカメラを持たずに出かけることが多い。そして黄金色の光景を目にして悔しがる。残念だが手元には、八郎潟のような広大な平野部の情景を収めた写真がない。それでも稲莚の大凡のイメージくらいは感じていただけよう。


 稲莚は秋の季題でもあるが、莚そのものが現代人の生活とは遠いものとなり、これを知る人も・そうした景色を思い浮かべることのできる世代も稀となった。この季語による雄大な情景の創出を期待することはもはや無理なのかも知れない。なおこの季題は、稲藁を編み上げて作った敷物としての稲莚をテーマにしているわけではない。枕詞にもされ、両方が登場する和歌の場合とはこの点の異なることに注意したい。

  稲むしろ 近江の国の 広さ哉  浪化

 この作者もまた先日の「秋の色」の句の園女と似て、芭蕉の影響を強く受けた江戸中期の俳人である。

敬老の日・祝日法--大根日記(5)2012/09/18

 さて私的な話題はこれくらいにして、話を本題に戻そう。敬老の日というのは「国民の祝日に関する法律」によって定められたものである。この法律は昭和23年(1948)7月に制定され、一般には祝日法とか国民祝日法と呼ばれている。制定当時の祝日は元日、成人の日、春分の日、天皇誕生日、憲法記念日、秋分の日、文化の日、勤労感謝の日の計8日である。残りの7日はその後の改正によって追加された。

 この法律は全3条から成る簡単なものだが、第3条だけは当初の「「国民の祝日」は、休日とする。」という至って簡潔な条文に、何遍読んでも理解できない2と3の二つの追加がなされ難解な内容に変わってしまった。これらは次のページで容易に確認できるから是非ご覧いただきたい。

 ⇒ http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S23/S23HO178.html 昭和23年7月20日法律第178号

 第1条ではまず法律制定の目的に触れ、「自由と平和を求めてやまない日本国民」が「美しい風習を育てつつ、よりよき社会、より豊かな生活を築きあげるため」と述べている。制定当時の時代的な雰囲気を感じさせる文言である。また、そもそも「国民の祝日」とはなんぞやという点については「国民こぞつて祝い、感謝し、又は記念する日」であると説明している。

 次に第2条では具体的な祝日をおおむね月日順に列挙し、その内容を簡単に述べている。それらの全てを今ここで取り上げる余裕はないが、全てが上記の3種類に収るような内容・説明であるかは疑わしい。例えば体育の日、あるいは文化の日はそれぞれの説明を読んでも祝う・感謝する・記念するのいずれに該当するものか判然としない。また春分の日と秋分の日の説明の差も庶民の感覚とは明らかに異なっている。とても第1条にいう「美しい風習を育てつつ」を考慮した説明には思えない。

 いろいろ言い出すときりがないのでこの辺で止め、本日のテーマである「敬老の日」に絞ると、この日は「多年にわたり社会につくしてきた老人を敬愛し、長寿を祝う。」と記されている。但しこの日は後の改正によって追加されたもので、昭和23年の法律制定当初から存在した祝日ではない。制定に先立つ同年2月3日の衆議院文化委員会で行なわれた祝祭日に関する最初の審議経過を振り返っても、敬老を伺わせるような表現や9月中旬の候補日は見あたらない。

 この日が追加されたのは祝日法最初の改正となった昭和41年(1966)6月のことである。何かと物議を醸(かも)した建国記念の日、10月10日と定められた体育の日と同時期の追加であった。因みに前年昭和40年の日本の人口構成を見ると、65歳以上が占める割合は6.3%でしかない。生産年齢と呼ばれる15~64歳が68.0%、14歳以下の年少人口も25.7%を占めていた。そういう活力溢れる時代の「敬老の日」であった。

 以来50年近く、日本の人々は右肩上がりの経済成長を信じ、自分はまだ十分に若い・働けると信じ、加齢には医療技術や製薬技術や美顔術などで抗(あらが)いながら、ひたすら消費に邁進した。そして、次の世代を生み育てる努力を怠ってしまった。これが、当初9月15日としていた敬老の日を平成13年(2003)6月の改正で9月の「第三月曜日」に切り替え、同様に1月15日の「成人の日」を1月の「第二月曜日」に切り替えた便宜主義的行動と通底することは容易に想像がつく。

 もはや「その日」に対するこだわりだけでなく、「国民こぞつて」感謝する・祝うといった意識までもが薄れてしまったのではないか。単に休日を増やすための方便に、これらの日が体よく利用されたに過ぎない。海の日や体育の日にしたところで似たようなものであろう。東日本大震災後、急速に広まった原発に対する不安も、もしかしたら「きずな」という言葉もこれと似たようなものかも知れない。これが日本文化の有り様だとしたらあまりにも寂しい。

敬老の日--大根日記(4)2012/09/17

 今日は敬老の日。前々回の記事で触れた母は大正8年(1919)に生まれ、独居を断念するきっかけとなった昨年末の事件まで入院経験なしの生活を続けてきた。通院は20年ほど前、他人に勧められて「持病」の心臓病の診察を受けに公立病院を訪れた1回だけである。そのとき処方された薬を服用して「ひどい目に」あって以来、医者嫌いとも言える状況が続く。それでも月2回、2週間おきに巡回してくる地域の診療所の看護師の訪問だけは受けていた。

 こう記すと母はいかにも健康そうに感じられるが、真偽のほどはよく判らない。その理由は第一に、診療所の医師によると心臓に「持病」のような症状は見られないが若干血圧が高めであるとのことだった。母は数年前から「血圧の薬」と称して、この医師の処方したものを確かに服用していた。また同じ頃に父が亡くなり、「夜、眠れないことがある」と看護師に訴えて睡眠導入剤を処方してもらうようになった。これらの診療・投薬に要する費用(自己負担額)は月々3千円くらいであったと聞く。

 理由の第二は、昨年末の入院事件で判った保険外費用の存在である。そのひとつは農協の置き薬代が毎月1万円前後もかかったこと、また処方された薬の配達に訪れる町の薬局の主人に勧められて飲用が始まった各種サプリメントの支払いが毎月やはり1万円を超えていたことである。母は薬局が勧めるサプリメントを次の二つの理由で毎日必ず飲んでいた。一つはテレビのワイドショウ番組でよく話題にされること、もう一つは祖父(母の実父)から「医者の薬は効かないから具合が悪いときは薬局の高い薬を飲まないと駄目だ」と聞かされていたことである。

 町の薬局が届けるサプリメントも農協の置き薬も処方箋に基づく投薬も、母にはみな同列の「薬」と映っていた。独り暮らしの母が信じたのは医学的な知識でも医者の言葉でも身内の言葉でもない。自分の財布から出てゆく金額そのものだった。その差こそがまさに効能の差であると信じて疑わなかった。加えて、症状が改善しないのは服用量が少ない=薬代を惜しむからだという妙な「自信」のようなものまで付けてしまった。だから年末に入って風邪をこじらせると当然のように手元の総合感冒薬・解熱鎮痛剤・睡眠導入剤・各種サプリメントを次々と過剰に服用し、面倒な食事の準備は後回しにして布団に横たわった。そして「後半日、発見が遅れたら」というところまで病状を悪化させた。

 幸いにも大事には至らず、新年早々に退院を許された。但し独居は不可との条件付きだった。さんざん揉めた末、我が草庵に落ち着くことになり、今は全く新しい住環境(食事環境+文化環境)の下で暮らしている。退院から8ヵ月以上が過ぎ、酷暑の夏もどうやら峠を越えた今、事実として言えることは退院したそのときから薬というものを全く口にしていないこと、もちろんサプリメントの類の利用も皆無なことである。朝昼晩きちんと定時に食事を取り、午後のおやつにお茶と少々のお菓子(または煎餅)を口にするのみの生活が続く。

 だから保険診療の公費負担分月額2.7万円(患者負担1割として)のことも、薬局・置き薬関係の支出の月額2万円余のことも次第に母の記憶からは遠ざかりつつある。そしてよく眠る。悩みと言えば「大きい方がたまにしか出てくれない」ことだろう。腰は数年前から、くの字に曲がってしまった。長い歩行には杖が欠かせない。だが痩せ落ちた肩や背中の肉は元に復し、痩せ細っていた腕も元の太さを取り戻した。食事作りは止め(新しいガス器具の操作に不慣れ)、洗濯物を干したり取り込むこともできない(腰を伸ばすのが難儀)が、農作業ほどのこだわりを見せることもない。悟った様子もないが惚ける気配もない。

 本人は来春の定期健診まで健康診断を受けない・その必要がないと言い張っている。ところが昨今のような何かと難しいことの多い世の中では、年寄りがあまり医者から遠ざかるのも感心できないものらしい。何より行政側に生存の確認の取れないことが大きな理由のようだ。医者要らずの健康・元気者がもっと歓迎されるような「普通の」世の中でありたい。保険診療が年1回・定期健診のみの被保険者(例えば50歳以上、60歳以上、65歳以上の)には多少でも追加の所得控除が受けられるとか、翌年の保険料負担が軽減されるとか、KKR(国家公務員共済組合連合会)の保養所の優待利用券でも配られるといった恩典・健康奨励施策があれば目標にもなろう。励みのない、ただ徴収あるのみの徴税国家ではつまらない。(つづく)

夏から秋へ--雲(3)2012/09/15

 相変わらず日中は暑いが、朝晩はそれでもだいぶ楽になった。もう少しの辛抱だと自分に言い聞かせながら仕事をしている。朝晩が過ごしやすくなった理由を素人なりに考えてみると、やはり太陽に行き着く。日の出の時刻が六月七月の頃とは相当に違っている。夏至の頃は朝四時半にはもう日が昇っていた。今は五時をかなり過ぎないと太陽にお目にかかれない。


 困るのはいつまでも日中の気温が高いままなのに、日射しが容赦なく部屋の中まで入り込むようになったことである。以前は日中の室内気温の低下を、この入り込む日射しで補っていた。だから有難かった。ところが昨今は迷惑この上ない。真夏のように、もう少し高いところのままでいてくれないかと恨めしくなる。


 とは言え、日中でもあちこちに日陰のできる場所が多くなった。上手くコースを探せば、こうした日陰の道を秋の風に吹かれながら心静かに散歩することだってできるだろう。来週はもう彼岸の入りである。かくして、今年もまた一年が終わってしまうのだろうか。

  秋雲の 白き見つづけ 部屋くらし  篠原 梵

◎季節の言葉 筍・竹の子2010/04/14

 この季節、八百屋の店先に大小様々な筍を見ることが多くなった。都会では九州の福岡県産とか四国の徳島県産など遠隔地で掘り採ったものが各地のJAや卸売市場を経由して並べられるから当然のことながら掘りたての筍ではないだろう。近ごろは魚類だけでなく野菜についても鮮度を売り物にする店が増えて、例えば群馬県の赤城山麓の畑で朝早く日の出前に収穫したレタスをその日の10時には店頭に並べるといった工夫もされている。実は筍もレタス以上に鮮度が要求される食べ物なのである。掘ってすぐなら、嘗めても囓ってもえぐみはほとんど感じない。柔らかい部分ならそのまますぐに食べることもできる。


 都会の喧噪とは無縁の田舎暮らしをしていると、この点だけは徳をしていると感じる。筍はお金を出しても手に入るが多くは貰い物である。竹藪の持ち主は次々に顔を出す筍を放っておくとどうなるかをよく知っているので、せっせと掘り取る。早いうちに始末すれば伸びてしまってから間引くような手間がかからない。問題は、こうして毎日のように収穫する筍をどう処分するかである。勢い親戚、友人、知人と伝(つて)を頼って引取先を見つけることになる。保存が全く効かないわけではないが茹でた筍の足は早い。

 そんなわけで、この季節は毎日のように筍が食卓に並ぶ。煮物、汁の身、天ぷら、筍飯など飽きることがない。飽きる頃には大抵、いただく筍の方が払底している。しかし世の中にはそんな幸運に恵まれた人ばかりではない。次の句はそうした人々に共感をもって迎えられた作品である。(つづく)

  筍を盗む心の起りけり 桂田死酒