夏から秋へ--露・つゆ2012/09/07

 今日は二十四節気の白露(はくろ)、昼と夜の長さがほぼ等しくなる秋分・彼岸の中日まであと半月である。昔から「暑さ寒さも彼岸まで」というくらいだから、今年の暑さももう少しの辛抱だ。そして、さらにその半月余り後の十月八日が寒露(かんろ)である。日中は相変わらず暑いが、本格的な秋がすぐそこまで来ている。

 露(つゆ)は朝露や夜露を含め、多くが秋の季題とされる。だが秋の専売特許ではない。例えば「古今和歌集」には僧正遍昭が詠んだ、春の柳に光る白露(しらつゆ)を数珠に見立てた歌が収録されている。

 俳句では異なる季節の露を句にするときは春や夏を冠し、春の露・夏の露というように区別する。また白露(はくろ)と寒露(かんろ)は時候を句にするとき用いる。水蒸気が凝結してできた水滴の描写には漢字表記は同じでも「しらつゆ」が使われるから、声に出して読むときは注意したい。

  野の露に よこれし足を 洗けり  杉風


 多くの俳人が「露」を用いる中で、次の作品は「つゆ」の二文字にこだわった繊細な女性らしい佳句といえよう。

  つゆと云ふ このかなもじの 好きで書く  高田美恵子


◎季節の言葉 凍る・氷(2)2010/02/01

 漢字の偏である三水は池、河、波、沖、汁など水に縁のある文字の構成要素に使われている。沈、没、汚、治のように水とは一見無縁と思われる文字も字書を引けば水との関係を知ることができる。

 氷が水の凍ったものであることは多くの人が知っている。凍るという文字の偏である冫は一般に二水と呼ばれているが、「ヒョウ」という漢音をもつ漢字でもある。冫は元は「人」を縦にふたつ重ねて書き、水が凍り始めたときのさまを表したものだと言われる。つまり氷は「冫+水」と記すことで、水が凍ったさまを示している。


 日本列島の先人たちは、当時が今より寒かったせいかどうかは知らぬが、凍るとか氷というものに対して現代人より遙かに細やかな観察をしていた。その名残が「ひ」と「こほり」の使い分けである。まず「万葉集」の恋の歌から紹介しよう。冬の凍てつく夜の待ち合わせを詠ったものだが、ついに相手は姿を見せることがなかった。

 我が背子は待てど来まさず雁が音も響(とよ)みて寒しぬばたまの夜も更けにけりさ夜更くとあらしの吹けば立ち待つに我が衣手に置く霜も氷(ひ)にさえわたり降る雪も凍りわたりぬ今さらに君来まさめやさな葛後も逢はむと大船の思ひ頼めどうつつには君には逢はず夢にだに逢ふと見えこそ天の足り夜に(万葉集・3281)

 霜は「氷にさえわたり」、降る雪は「凍りわたりぬ」と使い分けている。これは長時間、戸外で立って待っていたので衣の上に霜がおり、それががちがちに氷って氷(ひ)のような固まりになったという意味である。また、その間に雪も降ってきて、その雪が厳しい寒気に触れて表面が凍り始めたと歌っているのである。ひたすら待ち続ける心情、その哀れさがひしひしと伝わってきて切ない。


 また「源氏物語・蜻蛉」にも、この「ひ」が登場し、薫と小宰相の君の夫婦仲を示す小道具として使われている。「氷をものの蓋に置きて割る」「手に氷を持ちながらかく争ふ」「氷召して人びとに割らせたまふ」と「ひ」を割って遊ぶ様子が描かれている。この場合の「ひ」は冬のうちに氷を池などから切り出して氷室(ひむろ)に入れて貯蔵し、夏の暑いときに取り出して貴族の涼みの用に供したものを指している。池の表面に厚く張った氷も貯蔵時間の経過と気温の上昇とによってやせ細り、夏には人が割って楽しむくらいに薄くなってしまったようだ。(了)

◎季節の言葉 水仙2010/01/05

 水仙は二月の花だと聞いたことがある。だが暖地では十一月の末から咲き始めている。株にもよるが独特の匂いがあり、時に微妙な匂いを醸すものもあって強すぎて嫌われるものもある。また純白の六弁花はよいとして、中央部にある花冠があまりに濃い朱色を呈すると、これも嫌われる原因になる。


 総じて人間は我が儘だから気に入らないことがあると、これを容赦なく球根ごと掘り出して川に捨てたり、畑の隅に放り出す。しかし実を結ぶ術を知らない水仙はそんな程度の仕打ちで絶やされたりはしない。球根が分離して、かえって数が増えることさえある。

 夏、道路際の地中に眠る球根の上に砂利が敷かれアスファルトが被せられて、すっかり舗装されてしまったことがある。それでも翌年初めには黒いアスファルトを割って、まるで雪割草の如くに芽を出したのである。生命力の強さ、しぶとく生きるとはまさにこのような様を言うのであろう。

  岩を割り春を忘れぬ水仙の如くに吾は生きたかりけり 木多詠人

○白梅日記022010/01/04

 今日は多くのサラリーマンにとって初出勤の日でした。暖房完備の人々と違い、私たち野に立つ白梅の生活はエコそのものです。かの菅原道真公が「東風吹かばにほひをこせよ…」と詠んだ1100年前の昔と何ら変ることのない生活を続けています。そのために開花時期も一定しないのです。

 人間は数十年しか生きられないと思うからでしょうか。懸命に毎日毎年を規則正しく同じリズムで過ごそうと、せっせと化石燃料を消費したりエコだ何だと資源の使い捨てに精を出しています。一日働けばその分だけ勤め先に利益をもたらさなければならないと焦ってクルマに乗ったり、電話をかけたりしています。


 朝から日射しの少ない寒い一日でした。雨もとんと降りません。もしかしたら昨日より蕾が小さく閉じて見えるかも知れません。違うのは空の色くらいなものです。人間に生まれていたら、こんな日は何と言い訳をするのでしょうか。

○白梅日記012010/01/03

 新年おめでとうございます。このたび目出度く写真日記の対象に選ばれました。満開になるまで日々、開花状況を写真に記録し伝えてくださるとのことです。


 写されることなど意識したこともなく、ひたすらお日様の恩恵だけを頼りに暮らしております。愛想があるわけでなし、紫陽花さんのような世辞も言えませんが古代の日本では花と聞けば、誰もがまず私たち梅の花を思い浮かべた時代もあったそうです。

  今のごと 心を常に思へらば まづ咲く花の 地に落ちめやも 縣犬養娘子

 この和歌に詠われた「花」がどうして梅の花と分かるのか、子どもの頃は随分と不思議に感じたものでした。できる子は、きっと根拠は「まづ咲く」という表現にあるのよ、そこから推し量っての主張だと思うわなどと話しておりました。

 先生の説明では、確かにそういう点もあるけれども、この和歌の題詞に「依梅發思歌一首」とあることが一番の根拠だそうです。大先輩の貴重な歴史まであるのに、いつの間にか桜さんに取って代わられたのは残念です。

○鶏頭(2)2009/10/10

 鶏は「にはつとり」が短く縮まったものである。普段から庭にいる鳥、つまり飼い鳥の意であり、歴とした和語である。一方、鶏頭は漢名由来の語である。鶏は「鶏群の一鶴」「鶏口となるも牛後となるなかれ」など漢語を知る人には馴染みの深い語である。列島の先人がこの植物に初めて接したとき、鶏は誰もが知る飼い鳥だったと考えて間違いない。

 では鶏頭は中国から伝わったのだろうか。どうやら中国から来たものと朝鮮半島経由で伝わったものと二つの道があったようだ。その証拠に、鶏頭には今では使われることのない「からあゐ」という和名があって、万葉集にはその歌が収録されている。作者が山部赤人というのも興味深い。しかし「からあゐ」がなぜ紅い色の鶏頭になるのか、その話はまたの機会に譲りたい。(了)

  わがやどにからあゐ蒔き生ほし枯れぬれど懲りずて亦も蒔かむとそ思ふ 山部宿禰赤人

○萩--秋の七草2009/09/20

 秋の七草は日本の秋を彩る代表的な草花7種を指す呼称です。その始まりは7種の草花を詠み込んだ山上憶良(やまのうえのおくら)の次の歌にあると言われています。

  萩の花尾花葛花なでしこの花をみなへしまた藤袴朝顔の花

 数えると確かに7種あります。だから7草だと思う人も多いことでしょう。実は憶良のこの和歌には「山上臣(あそみ)憶良秋の花を詠める歌二首」という詞書(ことばがき)があって、上掲の歌はその2首目に当たります。では1首目はどうかと言いますと、次がその歌です。

  秋の野に咲きたる花を指折りかき数ふれば七種の花

 つまり現在は多く「秋の七草」と表現されますが、「草」の意味は草花の草ではなくて種類という意味です。上掲の歌も末尾は「ななくさのはな」と読みます。万葉仮名の原文も同じく「七種花」と記されています。憶良自身が数えて7種類あることを確認した上で「七種」と詠んだのです。個々の草花ということであれば2首目の歌になりますが、「七種」あるいは「七草」という表現・呼称であれば1首目を起源と考えるべきです。
 ところで戦後は、漢字制限政策の影響で「七種」を正しく読める世代がどんどん減ってしまいました。日本人の学力が下がったとか何とか歴代の文部科学大臣などが騒いできましたが自分の国の漢字もろくに読めなくするような、そんな貧しい政策を1世紀以上も日本の文部官僚達は一貫して主張し続けてきたのです。彼等に、いつの日かパソコンのような道具が出現することを見通す力のなかったことはいうまでもありません。

○吾亦紅(1)--野の草花2009/09/12

 子どもの頃、植物の名をワレモコウと聞いても取り立てて感慨を覚えることはなかった。草だろうか、花だろうかと不思議に思っただけである。それが、長じて書物の中に吾亦紅の3文字を見つけたときは、これぞまさしく先人の知恵、何と優雅なと感じ入った。
 多年草でもあるこの植物の漢名は地楡(じゆ)という。褐色を呈し太くて逞しい根っこの薬効に注目したが故の呼称であろう。それに引き替え、わが和名の何と優雅なことか。しかも漢文調に「ワレモマタカウナリ」とは実に愉快な命名ではないか。と独り悦に入って喜んだ。発見でもあった。そして紫式部が「源氏物語」の中で、この植物にも言及していることを知った。
 源氏の話は明日に回し、今日は藤原忠俊の娘が白河皇女郁芳門院に仕えて安芸と呼ばれたときに詠んだ和歌を紹介する。鳥羽天皇后にして後白河天皇生母と言われる待賢門院にも出仕したと伝わる女性だから、時代としては紫式部より100年近く後のことであろう。

  鳴けや鳴け 尾花枯れ葉の きりぎりす われもかうこそ 秋は惜しけれ 郁芳門院安芸

◆里芋の葉の朝露2009/08/09

 近所の小学校の夏休みが始まってもう3週間が過ぎた。今どうなっているかは知らないが、昔の農村の小学校は夏休みが短かった。3週間もなかったように記憶する。夏休みの課題は確か「夏休み帳」と呼ばれるようなものがあって、そこに全てが集約されていたはずだ。だが例外もあった。習字はそのひとつだった。
 手本を真似て二三枚も書くだけのことだから取りかかればすぐに終わるのだが、まず墨を擦らなければならない。この季節に墨を擦るときは「里芋の葉に溜まった朝露を使うと上達が早い」と誰かが教えてくれた。家の前にある畑には里芋が植えられ、茎が大きく伸びていた。朝早く、この露を葉から零さないように柄杓で集めて使った。最初は露というものの特性を知らないから身体が不用心に葉に触れて、みな零してしまった。子どもにはそれなりに難しい作業だった。
 現代の日本人にとって「いも」と言えば多くはジャガ芋であり、薩摩芋だろう。いま里芋を思い浮かべる人は少ないに違いない。自然薯に至っては皆無に近いだろう。だが先人との関係はこの逆の順に始まっている。里芋がいつ、どんな方法で列島にもたらされたかは明確でない。ハスもそうだが文字や仏教とは異なる、食文化渡来の道が古くから別のルートで存在したのではないだろうか。
 因みに「万葉集」の次の歌に見える「うもの葉」は里芋の葉のことだと言われる。意吉麻呂(おきまろ)なる作者が宴席で即興に詠んだ戯れ歌に過ぎないが、この時代に人々がハスや里芋をどう見ていたかが分かって面白い。少なくとも奈良の都ではハスはまだ珍しく一方、里芋はどこの家にも見られるほど広く普及していたのである。

  蓮葉(はちすば)はかくこそあるもの意吉麻呂が家なるものはうもの葉にあらし 長意吉麻呂

○露草(4)--野の花々2009/08/09

 露草の花汁を摺り付けた衣の色は綺麗でも水に濡らすと色落ちする。時間が経てば褪(あ)せてしまう。そんな評判が拡がるにつれ、この植物は元々花の命が短いこともあって、人の心の変りやすさ・移ろいやすさを象徴する代名詞となってゆく。
 万葉の時代から250年ほど経た平安時代の中頃、紫式部は「源氏物語」総角(あげまき)の中でこの植物を巧みに利用している。光源氏の孫にあたり色好みの性格を受け継いだと評判の高い匂宮(におうのみや)について「なほ音に聞く月草の色なる御心なりけり」と、その心を露草の色にたとえて紹介した。
 露草はさらに「古今和歌集」にも顔を出すが、うちひとつは「うつし心」に掛かる枕詞としての役割に転じている。この植物名が広く日本文学の中に普及定着したことを示す出来事と言えるだろう。(つづく)

  いで人は事のみぞよき月草のうつし心は色ことにして 不知詠人