夢と希望と絶望 (4)2012/11/18



 いまの日本で夢といえば何だろうか。財務省が今月9日に発表した「国債及び借入金現在高」(平成24年9月末現在)の983兆円が一夜にして消えることだろうか。日本の人口は昨年より26万3,727人も減って1億2,665万9,683人になったというのに、使う方の借金だけは相変わらず増え続けている。国民一人あたりで計算すると776万円を超える金額となる。

 人口は人の命を数えることだから、ただの一人も省くことなく全てを書き出した。しかし借金の方は庶民の金銭感覚とは無縁な桁違いに大きい数字だから兆の単位で切っている。だからこれが正夢となって本当に983兆円が一夜にして帳消しとなっても、まだ日本国には2,950億円の借金が残ることになる。これを「その程度の少額に」とか「何と細かなことを」などと官僚や政治家のように笑い飛ばしてはいけない。これが逆の貯金だったら、国民一人あたり2,329円の払戻しが受けられるのである。

 庶民の暮らしと縁の深い郵便貯金(ゆうちょ銀行通常貯蓄貯金)で考えてみよう。いまこれだけの金額を利息として手に入れるには一体どれほどの貯金をすればよいだろうか。郵便貯金の適用金利は0.035%(10万円以上・2012年11月12日現在)である。仮に100万円預けても1年に350円しか利息は付かない。税金まで考えれば800万円預けても、それでもまだ届かない金額を生み出すものが、貯金ではなく借金の端数として残っているのである。借金本体983兆円の利息がいくらになるかと聞かれても多くの国民は想像すらつかないのではないだろうか。(つづき)

 ⇒ http://www.mof.go.jp/jgbs/reference/gbb/2409.html(平成24年11月9日 財務省報道発表)
 ⇒ http://www.soumu.go.jp/menu_news/s-news/01gyosei02_02000042.html(平成24年8月7日 総務省報道資料)
 ⇒ http://www.soumu.go.jp/main_content/000170582.pdf(住民基本台帳に基づく人口、人口動態及び世帯数)
 ⇒ http://www.jp-bank.japanpost.jp/cgi-bin/kinri.cgi(ゆうちょ銀行 金利一覧)

夢と希望と絶望 (2)2012/10/03

 夢は大きいほどいい。どんなに大きくたって構わない。いくら大きくたって誰も困らない。嫌がるのは絶望くらいだ。置き場所も要らないし、家賃もかからない。誰からも文句を言われない。うんと気張って、でっかい夢をもとう。

 すぐに結果が分かるのは夢とは言わない。小さいのは希望と呼ばれる。希望はおやつみたいなものだ。みんなが欲しがる。だからみんなで、仲良く分け合うしかない。小さな希望は欲しい人にあげて、なるべくでっかい夢をもとう。

 夢は宝物だ。君だけが知る宝物だ。値打ちを知るのも、どこにあるか知るのも君だけだ。いつもそっと暖めていよう。心の中で大事に暖めていよう。自分の夢を信じて暖めていよう。そうすれば夢は育つ。いつの間にか膨らんで大きくなる。

 膨らんだ夢は強い。君が信じれば信じるほど強くなる。自分の夢を信じよう。どこまでも信じて大事にしよう。大事にしていれば夢はいつも君を守ってくれる。君をどこまでも守り通してくれる。そばにいて君の強い味方をしてくれる。

 夢は忘れないことが一番だ。自分の夢を信じ、いつまでもどこまでも大事にしよう。大事にしていれば、きっといいことがある。どんなに辛くても覚えていよう。悲しいときでも思い出せるようにしよう。楽しいときも忘れないようにしよう。夢はきっと叶うものだ。(つづく)

                   どれも似てるけど、みんな違う…

夢と希望と絶望2012/10/02

 夢と希望は同じか。似てはいるが、どこか違う気がする。どちらもまだ実現していない。夢や希望が叶うのか、まだ先のことだから分からない。もうすぐ実現するかも知れないし、叶う気もするが今この瞬間は、そこまで分からない。これが夢と希望の共通点だ。

 違う点は何か。それは夢の方が実現に遙かに時間がかかることだ。希望の方は中身により他の人との調整が必要になる。夢なら他の人と取り合いをすることはないが、希望の場合は他の人に取られたり譲り合う場面が出てくる。希望の方がそれだけ日常に近いところにある。夢の方は何かとてつもなく大きなものに使われる。

 夢は誰がもっても構わない。小さな子でも中学生でも大学生でも構わない。思い立ったらいつでも気軽にもつことができる。どんなに大きな夢でも税金のかかることがない。申告も要らない。誰とも取り合いにならないし、誰にも迷惑をかけることがない。こんな都合のよい、うまい話が夢にはある。

 それなのに夢を知らない若者が増えている。今、夢をもたない若者が増えている。お金がなくても、仕事がなくても、学校が面白くなくても、テストの点が悪くても、友達がいなくても、そんなことには全く関係なく誰でも自由にもつことができるのに、夢の力を知らない若者が増えている。

 夢には希望の何十倍、何百倍、何千倍もの力がある。夢があれば明日も生きられる。今日と明日をつなぎ、明日と明後日をつないでくれる。夢があれば絶望は寄りつかない。絶望は夢を信じる人には近づかない。

 絶望にとって夢ほどイヤなものはない。夢ほど嫌いなものはない。だから夢をもつ人には決して寄りつかない。夢を信じる人には近づこうともしない。近ごろの絶望は特に忙しいようだ。あっちからもこっちからも、夢のない人から「来てくれ、来てくれ」とせがまれて駆けずり回っている。

 昔は物好きな絶望もいた。ひとつひとつ夢の中身を詮索して楽しんでいた。秋田のナマハゲみたいに「こいつの夢は好い加減だ」「自分の夢を信じていないな」なんて言いながら、壊して回る奴がいた。今は夢をもたない人が増えすぎて、そこを回るだけでも手が足りない。絶望は多忙に追われて皆あっぷあっぷしている。(つづく)

           今年は夏が暑かったせいか曼珠沙華の開花が遅れている…

リヴ・タイラーと絵本--人気女優の子育て事情2012/09/26

 今週初め、見慣れない雑誌が一冊転送されてきた。雑誌のタイトルは"GOSSIPS"、一目見て若い女性向けと分かる体裁のファッション誌であった。が、それにしてはタイトルが刺激的である。表紙をめくると、米国発行の"US WEEKLY"と独占提携している旨の説明が目に止まった。同誌は米国のセレブ(celebrity)と称される人々の最新動向をファッションを中心に紹介する週刊誌である。届けられたのは、言わばその日本語版ダイジェストといったところだろう。但しこちらは月刊で、その2012.11号だった。

 ページを繰ると、セレブ達のさまざまなデニム姿が紹介されている中に、この手の雑誌には珍しい「セレブがオススメ! 秋の読書週間」と銘打った見開きページが出てきた。「読書好きのセレブたちがオススメする愛読書を大公開!」とも書いてある。そしてエマ・ワトソンは「星の王子さま」、ドリュー・バリモアは「夜と霧」、ナタリー・ポートマンは「アンネの日記」、ラナ・デル・レイは「思考は現実化する」、ウィル・スミスは「アルケミスト 夢を旅した少年」といった紹介に混じって、「もしゃもしゃマクレリー おさんぽにゆく」を勧めるリヴ・タイラーの写真があった。これが我が家に転送されてきた理由だった。

 リヴ・タイラーは「アルマゲドン」や「ロード・オブ・ザ・リング」シリーズに出演し日本の洋画ファンにも人気の高いハリウッド女優だが、彼女がユニセフ(UNICEF・国連児童基金)による子どものための活動(日本では黒柳徹子さんの活動が著名)や女性のための乳ガン撲滅運動(この活動には彼女の母や祖母も参加)に熱心に取り組んでいることは日本ではあまり知られていない。

 彼女がこうした活動に熱心なのは自分でも出産を経験し、実際に子育てをしていることの影響が大きい。2003年春にミュージシャンのロイストン・ランドン氏と結婚し、翌04年暮れ一子マイロ(Milo William)君に恵まれた。ランドン氏との生活には破局も伝えられたが、彼女自身の生い立ちから来る複雑な思いを子どもにだけはさせたくないという気持が強く、精一杯の子育てに努めている様子が"US WEEKLY"に掲載された親子のスナップ写真からもうかがえる。

 彼女はマイロ君との時間を大切にしていて、パーティにおける彼女のゴージャスな服装の解説を読むと、「今週、リヴは煌びやかなパーティーに出席して赤いじゅうたんの上でポーズをとるよりも、ジーンズ姿で息子のマイロ君とマンハッタンを散歩することに多くの時間を費やしました」といった調子のコメントを時々見かける。そんな彼女がマイロ君のために読んであげる絵本、親子で一緒に楽しむ絵本が"Hairy Maclary"(邦題:もしゃもしゃマクレリー)なのである。


 この絵本は今から29年前の1983年にニュージーランドで初めて出版され、主人公のマクレリー(テリア犬)はたちまち英語圏の子どもたちの人気者となった。(彼女自身も犬を飼っているからマンハッタン近郊のウェストビレッジに行けば散歩中の彼女に遭えるかも知れない)が、ただの可愛い犬の絵本ではない。それは手に取って実際にめくってみると分かる。日本人のもつ絵本に対する先入観や常識が根底から覆されてしまう。(詳細は2009年11月24日の記事で紹介)

 ⇒ http://atsso.asablo.jp/blog/2009/11/24/ ドッドさんの絵本(2)

 しかしそんな優れた絵本でも、キングスイングリッシュ圏内での普及に比べると、アメリカンイングリッシュ圏内での知名度はさほど高くない。絵本のセンスもどちらかと言えば英国的である。愛息子のために、この絵本に目を止めた彼女の知性や母性に感心するほかない。ハリウッドの人気女優だけでは終わらないことを、彼女を追いかけるカメラマンの目が確信している。何より、そうした母子の成長を見守るレンズの目が温かい。これが、多くのハリウッド女優や日本の雑誌メディアと異なる点だろう。

 この絵本の日本紹介は2004年である。通訳もされる翻訳家佐藤綾子さんのご尽力により出版にこぎつけた。翻訳には小生も参加でき、いまこうして絵本が縁となってリヴ・タイラーさん母子と繋がったことに感謝している。

 ⇒ http://www.usmagazine.com/hot-pics/matching-uggs-2011211 (お揃いのブーツで)

サンパ、ジョウハ、テンパ--大根日記(3)2012/09/12

 この見出しにピンと来る読者は、なかなかの教養人と言えるだろう。漢字で書けば撒播、条播、点播であり、いずれも作物の種子を「まくこと」を表している。前回、前々回の記事では種を「蒔く」と記したが、この文字に「まく」「ちらす」の意をもたせるのは日本だけである。よく知られる「種蒔く人」や「蒔かぬ種は生えぬ」のほか、工芸には「蒔絵」があって日本人には馴染みの深い文字といえる。だが、蒔植(ししょく)の例からも判るように苗の移植が本来の意味である。

 さて、先頭の撒播をサンパと読むのも実は慣用に従っていて撒の正式な音とは相違する。正式にはサッパとすべきだが、文字の印象からかサンパと読む人が多い。辞書にもこれを慣用読みとして掲載するものが多くなった。つまりはそれだけ日本人の漢字力が下がったことを示している。

 この原因は戦後の漢字「改革」にある。撒を使う人には白い目を向け、代わりに散を使うよう奨励した。こうして農業書などの記述にも散播が登場するようになった。だが散の意味は「ちる」や「ちらす」であって、種や水を「まく」ことではない。散水栓も散水車も散播も、文字を大切にする人には実にいい加減な表現と映ろう。公金を使った「文化」政策によって古い歴史をもつ言葉を次々に排除し、妙な新造語の使用を奨励した時代、これが戦後と呼ばれた時代のもう一つの姿である。

 話を元へ戻そう。撒・条・点の三文字はそれぞれ種子の「まきかた」を表している。撒はまんべんなくバラバラとまくこと、条は平行線でも引くように隣の列との間隔をとって真っ直ぐ一直線にまくこと、点は条に似ているが種と種との間隔も一定に保ちながらまくことである。JA京都・企画営農課の芦田さんの説明が分かりやすいので興味のある方にはお勧めしたい。


 芦田さんは難しい漢語の使用を止め、それぞれ「ばらまき」「スジまき」「点まき」と表現している。何より解説が丁寧で行きとどき、かつ論理的でもある。通販業者などが作る、にわか仕立てのページとは違うことがお判りいただけるだろう。


 写真は六日目の様子。箱全体に撒播(ばらまき)したつもりだが、仮に撒播が適切なまき方であったとしても合格点は取れそうにない。それに大根だから、この先どう育てるか思案に暮れるところだ。(つづく)

情報過多--大根日記(2)2012/09/11

 袋には「交配耐病総太東山大根」と品種名が記されていた。古くから「くみあいのタネ」として親しまれている商品で、我が家では毎年この種を購入して家庭用の大根栽培を行なってきた。しかし母が高齢になり、野菜づくりはできても、前提となる日常生活のための火の使用などに不安が生じていた。何度も説得し、ようやく独り暮らしを諦めてもらった。畑作の断念はそのついでに決まったことである。

 これが通いで野菜づくりを始めることになった理由だが、母にしてみれば口惜しさは残る。農作業の全部を任せなければならないほどワシはまだ耄碌していない、とばかり細かな作業にまで一々口を出してくる。現場に出向いて監督するかと思えば、作業後に念入りな検分を行なって注文を付ける。他にすることのない閑人だから口うるさくて叶わない。

 一箇所に二粒ずつ蒔いたのも、他ならぬこの指示に従ったまでのことである。この二粒という指示は母の永年の経験に基づく数字だが当然、前提となる畝の作り方や間隔、その後の管理方法や管理の手間など母の頭の中にはいくつもの条件があって、そうした条件の上に成り立っている。

 ところが、こうした野菜づくりの現場を何も知らない人でも現代はインターネットを検索することによって、すぐにも野菜づくりを始められそうな多くの情報が手に入る。しかもたいていの情報には写真が付いている。だから、ある人は大根の種は「一箇所に3~6粒ずつまき、2回間引く」のが「正しい」作り方だと信じ、ある人は「一箇所に4~5粒ずつまき、3回間引く」のが「よい」と思い込むことになる。(つづく)

播種四日目

播種五日目

  ※こんなに発芽しても最終的に残せるのは1本、無理しても2本までである

☆追悼・井上ひさし先生2010/04/15

 井上先生が亡くなられた。昭和9年(1934)11月のお生まれである。先生は六十代も半ばを過ぎる頃から僕はあと何年生きられるかな、元気で体力の要る台本の執筆があと何本できるかなと半ば冗談のように言っておられた。当時はまだ幼かった坊ちゃんのことも気がかりだったに違いない。

 せめて平均余命くらいはお元気で、存分なご活躍をお願いできるものと思っていた。今の七十代半ばならあと10年やそこらは大丈夫と勝手に決めていた。それなのに急に鬼籍に入られてしまった。日本の戦争と平和について考える上でも、日本人のユーモアや知の問題について考える上でも大きな大きな柱を失ってしまった。誠に残念と云うほかない。

 すでに多くのメディアが関係者のコメントを発表し、特集も組んでいる。ここでは先生の作品を夢中で読み、その芝居を愛し憧れ、台本の遅れに悩まされながらも、劇場側から叱咤されたり揶揄されながらも、必死で芝居づくりを支えてきた人々のあったことを指摘しておきたい。またそれらの人々が先生のご様子の変調を感じ、人間が生き物である以上は誰も避けることのできない運命の日の遠くないことを察しながらも、実際にそうなってみると羅針盤を失い舵を失った小舟のように深い悲しみと落胆に揺れ沈み悲嘆に暮れる姿を目にして改めて、先生の芝居に賭ける情熱やお人柄を思わずにはいられない。

 十年ほど前のある日、先生が新宿のサザンシアターで行われた公演の後に「僕の夢は僕が亡くなったらサザンシアターを1年間借り切って、僕の芝居を全部通しでやってもらうことだね」と言われたことがある。そのときは何も考えずに「ああ、それは豪華ですね」と応えてしまったが、キャスティングや稽古時間の確保などちょっと考えただけでも困難な問題がたくさんあってすぐに実現できそうな話ではないとあとで気づいた。あるいは舞台制作の素人を前に軽口を言われただけのことかも知れない。だが「台本の心配はないですね」と言ったとき、「これが僕の遺言だって今から言っておけば、きっと誰かが考えてくれるでしょう」とも語っておられた。実現すればファンにとってはまさに夢のような話である。


 早いもので今日は仏教で云えば初七日にあたる。今頃、先生はきっと三途の川のほとりで恐い恐い鬼の姥と翁に詰問されていることだろう。若き日の先生には、とても娘さん三人の父親とは思えない「江戸紫絵巻源氏」のような性春を謳歌したパロディ小説もあるからだ。どんな顔で抗弁されることだろう。そう考えると悲しみが少し癒え、可笑しさが込み上げてくる。

 持ち前のユーモアと知恵で無事に川を渡りきって、彼岸で待つ竹田又右衛門さんなど幼馴染みの方々と再会できるよう祈りたい。そして小説のことも、台本のことも、締め切りのことも、「十分に強い」女性のこともみんな忘れて「下駄の上の卵」時代の童心に返り、思う存分に野球や悪戯を楽しんでいただきたい。

 先生、楽しい夢を、愉快な言葉を、生き抜く知恵を、たくさんたくさんありがとうございました。(合掌)

◆足利事件と飯塚事件の差(3)2010/03/27

 最近、政治の世界では説明責任と云うことが喧(やかま)しく叫ばれるようになった。鳩山総理も民主党の小沢幹事長も説明責任を果たしていない、そのことが内閣支持率や民主党支持率急落の最大の原因だとマスコミはしきりに報道している。では今回の冤罪について日本の裁判所や司法関係者は国民に納得のゆく説明をしているだろうか。

 宇都宮地裁の佐藤裁判長は判決で菅谷さんが無実であると言い切った。その根拠についても明らかにした。管家さんを犯人扱いし、精神的に追いつめ、自白を強要し、挙げ句の果てに17年半に及ぶ長い刑務所暮らしを強いることになった有罪の決めてであるDNA型の鑑定が誤りだったと断じた。


 菅谷さんについては、ここに至るまでに地裁、高裁、最高裁と3回もその道の専門家が血税を使った審理を行っている。だが誰一人として、菅谷さんの罪が濡れ衣であることを見抜けなかった。三審制は機能しなかった。再審請求審の棄却も含めれば4回も節穴裁判が行われていたことになる。これが裁判のあるべき姿でないことは誰の目にも明らかだろう。日本の裁判官も司法関係者も、これを不名誉なことと思わないのだろうか。不思議でならない。どう見ても日本の刑事裁判は「人を見る目」を排除した、それとは相容れない恐ろしく非人間的な基準や常識によって行われている。

 ⇒ http://atsso.asablo.jp/blog/2009/07/01/4404461 人を見る目

 日本の裁判所や裁判官に「人を見る目」やその持ち主となることを期待するのはどうも無理そうである。司法試験に合格するような人には、合格しても検察官や裁判官を志すような人にはそんな人間らしい目の持ち主は期待できないと云うことだろう。もしそんなことはない、それくらいの目は持っていると主張する人がいれば、裁判所がこれまで再審の訴えに対しどんな対応をしてきたか、なぜ「真実の声に耳を傾けられ」なかったのか、傾けようとしなかったのか、その原因は何だったのか、どこに耳を貸さない・傾けない本当の原因があったのかをつぶさに検証し、その結果を国民に向かって堂々と公表して欲しいものだ。

 しかし新聞などで法曹関係者のコメントを読むと、裁判所にこうした期待を抱くのは無理だと思わざるを得ない。となればここはマスコミに期待するしかない。そもそもマスコミにも冤罪を許した大きな責任がある。マスコミは今こそ自発的かつ積極的に足利事件を始めとする戦後の冤罪事件の報道を洗い直し、自分たちがそれぞれの事件にどう対応したか、事件や裁判とどう向き合ってきたか、犯人や被告とされた人たちと面会しその話に一度でも耳を傾けたことがあるかをまず検証してみる必要がある。そうした自己点検が果たして行われるかどうか、どのくらいの規模になるのかを見守りたい。

 もしこうした努力を怠ったまま、相変わらず「警察への取材で分かった」とか「関係者への取材で分かった」などと記者発表や意図的に流される情報ばかりに頼ってこれまでと同様の安直な報道姿勢を続けるとしたら日本のマスメディアは早晩、国民の信頼も支持も失い消滅することになるだろう。今こそ警察官にも検察官にも裁判官にも期待できないが、しかしジャーナリストには「人を見る目」があることを見せて欲しい。それを検証記事で証明して欲しい。(つづく)

◆足利事件と飯塚事件の差(2)2010/03/26

 栃木県足利市で20年前の1990年に幼い女児が殺害された事件の犯人として逮捕され、2000年に無期懲役が確定した管家利和さんの再審(やり直し裁判)で26日、宇都宮地方裁判所の佐藤正信裁判長は菅谷さんに対し明確に無罪とする判決を言い渡した。公判の状況から無罪判決の出ることは十分予測されていたが、無罪の根拠として捜査段階におけるDNA鑑定の証拠能力、菅谷さんの自白の任意性や信用性、あるいは録音テープが証拠採用された起訴後の検察官の取り調べについてどこまで踏み込んだ判決が下されるかに注目が集まっていた。また無期懲役確定までの関係者として唯一謝罪のなかった裁判官が公判廷で菅谷さんに対し、どのような対応を見せるかも注目されていた。


 判決の中で佐藤裁判長は捜査段階におけるDNA鑑定に証拠能力がないこと、自白は虚偽で信用性のないことを挙げ、菅谷さんが「犯人でないことは誰の目にも明らかになった」と述べた。また起訴後に行われた検察官による別事件の取り調べについて黙秘権の告知をしていないこと、弁護士にも事前に連絡をしていないことを挙げ、取り調べに違法性の認められる点も指摘した。

 従来の再審無罪判決では速やかな無罪の言い渡しこそが被告の利益であり名誉回復につながるとする検察側の主張に配慮する形で、綿密な証拠調べによる有罪確定判決の問題点の洗い出しを避ける嫌いがあった。だが今回の判決では「無罪を言い渡すには誤った証拠を取り除く必要がある」とする弁護側の主張を容れ、DNA型の再鑑定に当たった鑑定人の証人尋問、取り調べの様子を録音したテープの再生、取り調べに当たった検事の証人尋問などを行っている。今後の再審裁判のあり方を考える上でも大きな前進と云えるだろう。

 加えて、判決の言い渡し後もうひとつ特筆すべき出来事があった。佐藤裁判長が二人の陪席裁判官とともに立ち上がり、「菅谷さんの真実の声に十分に耳を傾けられず、17年半の長きにわたり自由を奪うことになりました。誠に申し訳なく思います」と謝罪したのである。これこそ菅谷さんの深く傷つけられた心を開き、悪夢のような忌まわしい獄中生活を払拭して新たな再出発の後押しをするに相応しい再審裁判官としての対応と云えよう。

 本来なら最高裁長官が全裁判官を代表して詫びるべきところである。こんなところにも人間としての値打ちが現れている。嫌なことばかり続く世の中だが、少し救われた気がする。判決後の「嬉しい限りです。予想もしていなかった」と語る菅谷さんの笑顔が何より佐藤裁判長の判断の適切さを表している。このことを真に理解できる裁判官がこの国には何人いるだろうか。誰か知っていたら答えて欲しい。(つづく)

 ⇒ http://atsso.asablo.jp/blog/2010/01/23/4833688 足利事件と飯塚事件の差

◎練馬野にも空襲があった 102010/03/16

 こうして今年2010年の1月下旬にバスの中でたまたま地元のお年寄りから伺った若い頃の思い出話を整理してみると、太平洋戦争が始まってからの練馬野はもはやかつてのような鄙びた武蔵野の一部ではなくなっていたことに気づかされる。実情は全くその逆であり、英米の大国を相手に仕掛けた「聖戦」を完遂するための重要な拠点に変わっていたと見ることができる。


 さすればこの地域が相手からの攻撃や爆撃に晒される可能性は回避できない。ひとたび戦局が悪化すれば極めてその可能性が高くなる。住民たちはそんなことを遠くで感じながら夫や息子や孫を出征させ、留守を預かりながら不安な日々を送っていたことになる。日の丸直撃の話には、そんな住民たちの率直な心情が現れていた気がする。

 事実、終戦間近い昭和20年この地区は全村疎開を言い渡され、多くの住民が隣村にあたる埼玉県の片山村(現・新座市)へ移ることになったとも聞いた。ひとつ間違えば練馬野は焼夷弾による攻撃とガソリンの爆発で火の海と化し、人も家も林も家畜も全てが丸焼けの台地に変わり果てる寸前の状況にあったと云えるだろう。


 最後に気になる点を挙げて、この話を終ることにしたい。それは、こうした話が練馬区や板橋区の地元できちんと語り伝えられているだろうかという点である。東京下町のいわゆる東京大空襲については近年、発掘や保存が進んでいる。だが、現在も軍事基地や軍事施設と無縁とは云えない両区において、また埼玉県側の和光市、朝霞市、新座市において、こうした問題への取組みがどのように行われているのか気にかかる。生き証人の多くがすでに80歳に近づき、あるいは90歳を越える現状にあって一刻の猶予もならないと感じている。(了)