◆りんごの誤解 残留農薬(2)2010/03/01

 とは言え、人はそれぞれである。気にする人は気にするし、気になる人は気にして眠れなくなるかも知れない。そういう品は正直口にしないのが一番だが、それでは生産者が困ってしまう。こういう人は従来どおりに皮を剥いて食べるしかない。ミカンの皮と同様、この部分は食べないものと考えるよりほかあるまい。

 鯛の頬肉やヒラメの縁側を知らない人に、それらの美味さをいくら語ってみても始まらないのと似ている。ウマヅラハギは皮が厚くて食べられないだの、食べたこともないのに不味いと決めつけて平気で海や浜に捨ててしまう食の通人や美食家に説法するようなものだろう。所詮人は顔つきが違うように育ちも価値観も違うのだから無理に押しつけても仕方がない。


 もうひとつの方法は、公開されている農薬散布の計画表を入手し、不審な点は実際に現地へ出向いて自分の目で確かめるとよいだろう。例えば収穫のだいたい50日ほど前に散布するボルドー液が、りんごの皮の表面に点々と白く斑模様を残していることだってあるかも知れない。それらが果たして本当に水に落ちるものか、そもそもボルドー液とは何なのか、白い液体はどんな薬剤から作られているのか、皮の内側には吸収されないのかなど率直に疑問をぶつけ、納得の行くまでつぶさに調べることをお勧めする。都会の消費者がエアコンや空気清浄機の完備したビルやマンションの中で、自然環境の保護が必要だの食の安全が危ういだのと議論をしているよりは遙かに健康的だろう。

 一方、全国の果樹農家・農園には積極的にこうした計画表を公開し、消費者が直接自分の目で確かめる機会を設けて欲しいと願っている。そうすることで果樹など農作物栽培に対する真の消費者理解が進み、農薬散布に対する過剰な疑念や誤解が晴れることを期待したい。参考までに、ある農園の2010年の農薬散布計画及び実施結果をお目にかけよう。(つづく)

 ⇒ http://park7.wakwak.com/~hironiwa/Apple/chemical.pdf ヒロニワ農園(長野県飯田市)

◆りんごの誤解 残留農薬(3)2010/03/02

 ボルドー液はその名の通りフランスのボルドー地方におけるブドウ栽培から始まった果樹のための殺菌剤である。ブドウもりんごも収穫前のまだ木になっている状態で観察すると、いずれも表面が白く粉を吹いたように見える。ブドウの場合は果皮には直接手を触れないのが理想だから店頭で買い求める際にも、この白い粉を吹いたようなものは例外なくほぼそのまま残っている。

 だから気にする人は多分これを農薬のせいと思うだろう。そして白いものを洗い落とそうと懸命に水をかけたり、一粒一粒丁寧に粉を擦り取ってから食卓へ出している。また口へ運ぶ際にも皮が口へ入らないよう丹念に表皮を剥き去っている。だが注意深い人なら、この白い粉のようなものの付着がどうも農薬の散布とは関係ないとすぐに気づくはずだ。なぜなら農薬など全く散布していないその辺の庭の甘柿などにもうっすらと付いているからである。


 この正体は果粉と呼ばれ、りんごや柿やブドウなどが果皮の内側から出している保湿成分の一種である。生物として果実内の水分蒸散を調節するために自分自身で一種のワックスをつくりだし、自分の力で表皮に塗って保護に努めているのである。だから蝋のように固まってうっすらと白く見えるものもあれば、品種によってはまるで油でも塗りつけているかのようにベトベトするほどたくさん付いていて、洗剤を付けたスポンジなどで擦っても容易に落ちないものもある。りんごで云えばジョナゴ-ルド、つがる、千秋などが後者の例になろう。

 いずれにしてもこうした誤解が生まれる背景として、りんご農家を始めとする生産者側に情報提供の面で不足するものがあることを指摘しておきたい。またこうした問題の解決を行政に頼りすぎた嫌いもある。不審が不信を生み、言い訳がまた不審につながるという負の連鎖を断ち切るために、どうしてもこの辺で生産者自身による情報の積極的な開示と情報を継続して提供するための自助努力を始める必要がある。まずは農薬散布の実情を公表する農家・農園が増えてゆくことを期待したい。(了)

◆豊後梅 22010/03/03

 ところで既に記したように豊後が大分県中部および南部を指す旧称であることは疑いない。だが、それだけで豊後梅の「豊後」を豊後の国の「豊後」と見なすのは危険である。その程度の論拠で納得していると、いずれ浄瑠璃の豊後節までが大分県の民謡と思われてしまうだろう。県のホームページで「豊後梅は、その名の示すように豊後(大分県)に発祥し、古くから豊後の名産として知られていました」と記すからには、名称以外の何か有力な根拠が必要である。

 しかし同県の県花・県木の紹介ページには、この点に関する明確な説明がない。「豊後梅の歴史」と題して江戸時代も17世紀後半の延宝9年(1681)に刊行された水野元勝の「花壇綱目」を紹介しているが、この刊本は今で云うところの園芸手引きであって豊後梅の由来を記すものではない。土質や施肥などの養生法は記しても、豊後国との関係には触れていない。この書の記載から推定できるのは、この品種が当時すでに園芸種として好事家などの間に一定の知名度をもっていたと想像されることくらいである。

 ホームページにはもうひとつ、杵築(きつき)藩主の松平公から「毎年将軍家に大梅の砂糖漬が献上され」たとの記述も見える。だが、この大梅を豊後梅と断定するためにはやはりそれなりの証拠や傍証が必要である。そうしたものが全て揃って献上の起源が明らかになり、それが江戸の初期17世紀初めにまで遡ることができて、しかも将軍家がこれを杵築の梅ではなく豊後の梅と呼んでいたことが文献や史料から説明できれば、当時まだ無名に近かったこの品種が江戸を中心に豊後梅(ぶんごのうめ)と呼ばれるようになったというようなことに、あるいはなるのかも知れない。

 そうなって初めて、上記の「花壇綱目」も大分県の県花・県木を支える史料のひとつに仲間入りすることができる。税金を使った仕事に史実に基づかない希望的記述や曖昧さは許されない。ただでさえ不確かなインターネット情報に新たなノイズを撒き散らすのは止めるべきだ。不明確な部分は「不確かではあるが」と率直に記す勇気が必要である。県の公式ページが今のような虚仮威(こけおど)しに近い文献史料の利用を行っていては県民の文化水準までが疑われかねない。(了)


◎季節の言葉 ひな飾り2010/03/03

 今日は春の節句。近ごろは「節供」より「節句」の方が多く用いられる。だが本来は節(せち)の日に供えるものの意である。だから「節供」と記すはずだが、いつの間にか替ってしまった。これも一度確かめておく必要があろう。なお節とは季節の変わり目ごとに祝いをする日のことで、元日(一月一日)に始まり、三月三日、五月五日、七月七日、九月九日と続く。

 子どもの頃、娘はいなかったが毎年この季節になると父が土蔵から「お雛様」を出して飾ってくれた。おそらくは伯母・叔母たちが買ってもらったものを姉妹で分けるわけにもゆかず、そのまま生家に残したのだろう。だから明治の作ではないかと思う。飾ってもらえたのは小学校までで、その後はぷつりと姿を見なくなった。土蔵の奥を探せば、きっとどこかで眠っているに違いない。

 また見たいものだ、今年こそは出そう・探そうと思っているうちに30年も40年も過ぎてしまった。どこにしまってあるか、もう教えてくれる人もいない。今のうちに見ておかないと、お雛様の存在すら誰も知らなくなってしまう。

  雛菓子の美しかりし世もありし 池内たけし


 写真の雛はパンフラワーを素材にした素人の作だが気に入っている。豆菓子のように小さくて可愛い。

○こぶし咲く2010/03/04

 このブログもあっという間に1年以上が過ぎてしまいました。前に書いたという確かな記憶はあっても、それがいつだったかを思い出すことが段々難しくなってきました。そろそろどこかで整理をしておかないと、頭の中もブログの中も屑籠同然・反故同然の状態になりそうです。

 今日は午後になって漸く日射しを拝むことができました。また暖かさが戻ったせいか、あちこちから「こぶしの花が咲いたよ」という知らせが入りました。思い起こせば、この欄で最初に「こぶし・拳・辛夷」を書いたのは昨年の3月のことでした。ちょうど、お彼岸の頃ではなかったかと記憶しています。記憶が間違っていなければ、その次くらいに「春さらば」が掲載されたはずです。

 ブログに参加したのは国語辞典のあり方に強い疑問を抱いたことと関係があります。前々から、日本語の権威と持て囃される「広辞苑」の内容が気になっていました。改訂の方針が妙ではないかと呆れていました。世間が崇めることとの懸隔がありすぎると感じていました。都合4回にわたって掲載した「こぶし」の記事は、そうした疑問の一例に過ぎません。

 ⇒ http://atsso.asablo.jp/blog/2009/03/24/4201451 こぶし・拳・辛夷(1)
 ⇒ http://atsso.asablo.jp/blog/2009/03/25/4202634 こぶし・拳・辛夷(2)
 ⇒ http://atsso.asablo.jp/blog/2009/03/26/4204426 こぶし・拳・辛夷(3)
 ⇒ http://atsso.asablo.jp/blog/2009/10/12/4629074 こぶし・拳・辛夷(4)


 初めの頃はどんなテーマも全て文字のみで綴っていました。春に書いた3回分にも写真は載せていません。そこで今日は撮影して来たばかりの咲きたての「こぶしの花」を追加で掲載します。撮影は3個所で行いました。それぞれ別の樹木の写真です。蕾が大きく開いていたのはそのうちの若木2本でした。大木の開花にはあと一日か二日、暖かい日射しが必要なようです。

  黄昏の風吹くばかり花辛夷 松沢 昭

◎練馬野にも空襲があった2010/03/05

 また今年も3月10日がやって来る。広島の人が8月6日を忘れないように、長崎の人が8月9日を忘れないように、東京下町の地獄のような火の海を生き延びた人は3月10日を忘れない。しかし忘れたくなくても人の記憶は生命が尽きれば滅んでしまう。65年という長い歳月には抗えない。一人また一人とその記憶は消えてゆく。ここに人の記憶と記録されたものとの大きな差がある。


 練馬野とは武蔵野の一部、今の東京都練馬区から埼玉県南部辺りに広がる起伏緩やかな台地の称である。「白梅日記」で紹介した中島よしをの句は、アジア太平洋戦争後もまだ間もない頃につくられた。その練馬野が、未開の雑木林と所々に混じる開墾された畑と粗末な藁屋根の風景から次第に雑木林が減って、畑の脇には勤労者の新しい住宅が建ち並ぶ風景へと変わり始めた頃に詠まれた作品であろう。

 今年2010年は昭和元年(1926)から数えると85年目に当たる。昭和への改元は12月25日に行われたため、実際の昭和元年は7日しかない。12月25日は大正最後の日でもある。いずれにしても1926年に生まれた人はアジア太平洋戦争が終った1945年(昭和20)に20歳を迎え、その後も無事に生きながらえていれば今年で満85歳となる。この話はまさにこれに当てはまる一人の女性から直接聞いたものである。(つづく)

◎練馬野にも空襲があった 22010/03/06

 その女性とは都内を走るバスの中で偶然、隣り合わせた。腰の曲がり具合から想像して地元の農家の主婦ではないかと想像する。最初に話しかけたのは筆者の方である。道路の脇に電車の高架が立っていて、そこを黄色に塗られた電車が通り過ぎるのを目にした。これがきっかけとなって話が始まった。

「すみません、あの電車は昔なんて呼ばれていましたっけ?」
「うーん、確か武蔵野鉄道だったかな。もう忘れちゃったね…」

この時、近くから親切な若者が補ってくれた。

「今の西武鉄道は、武蔵野鉄道が合併してできた会社ですよ。お婆さんの言うとおりです」


 女性の記憶力が確かなことを知って今度は次の質問をしてみた。

「お婆さんはこの辺りのお生まれですか?」
「ええ、25歳でお嫁に行くまで大泉にいました」

「今おいくつですか?」
「84歳。今年は85歳になります…」
「ということは、終戦の時は20歳ですね。きっと、もてたでしょうね?」

 年を取って皺は増えていたが端正な顔つきの女性だった。ちょっと照れ笑いを見せた。そこで、思い切って聞いてみた。

「青年会では竹槍訓練をなさいましたか?」
「あんなもん、なんにもならないわ」と、女性は静かだが吐き捨てるような強い口調で筆者の顔を見て言った。(つづく)

◎練馬野にも空襲があった 32010/03/07



 突然の変化に驚きながら、何かあるなと感じた。

「出征兵士の見送りには行かれましたか?」
「行ったよ…」
「どこの駅で見送ったのですか?」
「大泉学園さ…」

 明治の末年に設立された武蔵野鉄道が池袋~飯能間で営業運転を始めたのは大正4年(1915)の4月である。初めは汽車を走らせた。所沢までの電化が完成したのは大正11年、保谷までの複線化は昭和4年(1929)に完了した。大泉村に駅ができたのは大正13年11月のことである。駅名は東大泉と云った。

 これが現在の大泉学園駅に改称されたのは昭和8年3月のことである。当時の大泉村は昭和7年10月に誕生した東京市板橋区に属していた。市内35区中最大の面積を誇る板橋区の中にあって最も西寄りに位置し、人家まばらな文字通りの片田舎だった。昭和5年の国勢調査によると、1平方キロメートル当たりの人口密度はわずか423人である。板橋町8,505人、練馬町1,733人、上練馬村588人、中新井村2,026人、石神井村703人などと比べても、その寒村ぶりが際だっていた。(つづく)

◎練馬野にも空襲があった 42010/03/08

 そもそも大泉は近代になって、ある事情から生まれた新地名である。江戸時代は武蔵国豊島郡に属する土支田村上組、新座郡に属する橋戸村、小榑村、上新倉村長久保の各地域に当たるが、これらのどこを探しても大泉なる地名は見出すことはできない。明治に入っても東京と埼玉の府県境に近いこの辺りは22年の町村制施行まで埼玉県新座郡榑橋村、上新倉村、さらに東京府北豊島郡石神井村の一部であった。この時代にもまだ大泉なる地名は使われていない。大泉村の誕生は明治24年(1891)、これらの地域の全部または一部を併せて生まれた新しい村のために新しく考案されたものだった。

 当時、合併で生まれた新しい村の呼称をめぐって紛糾したことがあった。旧村が互いに譲らず困り果てていたとき、豊西尋常小学校長が白子川の源流である弁天池の湧き水に由来する泉村はどうかと提案した。これが元になって小泉(おいずみ)などの案が生まれ、誤読がされにくい大泉に落ち着いたと伝えられている。(「練馬区独立60周年記念ねりま60」より)


 そんな村のたった一つの駅が突然、大泉学園駅と改称されることになった。駅の北側に広がる原野や耕地を大々的に区画整理して学園を誘致しようという構想が持ち上がっていた。結局、学園の誘致は幻に終ったが、この辺りには珍しい整然とした区画の町並みと新しい駅名だけは残った。昭和8年春のことだった。(つづく)

◎練馬野にも空襲があった 52010/03/09

 その頃、中国大陸では関東軍による東北部への侵攻作戦が慌ただしく進められていた。昭和6年9月には柳条湖事件を自演して満州事変の火ぶたを切り、翌7年には各国の意向を無視して満州国を樹立し、長い日中戦争の泥沼へと突入していった。昭和8年は満州事変に関するリットン調査団の報告書が国際連盟総会で可決され、日本政府が連盟からの脱退を余儀なくされた年でもある。

 だが練馬野も大泉も学園都市の建設を除いては昔と何ら変わることのない平穏な日々が続いていた。時折通る電車の音以外は馬のいななく声か風の音が響くばかりだった。住民には軍部の意図や政府の方針など知る由もなく、不満といえば板橋区への編入が決まって村役場が廃され何かと不便を感じることくらいであった。


 そんな練馬野ではあったが戦線の拡大に伴って、兵員需要を賄うための徴収の余波が次第に押し寄せるようになった。特に米英開戦が避けられない状況になると、働き盛りの若者がいる家々には次々に召集令状の赤紙が届けられた。危機感を募らせた女性たちの間に、誰言うとなく千人針をしようという話が持ち上がったのもこの頃である。

 千人針とは一枚の布に千人の女性が赤糸で一針ずつ刺し、全部で千個の縫い玉をつくって出征兵士に贈る布きれの意である。戦場に赴けない女性たちが編み出した切ない祈りのような運動でもある。その起源は半世紀前の日清・日露の戦役まで遡る。家族や親戚から贈られた千人針の腹巻きをいつもしていた出征兵士が戦場で危ない目に遭いながらも無事に帰還できたという言い伝えに村の女性たちは願いを託した。(つづく)

 ⇒ http://www.pref.shiga.jp/heiwa/popup/aha_22.html 千人針(滋賀県)