◎余り苗--都会の田圃(7)2009/07/12

 先月初旬、足利事件の管家さんの釈放を伝える記事が大々的に報じられた朝のことである。ある全国紙の2面の隅に、余り苗を詠んだ句が紹介されていた。句の脇には、苗の置かれた場所である「水口」についての解説があった。一目見て「あっ、記事の筆者は稲のことを知らない人だ」と感じた。こともあろうに日常一般の水口と一緒くたにして「田んぼに水を出し入れするために畦(あぜ)を切っておく、それが水口。」と解説してあった。案の定、ルビは畦にだけ振られていた。
 この言葉は、米作りにとっては昔から大変重要な意味のある場所を指している。だから尊い場所として、そこには田の神様が祀られる。しかし購読者数日本一と言われる新聞でさえ、米作りの知識はこの程度のことに過ぎない。情けないが、これが現実だ。筆者も筆者だがブログの記事と同水準ではいけない。担当の記者がいて、デスクが控え、校閲も通っている。同じ社の同じ手続きによって農政記事が書かれ、教育批判がなされ、社会面がつくられている。氷山の一角でないことを祈りたい。
 写真の余り苗は「水口」とは別の場所に置かれている。機械植えの精度が上がり、近頃では手直しの必要はあまりないかも知れない。それでも余った苗はこうして田圃の隅などに保存され、補植や隣家などの需要に供されている。なお「水口」についてはいずれ新釈国語の中で解説してみたい。

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