○キイチゴ熟して--盛夏2009/07/13

 先月、何回かにわたって掲載した「夏便り」の続編を「盛夏」として不定期でお届けする。19日に木苺のことを書いた。その際、実の色は黄色系と赤色系に分かれると紹介したが最近、外国産であろう赤色系の園芸種には朱色から赤色に変わり、さらに黒ずんで桑の実のような色になるものがあることを知った。形も桑の実を思わせる。
 個人的な無知のためである。子どもの頃から親しんでいないと、なかなか目が向かない。そのため気づくのが遅れる。ただそれだけのことだ。植物に上品種とそうでないものとがあるわけもない。だが、どうも西洋のものが直接日本に入ってくると大きすぎて少々品が下がって見える。歴史の中で長い時間を掛けて伝わったものと、そうでないものの差があるように感じられてならない。

 ⇒http://atsso.asablo.jp/blog/2009/06/19/ 木苺の花 木苺の実

■大局観--新釈国語2009/07/13

 経済情勢など変動や変化のある事柄について個々の指標や動きだけでなく関連する様々な要因や事象全体に広く目を配って把握し、その成り行きを見定めること。大局は囲碁の世界から出た言葉で、盤面全体の形勢をいう。観は文字通り、目に映った印象や目に見える物事の状態・様子を指す言葉であるが広く、物事の見方や考え方を示すときにも用いられる。株式や為替など相場の変動が激しい世界では大局観はとりわけ大事なものとされ、これを誤って一時的な綾戻しや綾押しに惑わされると大きな痛手を被る。
 政治の世界においても同様で、とりわけ定期的な選挙の洗礼を受ける党勢の分析にはこれが欠かせない。政党指導者には現状が上昇傾向にあるか、その逆の下降気味か、足踏み状態かといった判断を大きな流れの中で的確に下すことが求められ、その判断に基づく迅速な対応が不可欠である。特に下降局面においては傾斜の角度と速度の見極めが重要であり、これを誤ると手遅れがひどくなって党勢を一層の衰退に導く。

■浮き足立つ--新釈国語2009/07/13

 お化けの出没や敵の攻撃など身の危険を感じる噂が広まり、じっとしていることができずにそわそわしたり、不安に耐えきれなくなって泣き出したり、逃げ腰になること。浮き足は、身体が胸の辺りまで水に浸かると浮力のために足が底を離れてふわふわし、歩きにくくなるさまをいう。こうした状態では一定の場所に立ち続けることが難しく溺れるかも知れないと感じてその場から逃げ出そうとするため、転じて逃げ腰の意にも用いられる。相撲では、勝負間際に力士の身体が大きく反ったり投げられたりして片方の足が土俵から離れた場合の宙に浮いている側の足を指す。また株式相場などでは景気に対する見方の対立から相場が激しく上下する意にも用いられる。
 なお政界では衆議院議員の失職を意味する解散やその噂が伝えられた後の議員の心理状態を表す語としても知られ、万歳を叫んで国会議事堂を去る瞬間まで同様の状態が継続する。

◎補植風景--都会の田圃(8)2009/07/13

 人間にはずぼらと評される人もいれば几帳面と言われる人もいる。昔、数を頼みに大勢の人が田植えに参加した時代はその家の主人(あるじ)の性格によって、植えた苗の手直しや補植の風景は大きく違ったように記憶する。苗の間隔の調整に重きをおく人もいれば、本数を気にする人もいる。少ないと感じれば足し、多いと感じればその分を分けて別にする。だから仕事にはその人の美的な部分が否応なしに現れた。何でそんな面倒なことをするのだと聞かれても、それが米作りだからと答えるしかない。
 大規模米作農家のことは知らない。しかし多くの先人達がしてきた米作りとはそのようなものであった。その人の性格が現れるほど多くの愛情を注いできたのだ。炎天下での田の草取りなど、一度でも経験した人でなければその辛さ、腰の痛さは分からないだろう。何も知らない人間が尤もらしく無農薬栽培などと口で言うのは簡単だが、それだけの努力を傾注して果たして作り手が報われるかどうかは甚だ怪しい。
 無農薬の田圃は雀もよく知っていて、群がって襲いかかってくる。敵は稲熱(いもち)病やイナゴだけではない。誰かが守ってくれるわけでもない。時には時代遅れと誹(そし)られながら先祖から受け継いだ田畑を必死に耕し、自分達で考え守ってきたのが都市近郊の農業だ。徳さんも自分と家族のことを思えばこそできる仕事であって、決して商品化や現金化が主目的ではない。「うちはまだ一昨年の米を食べているんだよ」とは奥さんの言葉だ。いつ田圃が消えるかと案じられてならない。

●粛々と2009/07/13

 静かに、ひっそりと何事かをなすさまをいう。粛の正字である「肅」は水に関係の深い「淵」の旁(つくり)を構成要素にもち水の激しい流れの意であったが、音の「シュク」が夙(シュク)に通じることから畏れ慎む意に借用され、やがてこの借用義が専らとなった。厳かなさまを示す「厳粛」、静かなさまを示す「静粛」が現代における代表的な熟語の例である。また頼山陽の詩「鞭聲肅々夜河を過(わた)る」が人口に膾炙されて多くの人の知るところとなった「粛々」は、本来なら騒々しくなっても不思議ではない事柄を少しも騒ぐことなく淡々と処理するさまを表す。この言葉は、国会審議に絡んで野党提出の懲罰動議や内閣不信任案などを与党側が否決する際の記者会見における常套句となっている。なお鞭聲は鞭の音の意である。

◎一歳児(4)2009/07/13

 生後数ヵ月から一歳未満の子ども達を何人もまとめて長期にわたって観察する機会は乳児院か保育園ぐらいにしかない。小児科医には地域の乳児に広く接する機会が与えられていても、定期検診か親が子どもに何らかの異常を感じたときでなければ訪れることはない。それに何人かの子どもをまとめて診るということもない。異常が解消されれば来なくなる。保健所が行う定期検診でも事情は同じだろう。だから保育園に預けている乳児のことを一番よく知っているのは母親かまたは担当の保育士ということになる。
 全部で8人いる乳児の中に目立って大きな女の子がいて、もうすぐ誕生日を迎える。つかまり立ちもできるし、元々が活発な子でよく動き回るから目が離せない。保育園に来たのはまだ這い這いができる前だったが、まるでオットセイか何かのように大きな身体でごろごろと転げ回った。とても同年齢とは思えないほどの体重がある。小さな子が下敷きにされ、窒息するのではないかとハラハラした。
 この子の姉も保育園にいるが決して身体は大きい方ではない。ごく普通の体格をしている。母親に聞くとずっと母乳で育ててきたという。保育園にいる間はミルクを飲ませたが、家ではつい最近まで母乳だけだった。両親の体格も普通である。いわゆる固太(かたぶと)りなのかも知れない。決してぶよぶよしたところはなく、肉付きは固く締まっている。しかも性格が猪突猛進型なのか、目の前に乳児が寝ていようが遊んでいようが構わずに真っ直ぐ這ってゆく。欲しいと思えば腕力で奪ってしまう。
 最近はこれに頭突きが加わって閉口している。どこで覚えたか相手の子におでこをがつんとぶつける。本人はどうも遊びか挨拶のつもりらしい。しかしぶつけられた方はたまらない。驚いて火がついたように泣き出す。「わぁ、またやった」と保育士が現場に急行して宥(なだ)める。乳児の世話は一人で3人の子を委されるが、この子だけはそうもいかない。人一倍手が掛かる。
 しかし憎めない子でみんなが気に掛け、みんなから可愛がられている。夕方には姉も顔を見せ、部屋の隅から心配そうに覗いてゆく。ちょうどその頃に人一倍大きなウンチをしてみせるのも、この子ならではの技と言えるだろう。(つづく)