春惜しむ--信濃路2009/06/01

 正式な題名は知りませんが、ホトトギスの鳴き声を聞くと決まって「卯の花の匂う垣根に…」という歌を思い出します。思わず口ずさんでいることも少なくありません。この歌を覚えた後で、昔は4月のことを卯月と呼んだのだと教えられたときは子供心にもひどく不思議に思ったものでした。なぜならホトトギスが鳴き出すのは早くても天皇誕生日か憲法記念日を過ぎる頃だと経験的に知っていたからです。昔の暦が今の暦と異なっていたことなど知るよしもありません。
 今の暦を見ながら、頭の中は現在の太陽暦を維持したままで旧暦の季節感を味わったり、旧暦使用の中で生まれたはずの季語を何の疑問も蟠(わだかま)りも抱かずに使ってのける現代人の感覚を果たして本物と呼んでよいものだろうか、と時にいぶかしく思うことがあります。そんなことを感じているうちに新暦の5月も終わり、旧暦の卯月もすでに半分が過ぎてしまいました。写真の田圃にも今頃はきっと水が張られ、もしかしたら田植えも終わっているかも知れません。

  信濃路の雨細やかに春惜しむ 片桐美智子

■百年に一度--新釈国語2009/06/01

 起こるとしても百年に一度あるかどうかの極めて珍しい希有な現象であると主張したいときに用いる言葉。百年という数字に具体的な根拠はないが、人間の寿命を超える長さとなるため誰も実体験に基づく反論ができないこと、ちょうど1世紀分の年数に合致し区切りもよいことなどから特別な異論もなく盛んに用いられている。世界的な経済不況が予測される場合などにこうした表現を持ち出すことで、現象への備えを欠いた経営責任や政治責任を回避することができるほか、時には同情を誘う効果も期待できる。愛好者には大企業の雇われ経営者やそれらの人々を養護して止まない政権与党などの政治家が多い。

春惜しむ--見ゆる限り2009/06/02

見ゆる限りの春惜しむ
  二階から見ゆる限りの春惜しむ 市川得佳

 療養中の句ではないかと想像します。高度経済成長前の日本は多くの人々が着るものにも食べるものにも事欠く日々を送っていました。肺結核はそんな時代を象徴する、不衛生と栄養失調を背景にした伝染性の恐ろしい病でした。ストレプトマイシンという特効薬はあっても、その費用を工面できる人は限られていました。空気だけは澄んだ郊外の僻遠の地に建てられた療養所に移され、そこで不帰の客となった若者も少なくありません。「見ゆる限りの」7文字に込められたのは、まさに過ぎ去ろうとしている青春の短さとそれを為す術もなく過ごしてしまったことへの無念さ、そして諦めの境地のようにも感じられます。再び巡ってくるか分からない春がいま終わろうとしているのです。飽食の時代に生きる若者には想像だにできない、病魔との闘いに暮れる若者の、しかしどこかに澄んだものを感じる佳句と言えるでしょう。

■風待草--新釈国語2009/06/02

 セイジ科ギイン属の四~六年生動物。日本原産。普段は東京永田町界隈に生息し、血税からつくられた歳費と呼ばれる主食を得て議員活動を行うほか、週末には議員パスを使って列車や飛行機に乗り、一時的に選挙区と呼ばれる場所に移動して風向きなどを観察して暮らす。自分からは決して汗を流さず、世の中の有為転変に期待する性向が見られる。そのため流行や変化には人一倍敏感で、その先回りをすることで常に追い風を受ける位置に立とうとする姿勢が強く、これが宵待草を彷彿とさせるとも、宵を待っても滅多に声が掛からないので風を待つしかないのだとも評され、命名の由来にもなっている。その政治家が小物であることの代名詞とされ、与野党を問わず政治家の度量を示す言葉として用いることができる。

◎アジサイの季節(予告)2009/06/02

雨が降ればいいのにな…。
 六月の声を聞くとアジサイの花が見たくなります。栽培は至って簡単です。湿気さえあれば挿し木で容易に増やすことができます。しかし好みの色に咲かせるのは難しく、これには別の技術も必要なようです。
 予告でお届けするのは昨年写したものです。今年はどんな色を見せてくれるでしょうか。雨は決して好きではありませんが、この花を見るときだけは雨が欲しくなります。天候と花の機嫌を伺いながら、中旬まで不定期で連載の予定です。ご期待ください。

  紫陽花や きのふの誠 けふの嘘  子規

■クリーニング機能--新釈国語2009/06/03

 最近のエアコンなどに見られるように、利用者が装置の点検や清掃をしなくても機械みずからが自己の状態を診断し必要な場合には機械の手でそれを行う機能をいう。パソコンにおけるエラーチェックや最適化の機能も一種のクリーニング機能と見なすことができる。民主主義の世界では政界の監視とそのクリーニングは有権者固有の権利であり義務でもあるが、家電製品などの便利なクリーニング機能に慣れ親しんだ一部の人々からは時に政治家や政党にもクリーニング機能が必要とお門違いな要求の出ることがある。

行く春--名もなき草2009/06/03

 北アメリカ原産と言われるハルジョオンがなぜこのように頭を垂れるのか、その理由は知りません。野に置けば写真のように愛らしい花ですが、庭にあっては雑草以外の何物でもありません。春先早めに見つけ、根っこから抜き取って退治します。人間は勝手なものだとつくづく感じながらも、どこかで春の終わりを教えてくれる、決して憎めない草花でもあります。

  ゆく春や名もなき草も頭たれ まさと

 なお明日からは、先日の「春惜しむ--信濃路」に続く「田圃のある風景」をお届けします。

■骨太の方針--新釈国語2009/06/04

 飽食や華美な生活に明け暮れた人々が財布にはもう借金の証文しか残っていないと気づいて慌てふためき批判の矛先を政府に向けたり、不満の捌け口を政権交代に求めたりすることを避けるために、従来とは目先の異なる手法によって宥(なだ)めたり安心させたりする方策。我々の骨は元々太く丈夫に造られているから案ずるには及ばないとする認識を示して安心させようとする部分と、無駄や贅沢を廃し極力カルシウムの摂取などに努めるならば将来的にはさらに強く太い骨になるであろうとする見通しの2つの部分で構成される。
 呼称の起源は、バブル経済の崩壊によって停滞を続ける日本経済の活性化と巨額の財政赤字を抱える国の財政状況の改善を目指した小泉内閣の政策にあり、竹中経済財政担当相の発案で設けられた経済財政諮問会議の答申を内閣の基本方針とする際にその別称として用いられた。従来型の内閣による基本方針との差を強く意識させる命名でもあったが、内閣交代劇が重なり諮問会議の影が薄くなると、案ずるには及ばないとする前段の認識部分だけが継承されて再び従来型の大盤振る舞い政策が勢いを取り戻し、今や命名の由来さえ忘れる政治家も少なくない。

夕暮れ--田圃のある風景2009/06/04

 片桐さんの句と共にご紹介した細雨の信濃路は、田圃にまだ水が引かれていませんでした。田圃を起こしても水がなければ代(しろ)掻きはできません。川があっても雨が降らなければ水位は低く、思うように水を分けてもらうことができません。昔は水争いが絶えなかったと聞きます。各地に今も残る溜め池の中には、新田開発が盛んに行われた近世から明治の頃に、こうした争いを避ける目的で造られたものが少なくないようです。
 今日の一枚は無事に代掻きが終わって田植えを待つ、夕暮れ近い信濃路の山里の風景です。やはり細かな雨が降っています。なお、代とは田圃のことです。代は、古代にあっては田圃の広さや面積を示すための単位でもありました。

七変化--アジサイの季節2009/06/04

 七変化(しちへんげ)は紫陽花の別名です。スイカズラの花が終わる頃、ガクアジサイのてっぺんに付いた小さな粒々に割れ目が見えたり周りにちらほらするものが花びらの形に見えてきます。七変化の始まりです。それから、うっすらと色づいてゆきます。この時期が一番好きだという人もいます。まだ清純そのものだからでしょう。しかし花言葉には「あなたは冷淡よ」も混じるとか。誰が付けたのでしょうか。
 なお写真が少しぼやけて見えるかも知れません。前夜の雨が花びらや粒々に、しっかりと残っているせいです。