○戻り梅雨(2)2009/07/26

 列島の先人達が梅雨というものをどう見ていたかは関連する言葉を眺めてみると、おおよそは知ることができます。戻り梅雨などという語も論理的に考えれば妙なものです。人間が勝手に梅雨明けしたと勘違いし、次はそのことを忘れて今度は梅雨が戻ったと感じているに過ぎません。実際にはまだ梅雨が明けていなかったのです。梅雨明けの判断が適切でなかったことなどすっかり忘れて、あくまでも梅雨は一度明けたのだという前提に立って、あれまた梅雨が戻ったようだと表現しているのです。
 ところがこれが残り梅雨という表現に変わると少々微妙な部分があるように感じます。本格的な梅雨の到来や再来を思わせるほどではないけれども、まだ何となくはっきりしない、すっきりした夏晴れにならないという感じです。つまり梅雨前線は北へ押し上げられその影響でないことははっきりしているが太平洋高気圧の勢力がさほど強くないために、所々に別の小さな前線ができたり雨雲があったりして夏の空を邪魔しているとでも言ったらよいでしょうか。
 他にも送り梅雨という表現もあります。梅雨の末期に前線の北上を見送るように降る大雨のことです。時に雷鳴を伴って降り、豪雨となることが少なくありません。最近は梅雨末期豪雨(ばいうまっきごうう)などと呼ぶことが多いようです。狭い地域に短時間に大雨を集中して降らせるので、土砂災害などの大きな被害をもたらします。今年で言えば山口県や九州北部の大雨がこれに当たるでしょう。
 いやしくも気象予報士と呼ばれて何某(なにがし)かの解説を試みるのであれば、梅雨にもいろいろな形態があること、今年の梅雨がそのいずれに該当するかは実は夏が終わってみないと分からないことなど素人よりは豊富なはずの知識を念頭に無理のない、聴く側にもそれなりに役立つ解説を行って欲しいものです。そうでなければ気象協会が用意した原稿を単に読み上げるだけの方が、視聴者には誤解を与えずに済むことでしょう。
 写真は丈が伸び始めた稲の間を泳ぎ回ってドジョウや小さなザリガニなどを啄(ついば)むカルガモたちです。稲がもう少し伸びると田圃の中で姿を見つけることは難しくなるでしょう。(了)

  わらうてはをられずなりぬ梅雨の漏 森川暁水

○トマトと赤茄子2--夏野菜2009/07/26

 明治も中頃生まれの老婆がトマトを指して赤茄子と呼んだことはすでに述べた。この呼称は子どもの頃の遠い記憶となって耳の奥に微かだが残っている。トマトの原産地は南米のペルーかエクアドル辺りだと物の本には記されている。それをスペイン人がまずヨーロッパに運んで普及させ、ついで東インド貿易の発展に伴って東南アジアへ持ち込んだ。そう見るのが至当だろう。種子は小さな粒々で保存が利き、繁殖力も強い。普及に造作も手間も掛からなかった。問題は栽培技術だけだろう。ミニトマトに比べると普通のトマトには気むずかしいところがある。
 この赤茄子よりも古い呼称に蕃茄(ばんか)がある。蕃は繁に由来する字で、草の生い茂る意を表し、転じて未開・未教化の意となり、文明の未だ明らかでない異民族などを指すようになった。つまりもっぱら蛮と同義の字として、正体のよく分からないものや不都合なものを指すときに用いられた。蕃語と言えば異人語であり、蕃書は欧米の書物であった。サツマイモは甘藷とも呼ばれるが、蕃藷と呼ばれたこともある。
 トマトは野菜ではあるが、果物の趣も有している。茎などに独特の臭いがある一方でその実には甘さも感じられる。渡来地は南蛮である。蕃の字を冠するに十分な特徴を備えている。赤茄子は明治になって本格的な栽培が始まるに際し、いくら何でも蕃茄では誰も食べようとはしまいと採用した改称と見るのが妥当だ。それでも普及には長い時間が掛かり、全国的に広まったとされる昭和に入ってもなお先の老婆の例に見るように偏見や迷信がまかり通っていたのである。
 写真はトマトの花である。色はともかく、遠くで茄子の花を感じさせるものがあることも確かだ。(了)

●月(つきへん・4画) 12009/07/26

はじめに
 日本国憲法が米国の占領政策に基づく「押しつけられた憲法だ」と主張する人々が今、日本国内にどれくらいの勢力を占めるかは知らぬが、この人達が例えば漢字制限の問題や仮名遣いについて同様の主張をしないのは大変不思議な気がする。なぜなら現在の常用漢字に連なる戦後昭和21年(1946)11月内閣告示の当用漢字表は、第一次米国教育使節団報告書に基づく連合国軍の占領政策の下で実施されたものであり、漢字の全廃と日本語のローマ字化を目的にしていたからである。
 漢字の使用が日本人の教育を妨げ日本の民主化を遅らせているとする教育使節団の一方的な見方を前提に強権的に推し進められた占領政策に、幕末以来文部省内に存在した漢字制限を目指す議論が悪乗りする形で急遽つくりあげたものが当用漢字である。ひとつひとつの漢字についてその成り立ちや字義などを学術的に検証することなく、単に慣用的に使われているというただそれだけの理由で俗字を採用したり、正字の便宜的な代用にすることを内閣が告示によって国民に半ば強制したのである。占領政策が文化政策にまで及ぶことの問題点が何故60年以上も曖昧にされたままなのか不思議でならない。
 今回は「つきへん」をとりあげたが、漢字について多少の知識を持つ人であれば、では「にくづき」はどうするのだろうと疑問を抱くに違いない。戦後の新字体の強制で不明確になったのは実は「にくづき」だけではない。もうひとつ「ふなづき」と呼ばれるものがあることはあまり知られていない。新字体では「つきへん」に統一されてしまった漢字の成り立ちと構成要素について3回に分けて解説する。

1.ふなづき
 呼称の由来は部首である月の字が夕月や肉月ではなく、舟の字にあるとするものである。上図の左が舟月、右が篆文(大徐文)に記された月の字である。部首としての舟月に属する漢字は多くない。舟偏という部首が別にあるため、舟も船もここには属さない。
 誰でも知っているのは朝(チョウ)だが、朕(チン)も明治大正と昭和13年頃までの「教育勅語」世代には馴染みのある文字だろう。もっとも記憶しているのは単なる「チン」という音だけかも知れない。それはさておき、朕は天子の自称でもある。朝は朝廷を表している。そう考えると、舟月は戦後の日本民主化の過程で抹殺されたか、あるいは国体護持派によって密かにその正体を曖昧にされたと見なすことも可能になる。こんな穿った見方もできるほど漢字制限政策としての当用漢字表の告示は粗雑な内容を含んでいた。
 朝は元は艸(ソウ)の間に日を挟む会意文字で、草原に太陽が昇るさまを表している。それが後に艸の部分が省略形の十に変わり、それに岸に至る潮の流れるさまをかたどった人に似た形を加えて夜明けの満潮を表すものに変わり、潮の字の始まりとなった。ところが後に篆文では誤って潮の流れるさまに舟を足してしまったことから今の朝が出来上がったと言われる。なお朝が朝廷を意味するのは古代のまつりごとが朝日を迎えて行うという習わしに由来するものである。
 朕の古い字形を篆文で見ると舟月に火と廾を縦に並べている。舟を造る意との説もあるが、むしろ舟を川上に向かって押し上げてゆく遡るの意だろう。それが自称代名詞に用いられて「われ」の意となり、さらに蓁代以降はもっぱら天子の自称として使われるようになった。他に「きざし」の意もあり、朕兆の熟語が知られる。なお旧字体は天の上が八である。

○蛇苺--盛夏2009/07/26

 食べられるとか食べることができるは「食べても害がない」という程度の意味であって、それが美味いか不味いかなど味に関わることには一切触れていない。この蛇苺もそういう類の食べられる植物である。未だ口にしたことはないし、親からは食べるなと教えられてきた。これが食べられることを知ったのは社会に出てから買い求めた図鑑の記述による。実際に食べたことのある人に出会ったのは、それからさらに数年後であった。
 今でも春の花はなかなか可憐だと思うが夏の実はお世辞にも綺麗だとも口にしたいとも思わない。先入観がそうさせるのかも知れないが、どこかに嫌いな蛇に通じる不気味なものを感じてしまう。という話をしたら、これを食べたという人は笑っていた。だが決して嬉しそうではなかった。

 水くらく石なくる也蛇いちご 驢上