○露草(3)--野の花々 ― 2009/08/08
露草は「万葉集」にも9首が登場する。列島の先人達には馴染みの深い花だったと言えよう。但し呼称は「つゆくさ」ではなく、万葉仮名では月草または鴨頭草と記録されている。今日は、この「つきくさ」の正体を探ってみたい。まずは坂上大嬢(さかのうえのおおいらつめ)が大伴家持に贈った相聞歌から紹介しよう。
月草のうつろひやすく思へかも我が思ふ人の言も告げ来ぬ
これらの歌を目にしてすぐに気づくのは「うつろふ」あるいは「うつろひ」という言葉である。これが9首中5首に登場する。一緒に詠まれているのは「思ふ」「色」「心」などである。つまり、この時代の露草は「うつろひやすいもの」の象徴であったことが分かる。その意味はひとつには露草が朝咲いても夕には萎れて散ってしまうことだろう。それを次の相聞歌が示している。
朝咲き夕は消ぬる月草の消ぬべき恋も我れはするかも 不知詠人
しかし変りやすいと思われた原因は他にもあった。露草で染めた青が綺麗な色である反面、褪色の激しい色とも考えられていたことである。それを教えてくれるのが次の相聞歌である。(つづく)
月草に衣色どり摺らめどもうつろふ色と言ふが苦しさ 不知詠
月草のうつろひやすく思へかも我が思ふ人の言も告げ来ぬ
これらの歌を目にしてすぐに気づくのは「うつろふ」あるいは「うつろひ」という言葉である。これが9首中5首に登場する。一緒に詠まれているのは「思ふ」「色」「心」などである。つまり、この時代の露草は「うつろひやすいもの」の象徴であったことが分かる。その意味はひとつには露草が朝咲いても夕には萎れて散ってしまうことだろう。それを次の相聞歌が示している。
朝咲き夕は消ぬる月草の消ぬべき恋も我れはするかも 不知詠人
しかし変りやすいと思われた原因は他にもあった。露草で染めた青が綺麗な色である反面、褪色の激しい色とも考えられていたことである。それを教えてくれるのが次の相聞歌である。(つづく)
月草に衣色どり摺らめどもうつろふ色と言ふが苦しさ 不知詠
○今日の朝顔(1)--盛夏 ― 2009/08/06
明日は立秋、朝顔を秋の七草に数える習わしは山上憶良が詠んだ「秋の花」と題する歌2首に始まる。「万葉集」には次のように記されている。しかし朝顔は現在では誰もが夏に咲く花と考えていて、これを秋の季題とする説には異論も多い。
其の一 秋の野に咲きたる花を指折りかき数ふれば七種の花
其の二 萩の花尾花葛花なでしこの花をみなへしまた藤袴朝顔の花
この憶良の歌については桔梗説が妥当としても、万葉集に詠まれたアサガホという言葉の全てが特定の植物を指すものと一律に解釈する考え方には賛成できない。日の出とともに美しく咲き出す花を広くそう呼んだものも当然含まれていよう。そう見なす方が安全である。すでにムクゲの項において述べたとおりである。
⇒http://atsso.asablo.jp/blog/2009/07/31/ 木槿花びっくり
来週火曜日11日から29日まで、このブログも夏休みに入る。そこで今日から10日まで毎日、他の記事に混じるが現代の朝顔の様子をお目にかけようと思う。
其の一 秋の野に咲きたる花を指折りかき数ふれば七種の花
其の二 萩の花尾花葛花なでしこの花をみなへしまた藤袴朝顔の花
この憶良の歌については桔梗説が妥当としても、万葉集に詠まれたアサガホという言葉の全てが特定の植物を指すものと一律に解釈する考え方には賛成できない。日の出とともに美しく咲き出す花を広くそう呼んだものも当然含まれていよう。そう見なす方が安全である。すでにムクゲの項において述べたとおりである。
⇒http://atsso.asablo.jp/blog/2009/07/31/ 木槿花びっくり
来週火曜日11日から29日まで、このブログも夏休みに入る。そこで今日から10日まで毎日、他の記事に混じるが現代の朝顔の様子をお目にかけようと思う。
○木槿花びっくり--盛夏 ― 2009/07/31
ムクゲについて、これを無垢の花と言い切って何の疑問も湧かない程に白が眩しく感じられると書いた。しかし辞書つくりの先人達はどうも白には関心がなかったようだ。やれ木槿(モクキン)の字音が転化したものだとか方言に由来する呼称だなどと書いている。契沖先生の「万葉代匠記」までこの有様では、先人達は植物や花そのものを見ることなく単に机上で文献だけを眺めて考察したのかと疑わざるを得ない。考察が安易に過ぎている。
古代においてムクゲはアサガオと呼ばれたこともあったと記すものが多い。本欄でもたびたび引用する「名義抄」に「シュン(草冠+舜)、キバチス・アサガホ」とあるのがその根拠になっている。シュンは草冠なしの舜を使うこともあり、舜英はムクゲの花の意である。キバチスは木蓮の意であり、ハスの花に似た花を付ける木か、またはハスの花のように花を咲かせる木という意だと解される。なおアサガホを今のアサガオと考える必要はない。日の出とともに美しく咲き出す花を広く呼んだものであろう。
そう考えて「万葉集」に登場するアサガホを改めて点検すると、ムクゲと見るのは難しいことに気づく。いずれ朝顔を取り上げる際に詳しく述べることにして、ここではその根拠だけを示しておこう。山上憶良が詠んだ秋の花にアサガホが登場し、萩の花や尾花などと合わせて秋の七草と呼ばれたことは広く知られている。この歌のアサガホについては桔梗と考える説が有力である。ところが同じ「万葉集」でも次の歌になると、これを桔梗と見なしてよいかどうかはさておき、少なくとも夕方には萎むムクゲの花でないことは明白だ。夕影とは夕方の光のことである。
朝顔は朝露負ひて咲くといへど夕影にこそ咲きまさりけれ 不知詠人
古代においてムクゲはアサガオと呼ばれたこともあったと記すものが多い。本欄でもたびたび引用する「名義抄」に「シュン(草冠+舜)、キバチス・アサガホ」とあるのがその根拠になっている。シュンは草冠なしの舜を使うこともあり、舜英はムクゲの花の意である。キバチスは木蓮の意であり、ハスの花に似た花を付ける木か、またはハスの花のように花を咲かせる木という意だと解される。なおアサガホを今のアサガオと考える必要はない。日の出とともに美しく咲き出す花を広く呼んだものであろう。
そう考えて「万葉集」に登場するアサガホを改めて点検すると、ムクゲと見るのは難しいことに気づく。いずれ朝顔を取り上げる際に詳しく述べることにして、ここではその根拠だけを示しておこう。山上憶良が詠んだ秋の花にアサガホが登場し、萩の花や尾花などと合わせて秋の七草と呼ばれたことは広く知られている。この歌のアサガホについては桔梗と考える説が有力である。ところが同じ「万葉集」でも次の歌になると、これを桔梗と見なしてよいかどうかはさておき、少なくとも夕方には萎むムクゲの花でないことは明白だ。夕影とは夕方の光のことである。
朝顔は朝露負ひて咲くといへど夕影にこそ咲きまさりけれ 不知詠人
○捩花--梅雨明け(1) ― 2009/07/14
気象庁は14日、関東甲信地方が梅雨明けしたとみられると発表した。本州では一番早い。昨年と比べて5日早く、平年よりも6日早いことになる。しかしこれはあくまでも現時点での予測であって、後から「ごめんなさい」がないとも限らない。
民間には梅雨明けを占う言葉がいくつか伝わっている。このネジバナを使ったものもあって、てっぺんまで咲き終えると梅雨明けと聞いた。庭には毎年たくさんのネジバナが顔を出す。6月の初めから咲き出し、早いものは下旬には咲き終える。しかし、まだ暫く楽しめそうなのも残っている。ネジバナを見ているだけでは気象の予報はできそうにない。
これが蘭(らん)の仲間であることはカメラを近づけると分かる。しかし精々15センチかそこらの花だから撮影には苦労する。毎年、何回もシャッターを押してきたが、まだこれはという写真は撮れていない。物の本には植物の丈を30センチなどと書いたものも見かける。そんな大物にはまだ遭ったことがない。
みちのくの しのぶもじずり 誰ゆえに 乱れ初めにし われならなくに 河原左大臣源融
民間には梅雨明けを占う言葉がいくつか伝わっている。このネジバナを使ったものもあって、てっぺんまで咲き終えると梅雨明けと聞いた。庭には毎年たくさんのネジバナが顔を出す。6月の初めから咲き出し、早いものは下旬には咲き終える。しかし、まだ暫く楽しめそうなのも残っている。ネジバナを見ているだけでは気象の予報はできそうにない。
これが蘭(らん)の仲間であることはカメラを近づけると分かる。しかし精々15センチかそこらの花だから撮影には苦労する。毎年、何回もシャッターを押してきたが、まだこれはという写真は撮れていない。物の本には植物の丈を30センチなどと書いたものも見かける。そんな大物にはまだ遭ったことがない。
みちのくの しのぶもじずり 誰ゆえに 乱れ初めにし われならなくに 河原左大臣源融
◎アジサイ回顧(7)--夏便り ― 2009/06/30
玉衣のさゐさゐしづみ家の妹に物言はず来にて思ひかねつも
次は「さゐ」の検討です。上掲の一首は柿本人麻呂による相聞歌です。やはり「狭藍」が詠み込まれ、「狭藍左謂沈」と記されています。大槻は「さゐ」を「さあゐ」からの転としていますが、契沖の言う「さゐ」も恐らくは「さあゐ」から転じたものでしょう。藍(あゐ)は青(あを)と同根の言葉です。つまり同じ青系の色を「さゐ」とか「さあゐ」と呼んでいたのです。人麻呂の「さゐさゐしづみ」も同じ青系の色を詠んだものでしょう。それを今風に言えばブルーな気持の象徴として使ったのです。
大槻の言う「真藍」と契沖の言う「狭藍」の違いは万葉仮名として用いられた「真」と「狭」の違いだけです。これが青の色味として、目の前のアジサイにどれくらいの色の差を要求するかは残念ながら不明です。「さ」は狭衣、狭霧、狭織、狭筵、狭山、小筒、小鳴き、小百合、小夜、小夜中など多くの言葉の接頭語として用いられています。それらの中には少し、小振りといった解釈が適用できそうな例もありますが意味不明のものもあって、差の有無も色味についても軽々に論じることは困難です。これらの微妙な差は、記事と一緒に掲載した水色系のアジサイたちをご覧になればお分かりいただけると思います。
これで今年のアジサイ関係の記事は全て終了します。最後にご紹介するのは一輪で一度に七変化を演じる西洋アジサイです。撮影日は今月2日の早朝でした。(完)
次は「さゐ」の検討です。上掲の一首は柿本人麻呂による相聞歌です。やはり「狭藍」が詠み込まれ、「狭藍左謂沈」と記されています。大槻は「さゐ」を「さあゐ」からの転としていますが、契沖の言う「さゐ」も恐らくは「さあゐ」から転じたものでしょう。藍(あゐ)は青(あを)と同根の言葉です。つまり同じ青系の色を「さゐ」とか「さあゐ」と呼んでいたのです。人麻呂の「さゐさゐしづみ」も同じ青系の色を詠んだものでしょう。それを今風に言えばブルーな気持の象徴として使ったのです。
大槻の言う「真藍」と契沖の言う「狭藍」の違いは万葉仮名として用いられた「真」と「狭」の違いだけです。これが青の色味として、目の前のアジサイにどれくらいの色の差を要求するかは残念ながら不明です。「さ」は狭衣、狭霧、狭織、狭筵、狭山、小筒、小鳴き、小百合、小夜、小夜中など多くの言葉の接頭語として用いられています。それらの中には少し、小振りといった解釈が適用できそうな例もありますが意味不明のものもあって、差の有無も色味についても軽々に論じることは困難です。これらの微妙な差は、記事と一緒に掲載した水色系のアジサイたちをご覧になればお分かりいただけると思います。
これで今年のアジサイ関係の記事は全て終了します。最後にご紹介するのは一輪で一度に七変化を演じる西洋アジサイです。撮影日は今月2日の早朝でした。(完)
◎アジサイ回顧(6)--夏便り ― 2009/06/30
大槻の約転説を採るためにはその裏付けとなる証拠が必要です。直接の証拠は見つからなくても傍証ぐらいは必要です。しかし如何せんこの約転は万葉以前に起きたものです。つまり証拠となるものを先人の記録から見つけ出すことは不可能な時代の話です。まだ日本では文字というものを知らなかった時代の出来事です。
もっとも万葉以後であれば約転の例を見つけ出すことは容易です。例えば「今昔物語」に「世の中をあぢきなしと思ひ取りて出家しけり」とある「あぢきなし」は、万葉の時代には「あづきなし」と言われていました。万葉集には3首登場し、それぞれ「小豆鳴」「小豆奈九」「小豆無」と記されています。この続き(最終回)は20時過ぎに掲載します。
もっとも万葉以後であれば約転の例を見つけ出すことは容易です。例えば「今昔物語」に「世の中をあぢきなしと思ひ取りて出家しけり」とある「あぢきなし」は、万葉の時代には「あづきなし」と言われていました。万葉集には3首登場し、それぞれ「小豆鳴」「小豆奈九」「小豆無」と記されています。この続き(最終回)は20時過ぎに掲載します。
◎アジサイ回顧(4)--夏便り ― 2009/06/28
万葉の花あぢさゐの呼称については古くから多くの先人たちが関心を寄せてきました。しかし現在の研究水準から見て解釈に比較的無理が少ないと感じるのは万葉仮名の「味狭藍」を基にした契沖の説です。契沖は今から300年以上も前の江戸時代前期に活躍した国学者です。和歌の道でも知られる人です。契沖の万葉集研究は徳川光圀の依頼によるものと言われます。光圀は水戸の黄門様で知られる水戸藩主のことです。「大日本史」の編纂を命じた後、日本文化の源流を探る上で万葉集の研究が欠かせないものと考えたのでしょう。
契沖はその著「万葉代匠記」および「和字正濫鈔」の中で「狭藍」を青色と見なし、「味」はそれを誉め称える言葉ではないかと唱えています。つまり「安治佐為」と「味狭藍」の差に注目し、表記の変化に万葉人の用字法の進化を見たのです。この説はその後、海北若冲(かいほくじゃくちゅう)の「万葉集類林」や谷川士清(ことすが)の「和訓栞」(わくんのしおり)によって支持されます。しかし「味」の解釈については、今日に至るまでまだ明快な答は出ていません。(つづく)
契沖はその著「万葉代匠記」および「和字正濫鈔」の中で「狭藍」を青色と見なし、「味」はそれを誉め称える言葉ではないかと唱えています。つまり「安治佐為」と「味狭藍」の差に注目し、表記の変化に万葉人の用字法の進化を見たのです。この説はその後、海北若冲(かいほくじゃくちゅう)の「万葉集類林」や谷川士清(ことすが)の「和訓栞」(わくんのしおり)によって支持されます。しかし「味」の解釈については、今日に至るまでまだ明快な答は出ていません。(つづく)
◎名残のアジサイ(4) ― 2009/06/27
◎アジサイ回顧(3)--夏便り ― 2009/06/21
下野(しもつけ)や籬(まがき)にまじる紫陽花の四葩(よひら)に見れば八重にこそ咲け 藤原光俊
注意していただきたいのは、ふたつの歌に詠み込まれている「八重」の意味です。崇徳院の場合も光俊の場合も、現代の人々が考えるような意味での「八重咲き」ではありません。当時としてはごく普通だった四葩のアジサイを詠っているのです。今風に言えばヤマアジサイかサワアジサイの歌です。それが月明かりのせいで八重に咲いているように見える(崇徳院)とか、四葩に見えるけれども八重に咲いて欲しいものだ(光俊)と詠んでいるのです。諸兄の場合も、「いずれの日かアジサイにも八重に咲く日が来るように」という意味なのです。
今年も日本列島の各地で、色も咲き方も様々なアジサイの花が私たちを楽しませてくれました。これほどまでに普及し愛される草花の背景には、万葉人の時代から連綿と続く美しいものに対する憧れと豪華な八重咲きへの強い期待があるのです。何よりもそれを教えてくれるのが、これらの歌ではないでしょうか。
アジサイの季節は峠を越えました。そのため色はどうしても紫が勝ります。初々しい清純な薄い青や水色の花を好まれる方は今月初めに時計を戻して、その頃の記事をご覧ください。さあ残るはいよいよ「あぢさゐ」の呼称だけとなりました。掲載は28日の予定です。
注意していただきたいのは、ふたつの歌に詠み込まれている「八重」の意味です。崇徳院の場合も光俊の場合も、現代の人々が考えるような意味での「八重咲き」ではありません。当時としてはごく普通だった四葩のアジサイを詠っているのです。今風に言えばヤマアジサイかサワアジサイの歌です。それが月明かりのせいで八重に咲いているように見える(崇徳院)とか、四葩に見えるけれども八重に咲いて欲しいものだ(光俊)と詠んでいるのです。諸兄の場合も、「いずれの日かアジサイにも八重に咲く日が来るように」という意味なのです。
今年も日本列島の各地で、色も咲き方も様々なアジサイの花が私たちを楽しませてくれました。これほどまでに普及し愛される草花の背景には、万葉人の時代から連綿と続く美しいものに対する憧れと豪華な八重咲きへの強い期待があるのです。何よりもそれを教えてくれるのが、これらの歌ではないでしょうか。
アジサイの季節は峠を越えました。そのため色はどうしても紫が勝ります。初々しい清純な薄い青や水色の花を好まれる方は今月初めに時計を戻して、その頃の記事をご覧ください。さあ残るはいよいよ「あぢさゐ」の呼称だけとなりました。掲載は28日の予定です。
◎アジサイ回顧(2)--夏便り ― 2009/06/21
次は、橘諸兄によって「やへさくことく」と詠われたアジサイがいったいどんな種類の花だったのかという謎についてです。初めてお読みになる方は下記の記事も参考になさってください。
⇒http://atsso.asablo.jp/blog/2009/06/14/ 漢名探し(4)
万葉時代のアジサイがいわゆるガクアジサイではなく、ヤマアジサイであることは既に指摘しました。しかし八重と聞いて多くの人が浮かべるのは、(1)に掲載したような西洋アジサイです。これがもし万葉時代から日本に存在したとなると、アジサイの歴史は根本的に変わってしまいます。この問題を考えるとき参考になるのが「夫木和歌抄」に収められたアジサイの歌です。まず崇徳院の歌からご紹介しましょう。
紫陽花の四葩の八重に見えつるは葉越しの月の影にこそありける 崇徳院
もうひとつは藤原光俊の歌です。万葉から400年ほど後の、崇徳院と同じ頃に詠まれた作品です。この続きは本日18時頃に掲載します。
⇒http://atsso.asablo.jp/blog/2009/06/14/ 漢名探し(4)
万葉時代のアジサイがいわゆるガクアジサイではなく、ヤマアジサイであることは既に指摘しました。しかし八重と聞いて多くの人が浮かべるのは、(1)に掲載したような西洋アジサイです。これがもし万葉時代から日本に存在したとなると、アジサイの歴史は根本的に変わってしまいます。この問題を考えるとき参考になるのが「夫木和歌抄」に収められたアジサイの歌です。まず崇徳院の歌からご紹介しましょう。
紫陽花の四葩の八重に見えつるは葉越しの月の影にこそありける 崇徳院
もうひとつは藤原光俊の歌です。万葉から400年ほど後の、崇徳院と同じ頃に詠まれた作品です。この続きは本日18時頃に掲載します。
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